私は本年六十一歳になりました。丹波国南桑田郡曽我部村大字穴太小作農上田吉松の伜として明治四年陰暦七月十二日見るもささやかな破家に産声をあげたのです。七八歳頃からのことは朧気ながら記憶して居ますが、それ以前のことは少しも覚えて居りませんから如何ともすることは出来ません。只幼少の時の記憶を辿つて僅にその一小部分を歌に詠んで発表しました。
見るもいぶせき水呑百姓の伜で、小学校時代から種々の圧迫や虐げを中産以上の児童や百姓連や地主から受け随分慷慨悲憤の涙を搾つて来たものです。その頃の地主と小作人の関係は今日から見れば比較にならない程の惨めなものでありました。地主は小作人に対しては全然暴君そのものの様であり、貧乏人を軽蔑することは実に現今人の想像も及ばない位です。故に私も若い時は随分自暴自棄になつたり徒ら遊びをして無念を晴らさうとしたものです。大抵のことは拙著霊界物語舎身活躍子、丑の巻に記述しておきましたが、それに漏れたものや記憶に著しい事件を三十一文字に散文の代用として詠んでありますので、もとより歌の調だとか巧拙だとかには留意せず、可成的解り易き様にと平易に述べ歌つておきました。本歌集は昭和五年八月より大本機関雑誌『真如の光』仝六年四月までに毎月三回宛発表したのを集めたものです。今後は続篇を『夢の国』と題して著はすことにしておきました。この『夢の国』は私が高熊山に神示の修行中見聞した霊界の消息を歌つたもので、そして『霊界物語』に未発表の神秘のみが歌つてあるのです。又本集『故山の夢』は私の十歳頃から二十八歳高熊山の修行の一部を歌つたもので、これも霊界物語の拾遺と謂つても可いやうなものです。エロ、グロの歌もありますが、決して虚談ではありませぬ。要するに罪亡ぼしの心持で自己暴露をやつて居るのみですが、私の若き日の行動を見て信仰を止めるやうな人はそれだけの因縁だから包まず隠さず記しておきました。歌としては価値なきものか知りませんが、私の半生の紆余曲折波瀾重畳の歴史として読んで貰へば幾分かの参考資料になるかも知れません。
私は元来楽天主義ですから、余り惨怛たる場面と雖もさう酷しい感じは表はれて居ないだらうと思ひます。
昭和六年八月
出口王仁三郎