昨秋父が歌壇進出の第一歩を踏み出すと共に現代歌人間に於て異常なるセンセーシヨンを捲き起したことは既に世人の知るところであるが、当時父が歌をやると云ふことを聞いた歌人等には、丹波亀岡の法城に衣冠束帯物々しく、金襴の簾の奥に傲然と構へ込んで、所謂聖人君子然たる作歌態度で、玉鉾百首か修養道歌めいたものでも作つて居るかのやうに想像されて居たらしい父が、意外にも人間味豊かな作品を示し、各歌壇結社の歌会には片つ端から出席して、主宰者に対して師の礼をとることなぞに、歌壇人たちをすつかり驚かしてしまつたことであつた。
ところが茲に又一つ、この歌集『故山の夢』によつて全国の歌人、或は読者たちを驚かさねばならない。
この歌集は、幼年から青年に至るまでの父の足跡である。皆生証人を挙げ得る父の実際の閲歴である。偽り飾りの一つもないありのまんまである。
父の過去には、無邪気な茶目もあり、愛欲の生活もあり、一小作の地主への憤懣もあり、慨世憂国の義憤もあつたことを知るであらう。
就中、父を木仏金仏視してゐた人たち、並びに世間の宗教家、教育者たちを驚かすものは父の半生を彩る愛欲の歌であらうと思ふ。
兎角宗教家教育家等は、行ひすました自分の美点ばかりを見せたがるやうだ。
然るに父には決してそれがない。
何もかも明けつぱなしなのである。
初対面の人にいきなり昔の女の話をする位は至極穏な方である。私たち家の者がみなハラハラしてゐるのだ。
衆人の師表に立つもので、これだけ大胆に自己暴露の出来るものはこれまでに嘗てなかつたであらうと思ふ。其処に私は金剛不抜の神への信仰と、大磐石の強い自信とを父から窺ひ知ることが出来る。
釈迦も孔子もナポレオンも太閤も偉かつたらうが、これだけの勇気と自信の素晴らしさとを私は見ない。
大本信者はこうした父を知れば知るほど、それが為に離れゆく者は只の一人もないのである。寧ろそれがために信仰を深め、父を信頼する結果を見る。又この歌によつて見る通り、父の家は貧しく地主の無法な搾取に、既に幼少からして苦しめられ、一人前に労働が出来る年になるやならずの時から既に窮乏と労役にたたきのめされてゐるにも関らず、父は決して魂を傷つけてゐない。馬鹿な自暴自棄や、無謀な反逆やらは、いささかの影すらも見ない。困苦の中にありながら常に遠大な理想と、明るい希望と、そして軽快なるユーモアを持ちつづけて今日に至つてゐる。どんなドン底に蹴落されても転がされても、父は常に上を向いてゐる。後年蒙古に於て、支那の軍隊のために一列横隊に並ばされて、片つ端から銃殺されんとした際、自分の辞世歌を詠んだが未だ順番が来るまで一寸時間があつたから、人の辞世まで代りに詠んでやつたりしてゐるなぞ、悲壮の中に多分なユーモアを最後の一瞬までも持ちつづけてゐるのである。
とまれ父の歌については、小さな小手先のテクニツクを批評云々すべき性質のものでなく、その全体から湧出し、放散するアトモスフイアを感じ、父の人格の一部分を知つて頂けばよいと思ふ。
昭和六年七月二十日
梅雨明けやらぬ東京にて
出口寿賀麿