二十八歳の頃
秋ふかき朝なりにけりわれ一人園部大橋に立ちて霧見る
深霧の中よりほのぼの近み来る人は井上獣医なりけり
お早ようと挨拶すれば井上は神にとぼけて居るかとにらむ
かむながら神の大路を進む身ぞみ国の為めとわれはいらへり
なまくらな逃げ口上は聞かないと井上われをどなりて過ぐる
井上の帰りを待ちて彼が家を橋のたものとにおとなひにけり
橋下の金光教会と軒ならべ井上は此処に住みてありけり
教会も持たぬ身にして神の道説くはをかしと井上あざける
小つぽけな金光教会が何になる吾ゆく先を見よかしといふ
獣医学牧畜業を中途にてやめるやからに何が出来るか
かむながら真の道と営利事業と一緒にするは無理解なるべし
金なくて人はこの世にたてるかと拝金主義の井上はいふ
信仰が徹底すればおのづから金は神より賜ふべきもの
神様を拝んで金が出来るなら俺は獣医をやめるとわらふ
敬神家と拝金主義者とは根本に意見があはぬとわれいひ放つ
それほどに嫌ひな拝金者の家に何故出てうせたと額の青筋
金儲けするもよけれど神様の道をさとるも悪くはあるまい
神様の事ならとつくに知つてゐる釈迦に経をば説くなと怒る
金銭の奴隷を止めて神様のつかひとなれる喜楽さんだよ
こら喜楽何をぬかすといひながら金槌ふり上げ追つかけ来たる
畜生の医者には相手にならないと尻たたきつつ逃げ出しにけり
井上は馬鹿よばかよと大声を張りあげながら呶鳴りてゐるも
井上はわれとの間隔約半丁顋をしやくりて吾はわらひぬ
こん畜生あごをしやくつて嗤うたと井上怒つてまた追ひかける
大橋を南にわたり本町の奥村かたに逃げ入りにけり
奥村商店
奥村の家にひそみてふるひ居れば井上棍棒うちふり来たる
この家に逃げた畜生つき出せと井上店にたちてどなれり
この家に畜生なんか居らないと奥村主人逆襲して居り
井上はぶつぶつ叱言いひながら不承不承にこの家を出でゆく
井上が帰りしと聞き胸撫でてありし次第を主人に語る
井上は少し発狂の気味にして時どき人を追つかけるといふ
奥村のはなれ座敷の窓開けて井上の家川むかふに見る
井上はわが姿見て怒りたち猟銃とり出しねらひ出したり
驚きて窓を閉せば間もあらずどんと一ぱつ猟銃のおと
黒田に移転
発狂の井上をれば園部町は危険なりとて黒田にうつる
園部村黒田の西田宇之助が座敷を借りて移り住みたり
七十余戸の黒田の里人悉くわが説く道をうべなひにけり
この里に臨時会合所をひらき神を斎きて人をみちびく
遠近の人びと次ぎつぎ訪ね来てその応接に忙殺されたり
若森の里
宇之助の妹わさ子が嫁入れる若森の里にたのまれてゆく
若森の中井太一氏の家に入り瀕死の病人に鎮魂をなす
鎮魂のいさをたちまちあらはれて大病人は全快なしたり
霊顕はいやちこなりと村むらの人次ぎつぎに詣で来たれり
訪ひ来たる人しげければ中井家はありがた迷惑の姿なりけり
里人は集ひにつどひ相はかり竹村かたに会合所をおく
有難迷惑
朝夕を集ひ来たりていろいろと吾為め世話する婦人ありけり
この婦人うるさきことのみ云ひ出して神に仕ふるわれをこまらす
気の小さいひらけぬ神といひながら婦人は袂で涙ふき居り
気の小さい神様ならねど修行の身許したまへと吾はことわる
諾冊の二尊の故事を引出していと猛烈にわれにせまれり
神様になるまで許したまはれよ諾冊二神はまことの神様
婦人『嫌なればいやときつぱり云ひ給へ神様だしにことわらずして』
いやといへば信仰おとさむ好きといへばのつぴきならぬ吾となるべし
神様はあはれな一人のこの女見殺さるかと吾につめよる
見殺しにする気はあらず今日のわれを許せゆるせとひたにわびたり
痛く無い腹
両人の問答最中に竹村は野良よりかへりて苦笑ひする
竹村『こりやおさと早く去なぬか上田さんあやしい事をしてはいけない』
この女何といつても帰らない私は実にこまつて居ますよ
困つてるソリヤさうだらうと竹村はいやらしき笑湛へて笑ふ
くせの悪い女なる故出戻りの恥知らぬ奴と竹村がいふ
上田さんとおさとの噂が村中にパツとひろがりこまると怒る
会合所は今日から断り申します早く帰つて下さい黒田へ
迷惑をかけてはすまぬ今日よりは直ぐに帰るときつぱり答ふる
里人の意見を聞いたその上で帰つてくれよと袖ひきとめる
ことわりを云はれた家には半時も私は居らぬと無理にたち出づ
里人は次ぎつぎ吾を訪ね来てなだめつすかしつ止めむとぞする
この家をたち出で中井忠次氏の家に到りてしばしを休らふ
里びとは竹村の言を憤ほり吾をなだめて止めむとすも
若森会合所
里人の頼みによりて忠次氏の館に会合所をばうつせり
里人にそばまれおさとはこの日より会合所へは出入をなさず
若森や黒田の里をゆきかひてわれ二十八の冬は暮れたり
あたらしき年を迎へて若森の会合所にて元旦を祝ふ
半国の山よりおろす雪の風にあふられ寒し若森の春は
天引峠の夜
病人の家をおとづれ帰るさを天引峠に日を暮らしけり
天引のたうげのかたへの辻堂に二人の男火を焚きて居り
この男いやらしき目をむきながらあたつてゆけとぞんざいに云ふ
音に聞く天引峠の泥棒と思へばますますこころおちゐず
こんなことでびくびくしては堪らぬと度胸を据ゑて尻まくりよる
一人の男わが顔凝視してお前は何かとあごでものいふ
われこそは穴太の里の侠客と片肌ぬいでどつかと坐る
ちと俺にお金を貸してくれぬかとそろそろ本音をふき出したり
金なんか持つてゐないと答ふればにやりと笑ひ互にささやく
ふところに二円の金はありながら吾は嘘をばつきて終へり
埴生へゆきて博奕にまけた帰るさよ米代少しくれよとせまる
二両より金は持たぬとわれいへば睾丸なんか要らぬと笑ふ
本当に二円の金はここにあると財布はたきて渡しやりたり
両人は喜び両手にいただきて神の助けと感謝して居り
泥棒の急場をのがれ小夜更けてわれ若森の里に帰れり
若森に深夜帰れば忠次氏は心配したと真顔にかたる
泥棒の出るてふ天引たうげをば深夜にかへる大胆な師よ
泥棒に二円与へて逃げ皈りしと語れば忠次氏胸撫で下せり