野心家の心の寂しさ思ひやり吾は涙に暮れつつ悟せり
一時も早く帰れと言ひすててわれは穴太を指して帰れり
わが家に帰りてみれば株内の治郎松おまさら騒ぎてゐたりき
治郎松はわれを見るよりこら極道目をいからしてかみつきにけり
『おまさ』年寄を家に残してうろうろとお前は不幸な極道息子だ
『おまさ』お祖母さんは今日か明日かの命ぞやもう綾部へは帰しませぬぞや
わが祖母の病気全快するまでは帰りませぬとかたく誓ひぬ
全快をしても死んでも帰さぬと又治郎松ががんばり出したり
産土の神に詣でてわが祖母の祈願をこらせば快方に向ふ
十日ばかり故郷穴太にありながら祖母の病の看護なしたり
わが祖母は日に日に快くなりて早く帰れとうながし給へり
わが祖母は従者木下に相むかひひそかに生活状態を問はせ給ひぬ
喜三郎は難儀をしてはゐませぬかとひそびそ木下に問はせ給へり
御心配要らぬと木下慶太郎祖母の心をなぐさめてをり
快方に向ひたまへど一生の別れと思へば涙こぼるる
両眼に涙たたへてわが祖母は正直にせよと教へたまへり
さやうなら帰つて来ますお達者でと挨拶するも涙声なり
こりや兄貴お前の留守に死なれたら承知はせぬぞとねめつけてをり
懐をしぼりしぼりて十円余の金を渡せば笑み給ふ母
一年も二年も家をとび出してたつた十円かと顋しやくるおまさ
治郎松や由松二人のさまたげをおそれて吾は足早に出づ
十五里の道を徒歩してやうやくに小夜更くる頃綾部に帰る