今回亀岡大道場に於て、皇道大講演会を開く事になりました。併し皇道大本は敬神尊皇報国の大義を唱導する一大教団なるに拘はらず、所も有らうに、逆賊無道主殺しの、不倫不徳の明智光秀の城址を選ぶとは、物好きにも程がある。且又皇道の主義に対しても、何んだか釣合ひの取れない行り方でないか、相成るべくは至聖至浄の地の高天原と称する綾部の霊地に於て、開始されては如何と、知人より種々忠告を受けた様な次第であります。講習の諸氏も亦是と御同感の方々がお有りであらうと思はれます。
それは兎に角として、私は序ながら明智光秀に就て、一言述べて見たいと思ひます。光秀が日向守と称し姓を惟任と改められたのは、織田信長公に仕へてから後のことであります。光秀の祖先を調べて見ると、清和源氏の末裔なる、六孫王経基の子多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫であつて、伊賀守光基と云ふ人があつた。其子の光衡が文治年中、源頼朝より美濃の地を賜ひ、土岐美濃守と称した。その光衡が五世の孫、伯者守頼清其の二子に頼兼なる人があつて、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛の尉光継で光秀の祖父に相当り、光秀は光綱の一子であります。この光綱と云ふのは美濃国可児郡明智の城主で、明智下野守と称へたが、早世したので光秀が尚幼弱なために、光綱の弟兵庫助光康を準養子として、明智を相続せしめたのであります。光康は後に宗宿入道と称した人で、有名な明智左馬之助光春は此人の子であります。故に光秀は其の叔父なる光康に養はれて成人したもので、光康は実父にも優る恩人である。光秀の母徳明院は光綱の死後、間もなく此世を去り(濃州明智蓮明寺に葬る)遺孤として可憐なる光秀は、用意周到なる光康の訓養に依り、幼にして聡明一を聞きて十を知るの明があつたといふ。
光秀は其叔父の光康と共に、明智の城中に於て死せむとするを、光康が強つての乞ひに涙を呑んで、光康の息子光春及び甥の光忠を拉して諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕へ、後織田氏に聘せられて、幾多の戦場に軍功を積現し、左右に策を献じ、信長をして天下に覇たらしめ、自分は又江州丹波両国五十四万石の大諸侯に列し、君臣の間漆の如く密にして、一にも明智二にも光秀と寵遇厚く、信長の甥の信澄に光秀の四女を嬰らしめたる程であつた。一朝にして武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共に稍驕慢の度を加へ、僅少微細のことゝ雖も立腹して功臣光秀を打擲し、家康の饗応にも再び之を罵倒し侮辱を与へ、終にはその近習森蘭丸をして、鉄扇にて其の面を破らしめ、近江丹波五十四万石の領地を召し上げて、以て中国に放たんとするに至つた。忍びに忍び耐へに耐へたる勘忍袋の緒が断れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起るの止むを得ざるに立到らしめたるも、此間深き理由のあらねばならぬ事であらうと思はれる。後世挙つて光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵る、果して是とすべきものであらうか。
長岡兵部大輔藤孝は光秀女婿の父である。『叢蘭欲[#レ]茂秋風破[#レ]之、王者欲[#レ]明讒臣闇[#レ]之』と痛歎し、光秀もまた、
心なき人は何とも云はゝ云へへ
身をも惜まじ名をも惜まじ
と、慨したのであつた。光秀が大義名分を能く明めながら、敢て主君を弑するの暴挙に出づ。已むを得ざる事ありとするも、実に惜むベぎ事である。然し乍ら元亀天正の交は恐れ多くも、至尊万乗の御身を以て、武門の徒に圧せられ給ひ、天下は強者の権に属し、所謂強食弱肉の世の中の実情であつて、九州に島津、四国に長曽我部、毛利は山陰山陽両道に蟠居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達あり、東国には北条等の豪雄があつて、各自に其の領地を固め、織田徳川相合し相和して、近畿並に中国を圧す。群雄割拠して権謀術数至らざるなく陶晴賢は其主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝は其骨肉を殺し、斎藤竜興は父の義竜を討ち、其他之に類する非行逆行数ふるに遑なき時代に際し、独り光秀の此挙あるを難ずるの大にして且つ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりと云ふ事と、戦場が王城の地にして其軍容花々しく、以て人口に会炙することの速なると、加ふるに世は徳川の天下に移り、世襲制度を変ぜしめたる上は、光秀を其侭に付して置く事は、政策上尤も不利益であつたことゝ第二第三の光秀出現せむには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏義なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して批難の声が特に甚しいのではないかとも思はるゝのであります。
承久の昔、後鳥羽院より関東の軍に向つて、院宣を降し玉ひし当時に於て、関東九万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人本間孫四郎只一人より無かつたと云ふ。応仁以降海内麻の如く乱れ、文教のことは纔に僧侶の輩に依りて、支へられしに過ぎなかつた。況んや元亀天正の戦国時代、将軍義照亡びて、世に武門を主宰すベき人物皆無の時に当り、文学に志し君臣父子の大義名分に通ずるの武士、幾人か在つたであらう。
神嶋鎮祠雅興催 篇舟棹処上[#二]瑶台[#一]
蓬瀛休[#二]向[#レ]外尋去[#一] 万里雲遥浪作[#レ]堆
是れ光秀が雄島に参詣されし時の詩作である。臣下を教ふるに当つては、常に大義を説き、主君が築城の地を問ふに対し、答ふるに地の利にあらずして、其の心にありといふが如き、至聖至直の光秀にして、本能寺暴挙のありしは、深き深き免るべからざる事情の存せしは勿論であるが、然し乍ら主殺しの悪評を世に求むるに至りしは、光秀の為に反がへすも残念な事であります。我々は大にその内容を攻究せずして、猥りに世評のみに傾聴すべきものでないと思ふ。独り光秀が行動の是非を沙汰する斗りでなく、又時代観の相違を知るの必要があらうと思ひます。
又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食む如き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜の陣羽織を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を為せし美談のみか、臣斎藤内蔵介の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石と仰がれし烈婦春日局とは此の婦人なりしが如き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の如く立派な祖先を有し、家庭また斯の如く美はしく、且つ家系は宗家の控へとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木、美濃の土岐とて足利歴々の名家である。古歌に
曳く人も曳かるゝ人も水泡の
浮世なりけり宇治の川舟
で、時世時節なれば止むを得ざるとは云へ、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であつたのであります。明智光秀の波多野秀治を丹波に攻めしが如きは、信長の命に依る所である。波多野兄弟等抗する能はずして、軍に降る。信長許して之を安土に召す。兄弟能く信長の性格を知つて容易に到らず。茲に於て光秀は安土に往復し質を入れて誓うた。兄弟は光秀の心を諒して安土に到るや否や、信長は其遅参を詰つて、慈恩寺に於て切腹せしめた。是信長秀治兄弟を欺くのみならず、光秀をも欺いたのである。
太閤記に云ふ、秀治信長の表裏反覆常なきを怒ると雖も、今更為すべき様なし、敷皮に直り光秀に向ひ、儼然として曰く、此頃の御懇切は草陰にても忘れ申さず、但飛鳥尽きて良弓蔵めらるゝと云ヘば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は終に非業の死をなし給ふベし云々。秀治の臣下怒りて光秀の質を殺すも、秀治の此言を聞きては、決して光秀母を殺すと云ふべからず。これ疑ふべからざるの事実である。
然るに中井積善の如きは
『光秀母を餌にして以て功を邀ふ、犬テイも其余りを食はず』とか、又儒者の山形禎なども、『光秀凶逆母を殺し君を弑す、他日竹鎗の誅、天の手を土民に藉りて』云々
と激評せるが如きは、悉く見解を誤れるものである。吾人をして当時の有様より評せしめたならば、『信長無残にして、光秀をして其母を殺さしむるの悲境に立たしむ』と言ひたくなる。
光秀の質を殺すは秀治の臣下にあらず、将た光秀に非ずして、実に是れ信長なりと言ひたいのであります。
田口文之、信長を評して曰く、
『行[#三]詭計於[#二]其妻[#一]以斃[#二]其父[#一]右府所[#二]以不[#一レ]終』と、新井白石、信長を評して曰く、
『信長と云ふ仁は父子兄弟の倫理絶えたる人なり』と。
平井中務大輔が、孝道の備はらざるを諌めて、死するも宜ならずや。
其他猜疑の下に、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衛門尉の如き忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介等の如きも、信長の仕ふベき主にあらざるを見て身を退き、秀吉の如きも一日光秀に耳語して曰ふ、
『主君は惨き人なり、我々は苦戦しで大国を攻め取るも、何時までも斯くてあるべきぞ。やがて讒者のために一身危からん、能く能く注意せられよ』云々と。
菅谷秋水、信長光秀両者を評して曰く、
『信長は三稜角の水晶の如く、光秀は円々たる瑪瑙の玉に似たり』と、名将言行録に光秀を評して、
『其敵を料り勝を制し、士を養ひ民を撫す、雄姿大略当時にありて、多く其倫を見ず』云々。
是も余り過賞の言ではあるまいと思ふのであります。
以上の所論は信長対光秀の経緯に就て略叙せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺ひ知る事が出来るのであらうと思ふ。信長は光秀の反逆がなくとも、何れ誰かの手に依つて亡ぼさるベき運命を有つて居つたのであります。亦光秀が其実母を質とせし如く論ずるも、光秀の母はその幼時に既に世を去り、遺孤として叔父の光康に養はれしものなる事は前叙の通であつて秀治に質とせしは叔父の妻で、即ち光春の母である。故に質を殺すの原因も亦前陳の如く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、実に気の毒千万の寃罪である。何うか史上より光秀殺[#レ]母の点だけは抹殺したいものであります。
時は今天が下知る五月蝿かな
世界各国今や暗黒界と変じ、神代の巻に於ける天の岩戸の隠れの惨状である。吾人大日本人は一日も早く、皇道を振起し、世界二十億の生霊を救はねばならぬ時機に差迫つたのでありますから、世評位に関はつて躊躇して居る場合ではない。吾人に言はしむれば、光秀の城址たる亀岡万寿苑は、実に言霊学上却つて適当の地であらうと思ふ。その亀の名を負ひし地点は、実に万世一系の皇室の御由来を諒解し奉り、万代不易の神教を伝ふるに万寿苑の名また言霊学上何となく気分の悪くない地名である。亦明智光秀といふ字も、明かに智り光り秀づると云ふことになる。講習会諸氏は、皇道の大本を明かに智られ、神国の光り秀妻の国の稜威を、地上に輝かさんとするには実に奇妙であると思ひます。其れ故に吾人は光秀の城址だからと云つて別に厭な心持もしないのであります。