霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一章 弟橘媛

インフォメーション
題名:第1章 弟橘媛 著者:出口王仁三郎
ページ:589
概要: 備考:2023/10/06校正。 タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-06 15:32:53 OBC :B121802c210
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正7年8月1日号(第67号) > 弟橘媛命
 弟橘媛(おとたちばなひめの)(みこと)は、穂積(ほづみ)()忍山(おしやまの)宿禰(すくね)(ぢよ)にして、日本武(やまとたけるの)(みこと)()にましませり。『新撰(しんせん)姓氏録(せいしろく)に、穂積(ほずみ)朝臣(あそん)石上(いしがみ)同祖(どうそ)、神饒速日命六世孫伊香色雄命之後也』とあり。
 景行(けいかう)天皇(てんわう)の四十年、東夷(あづまえびす)(そむ)きければ、天皇、日本武(やまとたけるの)(みこと)に征討を命じ給ひき。(みこと)(みことのり)を受けて(みち)伊勢(いせ)神宮(じんぐう)(まう)で、御姨(おんをば)倭姫(やまとひめの)(みこと)より天叢雲(あまのむらくもの)(つるぎ)火鑚(ひうち)とを授かり給ひ、尾張(をはり)を経て駿国(すんこく)(ただし)駿河国(するがのくに)(のち)に別れし名にて、(この)当時(たうじ)相武(さうぶ)(うち)なり、熱田(あつた)大神(だいじん)縁起(えんぎ)頭註(とうちゆう)に、或云、古昔相模駿河本為一国。後陞も河郡為国、故古時焼津阿部等皆属相模神名式云底本では訓点が付いているがここでは省略した。駿河国(するがのくに)益津(えきつ)(ごほり)焼津(やきつ)神社(じんじや)()へり』に()り給ひし時、(ぞく)(あざむ)かれて、野火(のび)の難に遇ひ給ひしかど、神剣(しんけん)の徳によりて助かり、(かへ)りて賊どもを(ちう)し給ひき。かくて相模国(さがみのくに)に到り、上総国(かずさのくに)に渡り給はむとす、走水(はしりみづの)(うみ)を望みて()り給はく「()(ちいさ)き海なり立ち(はし)りても渡りつべし」と、海中(かいちう)に到りましけるに、暴風(ばうふう)(にはか)(おこ)御舟(おんふね)(ただよ)ひて(ほとん)(かへ)らむとす。()の時、弟橘媛(おとたちばなひめの)(みこと)(みこと)に従ひ給ひけるが(みこと)(まを)し給はく
()海神(わたつかみ)の心なり、願はくは(やつこ)の身を(もつ)皇子(みこ)御命(みいのち)(あがな)ひまつらむ。皇子(みこ)(まけ)のまにまに(まつりごと)を行ひて復命(かへりごとまを)(たま)へ(日本書記)』とて波の上に菅畳(すがたたみ)八重(やへ)皮畳(かはたたみ)八重(やへ)を敷きて、其上(そのうへ)(くだ)りて沈み給ひき、()の沈みまさむとする時、橘媛(たちばなひめ)(うた)ひ給はく『さねさし(記伝(きでん)相模(さがみ)枕詞(まくらことば)とは(きこ)ゆれど、()(いま)(つまびら)かならすと()へり)相模(さがみ)小野(をぬ)に燃ゆる火の、火中(ほなか)に立ちて、問ひし君はも』一首の意は()相模(さがみ)後世(こうせい)駿河(するが))の焼津(やきつ)野火(のび)の時にさへ、()ひ従ひまつりて、相問(あひと)ひ語らひし、()(つま)の君はもにて最後のはもに無限の(じやう)こもれり、熱田(あつた)大神(だいじん)縁起(えんぎ)頭註(とうちう)に、『(いま)(あんずるに)(この)(うた)(おそらくは)非此時所作(このときつくるところにあらず)()へり、(あるひ)(しか)かむ』底本では訓点が付いているがここでは省略した。かかるほどに、(かぜ)(おさま)り、(なみ)(やわら)ぎて御船(みふね)(すす)むことを得たり(古事記)やがて上総(かづき)木更津(きさらづ)につき給ふ。此処に着きまして橘媛(たちばなひめ)(かなし)み、久しく其海(そのうみ)を望みて去り給はざりしかば、(のち)(ひと)此処(ここ)(きみ)去らず()しし所と言へるが、地名となれりと言へり(玉ダスキ)
 其の()七日を経て橘媛(たちばなひめの)(みこと)()し給ひし御櫛(おんくし)、海辺に流れ寄りしかば、拾ひ取りて其処(そこ)御墓(おはか)を作れりと云ふ(古事記)『記伝(きでん)にいはく、上総(かづさ)の浜か相模(さがみ)の浜か定め(がた)し、()直淵(なほぶち)(をう))の書入(かきいれ)に、今、相模国(さがみのくに)梅沢(うめさわ)のあたりに、吾妻森(あづまもり)と云ふある()れなりとあり、梅沢(うめさわ)は、余綾郡(よあやぐん)なり、大道(おほみち)にて小田原(おだはら)大磯駅(おほいそえき)との間なり、吾妻山(あづまざん)吾妻(あづま)明神(みやうじん)(やしろ)あり、(この)(しや)に伝記ありや尋ねまほしと、熱田(あつた)大神(おほかみ)縁起(えんぎの)(ちゆう)にいはく、上総国長柄橘神社摂社有水向社熱田亦有水向社祠弟橘媛と』底本では訓点が付いているがここでは省略した。かくて(みこと)上総国(かづさのくに)より転じて陸奥国(むつのくに)()り、日高見(ひだかみの)(くに)原註(げんちう)()(ところ)異説(ゐせつ)ありと()へり、延喜式(えんぎしき)陸奥国(むつのくに)桃生郡(ももふぐん)日高見(ひたかみ)神社(じんじや)また、常陸(ひたち)風土記(ふうどき)に、信太(しんた)(ごほり)(この)()(もと)日高見(ひだかみの)(くに)(なり)とあり何処(どこ)(たしか)に知りがたし』にいたり(ことごと)東夷(あづまえびす)(たひら)げ給ひき。かへりて常陸(ひたち)()甲斐(かひ)を越え、また武蔵(むさし)上野(かうづけ)を経て礁日阪(いしひざか)上野国(かうづけのくに)』に至り、弟橘媛(おとたちばなひめ)の事をしのび給ひ、東南の方を望み、あまたたび(なげ)きて『吾妻(わがつま)はや』とのたまひき。(これ)より阪東(はんとう)諸国(しよこく)吾妻国(あづまのくに)といふなり、さて信濃(しなの)を経て尾張(をはり)()で給ひ、更に近江(あうみ)伊吹山(いぶきやま)悪神(あくしん)(たひら)げむとて()でまししかど、(かへ)りて(その)毒気(どくき)(あた)り、伊勢(いせ)にうつり給ひき。能褒野(のぼの)といふ所にて御病(おんやまひ)(はなはだ)しくなりければ、武彦(たけひこの)(みこと)をして天皇に返言(かへりごと)(まを)さしめ御年(おんとし)三十にて遂に(かう)じ給ひぬ。天皇(てんわう)(きこ)しめしてかなしみ給ふこと(かぎり)なかりきとぞ(神皇(じんわう)正統記(せいとうき)(および)熱田(あつた)大神(だいじん)縁起(えんぎ)()る)(おも)ふに日本武(やまとたけるの)(みこと)は、天資(てんし)天武(てんぶ)にましまして、()(ちち)天皇(てんわう)(いま)(ちん)察汝為人、身体長大、容姿端正、力能枉鼎、猛如雷電、所向無前、所攻必勝、即知之、形即我子実則神人底本では訓点が付いているがここでは省略した。(のたま)ひし(ほど)なりしかど、当時到る処に荒ぶる(あや)しき(かみ)()ありて、(みこと)に危害を加へたりしかば九死一生を得給ひし事も(また)屡々(しばしば)なりき。(こと)走水渡(はやすゐのと)(なん)の如きは、いみじき危難なるべし。もし()(とき)橘媛(たちばなひめの)(みこと)(おは)さざりしならむには、かの建稲種公の如く悪神(あくしん)の害に遇ひて、相模(さがみ)の海の藻屑(もくず)となり給ひ、東征(とうせい)(げふ)半途(はんと)にて終りけむも知るべからず。されば上総(かずさ)より東の征討の(こう)は、(なかば)橘媛(たちばなひめの)(みこと)(こう)なりと(いふ)もあながちの強言(きやうげん)にはあらざるべし『日本武(やまとたけるの)(みこと)甲斐(かひ)より尾張国(をはりのくに)(かへ)りまさむとしける時、建稲種公と(はか)りて、(われ)は山道より()かむ、(こう)は海道より帰れ、尾張(をはり)宮酢姫(みやすひめ)の宅に会ふべしとて、建稲種公を海道に向はしめ給へり。熱田(あつた)大神(だいじん)縁起(えんぎ)にいはく、日本武尊還向尾張到篠城進食之間、稲種公家従久米八腹、策駿馬馳来、啓日、稲種公大 海亡没、日本武尊乍聞悲泣日、現哉現哉、亦問公入海之由、八腹啓日、渡駿河、海中有鳥、鳴声可怜、羽毛綺麗、問之土俗称覚駕鳥、公謂日、捕此鳥献我君、飛帆追鳥、風波暴起、舟船傾没、公亦入海矣、日本武尊吐喰不甘、悲泣無已』底本では訓点が付いているがここでは省略した。大かた女は常に男の裏にあるものなれば、表立ちたる功は無けれども、疲れたる男の心を慰めて新しき勇気を起さしめ、荒ぶる(いきどほり)(なご)めて(あやまち)()からしめ、事にあたり時に(のぞ)みては、良人(をつと)の為に命を捨ててその功を成さしむ。これ女の特性にて男の及ばぬ所なり。古来すぐれたる人の裏には、かならず賢良(けんりやう)なる女性の(ひそ)めるにても(あきらか)なるべし。おほよそ物はみな特性あり、(その)特性(とくせい)に従ひてこそいみじき功も立つべけれ、さるを今の世の傾向、女にて男の(わざ)(こころざ)す者多く、内にありて男の功を助くるもの(すくな)ければ、女には女らしき功無く、男には男らしき(せき)も無きなり、(なげ)かはしからずや。
(大正七、八、一号 神霊界誌)
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