霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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神武天皇御東征之段

インフォメーション
題名:神武天皇御東征之段 著者:出口王仁三郎
ページ:211
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-06-14 13:19:25 文字数:15181 OBC :B121805c114
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]:神霊界 > 大正9年10月21日号(第130号) > 日本書紀解説〔神武天皇東征之段〕
 日本(にほん)書紀(しよき)にある神武(じんむ)天皇(てんわう)御(ご)東征(とうせい)の一節(せつ)を講演(かうえん)致(いた)します。
日本(にほん)書紀(しよき)の一節(せつ)に、
 『神(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)彦(ひこの)天皇(すめらみこと)(神武(じんむ)天皇(てんわう))……年(みとし)四十(よそぢあまり)五歳(いつとせ)に及(およ)びたまふ。諸(もろもろ)の兄(いろせ)及(およ)び子等(みこたち)に謂(かた)りて曰(のり)たまはく。昔(むかし)我(あ)が天神(あめのかみ)高皇(たかみ)産霊(むすび)尊(のみこと)、大(おほ)日霎(ひるめ)尊(のみこと)、此(こ)の豊(とよ)葦原(あしはらの)瑞穂(みづほ)国(のくに)を挙(のたまひあ)げて、我(あが)天祖(あまつみおや)、彦火(ひこほの)瓊瓊杵(ににぎの)尊(みこと)に授(あた)へり。於是(ここに)、彦火(ひこほの)瓊瓊杵(ににぎの)尊(みこと)、天(あめ)の関(いはくら)を闢(ひきひら)きて、雲路(くもぢ)を披(おしわ)け、駈(みさき)仙蹕(はらひおひ)以(も)て戻止(いたりま)す』
とあります。神武(じんむ)天皇(てんわう)の御(おん)年(とし)四十五歳(さい)の時(とき)は、今年(こんねん)を去(さ)る二千五百八十六年(ねん)前(ぜん)の甲寅(きのえとら)の年(とし)で、月日(つきひ)は十月(ぐわつ)五日(いつか)に当(あた)るのであります。この甲寅(きのえとら)の年(とし)といふのは、恰(あだか)も大正(たいしやう)三年(ねん)世界(せかい)戦争(せんさう)の始(はじ)まつた年(とし)であります。
 畏(おそ)れ多(おほ)くも天(あめ)の下(した)を平(たひ)らけく治(しろし)めし給(たま)ふ、御(ご)天職(てんしよく)を惟神(かむながら)に享有(きやういう)し給(たま)ふ、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(てんわう)様(さま)が、大(だい)日本(につぽん)神国(しんこく)に君臨(くんりん)遊(あそ)ばされて、豊(とよ)葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)国(のくに)即(すなは)ち地球(ちきう)上(じやう)を、道義(だうぎ)的(てき)に統(とう)一せらるる機運(きうん)に向(むか)うたのであります。大(だい)日本(につぽん)皇国(くわうこく)の国体(こくたい)の御(ご)本義(ほんぎ)、御(ご)天職(てんしよく)たる皇道(くわうだう)の精髄(せいずゐ)精華(せいくわ)は、未(いま)だ充分(じうぶん)に発揮(はつき)されて居(を)りませぬ何(なん)となれば古往(こわう)今来(こんらい)、全(まつた)く暗黒(あんこく)無明(みやう)の世界(せかい)で、天(あま)の岩戸(いはと)隠(がく)れの状態(じやうたい)であつたからであります。
 物質(ぶつしつ)文明(ぶんめい)の結局(けつきよく)は世界(せかい)戦争(せんさう)となりて、海外(かいぐわい)の諸(しよ)強国(きやうこく)は、一旦(たん)経済(けいざい)的(てき)、精神(せいしん)的(てき)に滅(ほろ)んで了(しま)つたので、是(これ)から新(あらた)に建設(けんせつ)しなければならぬ破目(はめ)に成(な)つて来(き)たのであります。
 しかし我(わが)日本(につぽん)国(こく)は、幸(さいはひ)にその暗黒(あんこく)な、ひどい影響(えいきやう)を受(う)けませんでしたから、世界(せかい)戦争(せんさう)の起(おこ)りつつある間(あひだ)に、十分(じふぶん)の準備(じゆんび)をして、世界(せかい)を道義(だうぎ)的(てき)に統一(とういつ)する機会(きくわい)を与(あた)へられたので、日本(につぽん)国(こく)は愈々(いよいよ)改造(かいざう)の時機(じき)に向(むか)つて来(き)たのであります。彼(か)の日露(にちろ)戦争(せんさう)は日(ひ)の暮(くれ)の鐘(かね)、世界(せかい)戦争(せんさう)は暗夜(あんや)の鐘声(しようせい)であつて、日本(につぽん)国(こく)が日(ひ)の出(で)の守護(しゆご)になるに就(つい)て、世界(せかい)は総(すべ)て、統一(とういつ)的(てき)機運(きうん)に向(むか)つて居(を)ります。総(すべ)てのものが、世界(せかい)統一(とういつ)でありますから、外国(ぐわいこく)の暗黒(あんこく)なる経済(けいざい)的(てき)影響(えいきやう)は、日本(につぽん)に映(うつ)り、日本(につぽん)の経済(けいざい)上(じやう)に不(ふ)安定(あんてい)なる荒波(あらなみ)は、米国(べいこく)へうつり、米国(べいこく)の影響(えいきやう)は欧洲(おうしう)にうつり、だんだん波(なみ)が拡(ひろが)つて高(たか)まつて行(ゆ)き、その波(なみ)が向岸(むかふぎし)に突(つき)当(あた)つて層(そう)一層(いつそう)激浪(げきらう)を捲(ま)き起(おこ)し、再(ふたた)び日本(につぽん)へ撥(は)ね返(かへ)つて来(く)る。今度(こんど)の波(なみ)は強(つよ)いのであるから、日本(につぽん)も一層(いつそう)今(いま)より不(ふ)景気(けいき)になつて来(き)ます。故(ゆゑ)に各自(かくじ)に注意(ちゆうい)をして、其(そ)の荒波(あらなみ)を避(さ)ける工夫(くふう)をいたさねばなりませぬ。今(いま)迄(まで)五年(ねん)間(かん)の甘味(うまみ)を嘗(な)めて来(き)た人々(ひとびと)は、この不(ふ)景気(けいき)は持(もち)直(なほ)すかも知(し)れんと云(い)ふものがあるが、決(けつ)して楽観(らくくわん)すべきでは無(な)い。もつともつとひどい激浪(げきらう)怒涛(どたう)が襲来(しふらい)するものと覚悟(かくご)せねばなりませぬ。而(しか)して日本(につぽん)国(こく)の皇道(くわうだう)の光(ひかり)が、八紘(はつこう)に輝(かがや)くのはこれからであつて、今(いま)まで殆(ほとん)ど二千年(ねん)来(らい)、和光(わくわう)同塵(どうぢん)的(てき)御(ご)政策(せいさく)の結果(けつくわ)として、皇運(くわううん)発展(はつてん)の時機(じき)が来(こ)なかつたのであります。崇神(すじん)天皇(てんわう)が国体(こくたい)の尊厳(そんげん)を秘(ひ)して、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の政策(せいさく)をとられたのは、今日(こんにち)あるを知(し)り給(たま)うて、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(てんわう)の御(ご)天職(てんしよく)の発展(はつてん)を期待(きたい)されて居(を)られたからであります。世界(せかい)各国(かくこく)も時節(じせつ)到来(たうらい)せぬために、権謀(けんぼう)が発生(はつせい)したり、個人(こじん)主義(しゆぎ)が隆盛(りうせい)になつて、体主(たいしゆ)霊従(れいじう)の悪土(あくど)となり、人(ひと)の国(くに)を奪(と)る英雄(えいゆう)が出(で)たりして、昔(むかし)から治乱(ちらん)興廃(こうはい)は何遍(なんべん)あつたかわからぬ。国(くに)が立(た)つたり、倒(たふ)れたり、併合(へいがふ)されたり、或(あるひ)は占領(せんりやう)されたり、数(かぞ)へ尽(つく)されぬ位(くらゐ)であります。
 従来(じうらい)人生(じんせい)の不安(ふあん)、世路(せろ)の困難(こんなん)は此(こ)の上(うへ)なく、実(じつ)以(もつ)て闇黒(あんこく)無明(むみやう)の世(よ)の中(なか)であつた。即(すなは)ち天(あま)の岩戸(いはと)隠(がく)れの現状(げんじやう)であります。昔(むかし)から王道(わうだう)とか、覇道(はだう)とか、又(また)憲法(けんぱふ)政治(せいぢ)とか、共和(きやうわ)政治(せいぢ)であるとか、デモクラシーとか、マルクス主義(しゆぎ)とか、其(そ)の他(た)聖人(せいじん)や賢哲(けんてつ)が唱(とな)へる総(すべ)ての社会(しやくわい)経綸(けいりん)説(せつ)や、また釈迦(しやか)、孔子(こうし)、基督(キリスト)の道義(だうぎ)的(てき)教義(けうぎ)は、ただ今日(こんにち)までの世界(せかい)の破滅(はめつ)、人心(じんしん)の堕落(だらく)を弥縫(びほう)補綴(ほてい)すべく、用(もち)ひられた位(くらゐ)にすぎず今後(こんご)の社会(しやくわい)政策(せいさく)に対(たい)しては、何等(なんら)の権力(けんりよく)も効力(かうりよく)もない。唯(た)だ其(そ)の教(をしへ)は、何(いづ)れも人心(じんしん)の不安(ふあん)を和(やは)らげ、兇悪(きやうあく)なる人心(じんしん)を矯正(けうせい)し、世道(せだう)人心(じんしん)を導(みちび)き、治国(ちこく)安民(あんみん)の道(みち)を立(た)て、天下(てんか)泰平(たいへい)を企(くはだ)てたのでありますが、併(しか)し孔子(こうし)の生(うま)れた支那(しな)の現状(げんじやう)は、あの通(とほ)り闇黒(あんこく)で、百鬼(ひやくき)昼行(ちうかう)の状態(じやうたい)。又(また)釈迦(しやか)の生(うま)れた印度(いんど)は、此地(このち)に極楽(ごくらく)浄土(じやうど)を出現(しゆつげん)せしめようとしたのに、今(いま)は某国(ぼうこく)の圧迫(あつぱく)を受(う)け、僅(わづか)に人民(じんみん)は其(そ)の命脈(めいみやく)を保(たも)つて、無限(むげん)地獄(ぢごく)の有様(ありさま)。又(また)基督(キリスト)の出(で)た猶太国(ゆだや)は、天国(てんごく)を地上(ちじやう)に樹(た)てむと考(かんが)へたけれど、二千年(ねん)を経過(けいくわ)した今日(こんにち)に於(おい)て暗黒(あんこく)無明(むみやう)の地獄(ぢごく)の状態(じやうたい)であります。之(これ)を考(かんが)へると、世界(せかい)の人心(じんしん)を緩和(くわんわ)した利益(りえき)はあつたけれどもこれから日(ひ)の出(で)の世(よ)の中(なか)になれば、少(すこ)しも間(ま)に合(あ)はぬ時代(じだい)錯誤(さくご)の教義(けうぎ)となつて了(しま)ふのであります。
 之(これ)を譬(たと)へて言(い)へば、月(つき)が出(で)ると星(ほし)の光(ひかり)が薄(うす)くなり、太陽(たいやう)が出(で)ると、月(つき)も星(ほし)も光(ひかり)を失(うしな)ふのと同(おな)じであります。この星(せい)的(てき)位置(ゐち)にある古今(ここん)諸(しよ)賢哲(けんてつ)の道義(だうぎ)的(てき)諸説(しよせつ)は、今後(こんご)は影(かげ)を没(ぼつ)するのであります。それを和光(わくわう)同塵(どうぢん)の政策(せいさく)により、崇神(すじん)天皇(てんわう)は我国(わがくに)に引(ひ)き入(い)れ給(たま)うたのであります。何故(なぜ)かと申(まを)せば、今日(こんにち)の世(よ)の中(なか)の物質(ぶつしつ)文明(ぶんめい)を、一旦(いつたん)日本(につぽん)に入(い)れて、日本(につぽん)は世界(せかい)の中心(ちうしん)国(こく)でありますから、精神(せいしん)的(てき)文明(ぶんめい)と物質(ぶつしつ)的(てき)文明(ぶんめい)の調和(てうわ)を図(はか)り、霊主(れいしゆ)体従(たいじう)の惟神(かむながら)の大道(だいだう)を発揮(はつき)し、所謂(いはゆる)皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)によりて、世界(せかい)万民(ばんみん)を安(やす)らけく平(たひ)らけく、治(をさ)むる時機(じき)を待(ま)たせられたのであります。天運(てんうん)循環(じゆんくわん)の神律(しんりつ)に依(よ)つて、夫(そ)れがいよいよ実現(じつげん)さるる時機(じき)に到達(たうたつ)した次第(しだい)であります。由来(ゆらい)総(すべ)ての大道(だいだう)、即(すなは)ち治国(ちこく)平(へい)天下(てんか)の道(みち)は、我(わが)日本(につぽん)国(こく)に日月(じつげつ)の如(ごと)く、炳(へい)として儼存(げんぞん)して居(を)るのであります。
 神武(じんむ)天皇(てんわう)即(すなは)ち神(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)彦(ひこの)尊(みこと)が、御年(おんとし)四十五歳(さい)の時(とき)、諸(しよ)兄(けい)及(およ)び皇子(みこ)達(たち)を集(あつ)めて申(まを)されるには、昔(むかし)天津(あまつ)御(み)祖(おやの)神(かみ)、高皇(たかみ)産霊(むすびの)尊(みこと)、大(おほ)日霎(ひるめの)尊(みこと)、即(すなは)ち高木(たかぎの)神(かみ)、天照(あまてらす)大(おほ)御(み)神(かみ)が、この豊(とよ)葦原(あしはら)の瑞穂(みづほの)国(くに)を挙(あ)げて我(わが)天津(あまつ)御祖(みおや)彦火(ひこほの)瓊々杵(ににぎの)尊(みこと)に授(さづ)けられた。そこで彦火(ひこほの)瓊々杵(ににぎの)尊(みこと)は天(あめ)の磐座(いはくら)放(はな)ち、天(あめ)の八重雲(やへくも)を押(お)し分(わ)けて、日向(ひむか)の串触(くしぶるの)峰(たけ)に天(あめ)の宇受売(うづめの)命(みこと)、猿田彦(さるだひこの)神(かみ)を先(さき)駆(は)仙(ら)蹕(ひ)にして天(あ)降(も)りました。
 『是(こ)の時(とき)に、運(よ)鴻荒(あらき)に属(あ)ひ、時(とき)草昧(くらき)に鍾(あた)れり。故(かれ)蒙(くら)くして以(もつ)て正(ただ)しきを養(やしな)ひて、此(こ)の西(にし)の偏(ほとり)を治(し)らす。皇祖皇考(みおや)、乃(か)神(み)乃聖(ひじり)にして、慶(よころび)を積(つ)み、暉(ひかり)を重(かさ)ね、多(さは)に年所(とし)を歴(へ)たり。天祖(あまつみおや)の降跡(あまくだり)ましてより以(こ)逮(の)于(か)今(た)、一百七十九万二千四百七拾余(よ)歳(さい)』
 この時(とき)世(よ)は鴻荒(あらき)に属(あ)ひ、草昧(くらき)に鍾(あた)り云々(うんぬん)の御(おん)詔(みことのり)は、丁度(ちやうど)今日(こんにち)の世(よ)の現状(ありさま)其(そ)のままであります。
 今日(こんにち)天(あめ)の八重雲(やへくも)は十重(とへ)二十重(はたへ)に包(つつ)まれ、総(すべ)てのものに磐座(いはくら)といふものがあり、岩戸(いはと)がしまつて居(を)る即(すなは)ち閥(ばつ)があつて、一歩(いつぽ)も中(なか)へ入(はい)れぬのであります。この曇(くも)りに曇(くも)つた総(すべ)ての思想(しさう)で、世(よ)は荒(あら)きに逢(あ)ひ時(とき)は昧(くら)きに鍾(あた)れり、所謂(いはゆる)国体(こくたい)に反(はん)する外来(ぐわいらい)思想(しさう)のために、人(ひと)の心(こころ)は一層(いつそう)荒(すさ)びに荒(すさ)び、群衆(ぐんしふ)心理(しんり)的(てき)の焼討(やきうち)事件(じけん)や米(こめ)騒動(さうどう)や労働(らうどう)者(しや)の同盟(どうめい)怠業(たいげふ)罷業(ひげふ)や種々(しゆじゆ)の不(ふ)祥事(しやうじ)があると同(おな)じやうな乱世(らんせい)であつたのであります。
 この闇黒(あんこく)の世(よ)の中(なか)に交(まじは)つて、正(ただ)しきを養(やしな)ひ誠(まこと)の道(みち)を立(た)て、西(にし)九州(きうしう)の地(ち)に於(おい)て、善(ぜん)の鏡(かがみ)を出(だ)して居(を)られたのであります。丁度(ちやうど)今日(こんにち)の闇黒(あんこく)無明(むみやう)の世(よ)の中(なか)に於(おい)て、実(じつ)に畏(おそ)れ多(おほ)き譬(たとへ)でありますが、皇道(くわうだう)大本(おほもと)が誠(まこと)の道(みち)を説(と)いて、この日本(につぽん)国(こく)の下津(したつ)岩根(いはね)に於(おい)て、皇国(くわうこく)発祥(はつしやう)の時機(じき)を待(ま)ちつつあるのと同(おな)じ状態(じやうたい)であります。
 皇祖(くわうそ)皇考(くわうかう)は即(すなは)ち神(かみ)即(すなは)ち聖(ひじり)であつて、慶(よろこび)を積(つ)み、暉(ひかり)を重(かさ)ねて、多(おほ)くの年所(とし)を歴(へ)来(こ)られたのであります。即(すなは)ち天照(あまてらす)大(おほ)御(み)神(かみ)より皇孫(くわうそん)瓊々杵(ににぎの)尊(みこと)、鵜葺草(うがや)葺(ふき)不合(あへずの)尊(みこと)まで慶(よろこび)を積(つ)み、暉(ひかり)を重(かさ)ねて居(を)られたので、神代(かみよ)は実(じつ)に立派(りつぱ)に治(をさ)まり、天照(あまてらす)大(おほ)御(み)神(かみ)の御(ご)威徳(ゐとく)が神武(じんむ)天皇(てんわう)まで光(ひか)り輝(かがや)いたのであります。
 お筆先(ふでさき)に神代(かみよ)は立派(りつぱ)な世(よ)であつたと出(で)て居(を)りますが、その通(とほ)りであります。ところが昔(むかし)の神代(かみよ)は木(き)の皮(かは)を着(き)て穴居(けつきよ)し、石器(せつき)時代(じだい)を経(へ)て、今日(こんにち)に開(ひら)けたのでありますが、併(しか)し乍(なが)ら当時(たうじ)人民(じんみん)の生活(せいくわつ)は、実(じつ)に安静(あんせい)平穏(へいをん)、至清(しせい)至美(しび)、実(じつ)に立派(りつぱ)な世(よ)の中(なか)であつたことが御(ご)詔勅(せうちよく)に依(よ)つて証明(しようめい)されるのであります。
 天孫(てんそん)瓊々杵(ににぎの)尊(みこと)が、この地球(ちきう)上(じやう)に降臨(かうりん)ましましてより、一百七十九万二千四百七拾余(よ)歳(さい)を経(へ)て居(を)ります。日本(につぽん)歴史(れきし)では、神武(じんむ)天皇(てんわう)即位(そくゐ)紀元(きげん)二千五百八十何年(なんねん)と、いふことになつて居(を)りますが、日本(につぽん)の国体(こくたい)の古(ふる)くして、尊(たふと)きことを知(し)るには、天孫(てんそん)瓊々杵(ににぎの)尊(みこと)の御(ご)降臨(かうりん)から算(かぞ)へて、一百七十九万二千何年(なんねん)とせねばなりませぬ。実(じつ)に惜(を)しいことをしたものです。
 『而(しか)るを遼(とほ)く邈(はるか)なるの地(くに)、猶(なほ)未(いま)だ王沢(みうつくしび)に霑(うるほ)はず、遂(つひ)に邑(むら)に君(きみ)あり、村(ふれ)に長(ひとこのかみ)あり、各自(おのもおのも)彊(さかひ)を分(わか)ちて、用(もつ)て相(あひ)凌(しのぎ)轢(きしろ)ふ』
 しかしさういふ工合(ぐあひ)に、理想(りさう)的(てき)の世(よ)の中(なか)であつたけれども、遠(とほ)い遥(はる)かなる地(ち)は、未(いま)だ王化(わうくわ)に霑(うるほ)はず即(すなは)ち日本(につぽん)から申(まを)せば海外(かいぐわい)が霑(うるほ)はないのでありますが、之(これ)を日本(につぽん)国内(こくない)だけに就(つい)て申(まを)すと、九州(きうしう)以外(いぐわい)の中国(ちうごく)や東海(とうかい)、東山(とうさん)、北陸(ほくりく)、其(そ)の他(た)の国(くに)が王化(わうくわ)に霑(うるほ)はないで、邑(むら)に君(きみ)あり、村(むら)に長(をさ)ありて、各自(かくじ)境界(きやうかい)を分(わか)つて、互(たがひ)に相(あひ)凌轢(りやうれき)して居(ゐ)たのであります。今日(こんにち)から申(まを)せば、何(なん)でもない事(こと)の様(やう)に思(おも)ひますが、併(しか)し学者(がくしや)は学閥(がくばつ)を作(つく)り、学者(がくしや)同志(どうし)議論(ぎろん)を闘(たたか)はして互(たがひ)に相(あひ)凌(しの)ぎ、政治(せいぢ)家(か)は政治(せいぢ)家(か)で又(また)閥(ばつ)を作(つく)り、政府(せいふ)党(たう)と在野(ざいや)党(たう)で互(たがひ)に鎬(しのぎ)を削(けづ)り、軍人(ぐんじん)は軍人(ぐんじん)で閥(ばつ)を作(つく)り、所謂(いはゆる)邑(むら)に君(きみ)あり、村(むら)に長(をさ)ありで、支那(しな)は支那(しな)、米国(べいこく)は米国(べいこく)、各(かく)国々(くにぐに)に主権(しゆけん)者(しや)があつて、皆(みな)自分(じぶん)の国(くに)の勝手(かつて)の良(よ)いやうにと考(かんが)へて居(を)るのであります。丁度(ちやうど)二千五百八十六年(ねん)前(まへ)の現状(げんじやう)は、今日(こんにち)の世界(せかい)の現状(げんじやう)によく似(に)て居(を)るのであります。
 現代(げんだい)世界(せかい)列強(れつきやう)が、各(おのおの)互(たがひ)に領土(りやうど)を獲得(くわくとく)せむとし、領土(りやうど)慾(よく)のために鎬(しのぎ)を削(けづ)る有様(ありさま)は、古今(ここん)相(あひ)等(ひと)しいのである。これが古今(ここん)を通(つう)じて謬(あやま)らず、中外(ちうぐわい)に施(ほどこ)して悖(もと)らざる御(ご)神書(しんしよ)の権威(けんゐ)ある所以(ゆゑん)で、何時(いつ)の世(よ)に合(あ)はして考(かんが)へて見(み)ても、神典(しんてん)の記録(きろく)に、符合(ふがふ)するのは此処(ここ)であります。
 凡(およ)そもの窮(きう)すれば必(かなら)ず通(つう)ずで、今日(こんにち)の如(ごと)き、天下(てんか)無道(ぶだう)の状態(じやうたい)となつたのを救済(きうさい)するのは、実(じつ)に日本(につぽん)国(こく)で始(はじ)めて我(わが)日本(につぽん)国(こく)の天職(てんしよく)を発揮(はつき)して、世界(せかい)を修斎(しうさい)する時代(じだい)が来(き)たのであります。
 世界(せかい)の各(かく)国民(こくみん)は世界(せかい)戦争(せんさう)で非常(ひじやう)な打撃(だげき)を受(う)け、何(なん)千万といふ生霊(せいれい)を捨(す)て、何(なん)百億(おく)といふ財(ざい)を擲(なげう)つてその苦(くるし)みを受(う)け、戦争(せんさう)の惨苦(さんく)をよく嘗(な)めて居(を)るので、此上(このうへ)もう戦(たたか)ふ気(き)はなくて、何(ど)うかして、この地上(ちじやう)に有力(いうりよく)なものが現(あらは)れて治(をさ)めてくれることを、各自(かくじ)期待(きたい)して居(を)るのであります。今日(こんにち)我(わが)日本(につぽん)では、外交(ぐわいかう)上(じやう)の状況(じやうきやう)を総(すべ)て憂(うれ)へて居(を)つて、今(いま)国交(こくかう)が破裂(はれつ)した場合(ばあひ)には、外国(ぐわいこく)から進(すす)んで戦(いくさ)をしかけるやうに思(おも)うてゐるが、併(しか)し外国(ぐわいこく)人(じん)の腹(はら)の中(なか)は、これまでの戦争(せんさう)に懲(こ)り果(は)てて、戦争(せんさう)といふものは詰(つま)らぬものであるといふ事(こと)を、心(こころ)から悟(さと)つて居(を)るのであります。
 『抑又(はたまた)塩土翁(しほつちのおきな)に聞(き)きしに、曰(いは)く東(ひむがし)に美地(よきくに)あり、青山(あをやま)四方(よも)に周(めぐ)れり。其(そ)の中(なか)に亦(また)天(あめの)磐船(いはふね)に乗(の)りて飛(と)び降(お)る者(もの)ありといひき。余(われ)謂(おも)ふに、彼地(かのくに)は、必(かなら)ず当(まさ)に以(も)て天業(あまつひつぎ)を恢弘(ひろめの)べて、天(あめ)の下(した)に光宅(みちを)るに足(た)りぬべし。蓋(けだ)し六合(くに)の中心(もなか)乎(か)。厥(その)飛(とび)降(お)るといふものは、謂(おも)ふに是(こ)れ饒(にぎ)速日(はやひ)をいふ歟(か)。何(なん)ぞ就(ゆ)いて都(みやこ)つくらざらむ』
 これは神武(じんむ)天皇(てんわう)の御(お)言葉(ことば)でありまして、又(また)塩土翁(しほつちのおきな)に東国(とうごく)によき国(くに)ありて、青山(あをやま)四方(よも)に圍(めぐ)り、天(あめ)の磐船(いはふね)云々(うんぬん)と聞(き)いたと仰(あふ)せられたのでありますが、此(こ)の塩土翁(しほつちのおきな)は彦(ひこ)火々出見(ほほでみの)尊(みこと)を綿津見(わたつみ)の宮(みや)に、目無(めなし)堅間(かたま)の船(ふね)で御(ご)案内(あんない)せられた神(かみ)と同(おな)じ神様(かみさま)であります。
 シは水(みづ)、ホは火(ひ)、ツチは地(ち)で、この土は地球(ちきう)を意味(いみ)し、シホは地(ち)を廻(めぐ)る海水(かいすゐ)である。即(すなは)ち塩土(しほつち)の翁(おきな)は地(ち)を創造(さうざう)して、目無(めなし)堅間(かたま)の船(ふね)を造(つく)つた神様(かみさま)であります。塩(しほ)は総(すべ)てのものを清(きよ)める力(ちから)を持(も)つたもので祭典(まつり)にも塩水(えんすゐ)行事(ぎやうじ)を行(おこな)ひ、墓参(ぼさん)後(ご)塩(しほ)で浄(きよ)めるのもこのわけで、塩(しほ)は世(よ)の中(なか)を洗濯(せんたく)する力(ちから)がある。夏(なつ)魚(うを)の腐敗(ふはい)を防(ふせ)ぐにも、この塩(しほ)を用(もち)ふる如(ごと)く、総(すべ)ての物(もの)の腐敗(ふはい)を止(と)める力(ちから)を持(も)つて居(を)るものであります。世(よ)の中(なか)がだんだん腐敗(くさ)りに腐敗(くさ)つて絶滅(ぜつめつ)せむとする有様(ありさま)になつて来(き)たが、この塩(しほ)で汚(けが)れを浄(きよ)め、腐敗(ふはい)を止(と)めるのであります。又(また)塩(しほ)の味(あぢ)は食物(しよくもつ)の中(なか)で、一番(いちばん)うまいもので、沢山(たくさん)に食(く)へば血(ち)を吐(は)く位(くらゐ)に、ピリピリ致(いた)して、マヅイものであるけれども、適度(てきど)に用(もち)ふれば、砂糖(さたう)よりもうまく、又(また)食物(しよくもつ)は総(すべ)て塩(しほ)がなければ味(あぢ)はつくものではありませぬ。
 土(つち)はつぶらなる地で、円満(ゑんまん)なる土(ち)といふ意味(いみ)である。万物(ばんぶつ)はこの地球(ちきう)の土(つち)より、天然(てんねん)力(りよく)を吸(す)うて、大(おほ)きくなるのである。大便(だいべん)でも小便(せうべん)でも土(つち)にかけると、土(つち)は汚(きた)なきものを吸収(きふしう)して浄(きよ)め、伊吹(いぶき)払(はら)つて不浄(ふじやう)を無(な)くする、これが土(つち)であります。
 塩土(しほつち)の翁(おきな)の翁(おきな)は公(きみ)といふ意味(いみ)であり、この羽(はね)は両翼(りやうよく)といふことである。即(すなは)ち鳥(とり)も翼(つばさ)がなくては立(た)つことが出来(でき)ぬ。又(また)鳥(とり)の霊(みたま)はスでありますから、鳥(からす)、雀(すずめ)、杜鵑(ほととぎす)などといつて、皆(みな)スの言霊(ことたま)である。スは所謂(いはゆる)皇(すめら)御国(みくに)のスである。即(すなは)ち両翼(りやうよく)が必要(ひつえう)である。翁(おきな)は大地(おきな)とも大名(おきな)とも申(まを)して、名(な)は天(てん)に属(ぞく)し、土(な)は地(ち)に属(ぞく)し、左右(さいう)の大臣(だいじん)である。即(すなは)ち高皇(たかみ)産霊(むすびの)神(かみ)となり、厳(いづ)の御魂(みたま)、瑞(みづ)の御魂(みたま)になる。翁(おきな)は君(きみ)の御(お)働(はたら)きを助(たす)ける人(ひと)である。今(いま)は高徳(かうとく)な老人(らうじん)を称(しよう)して翁(おきな)といふ、この翁(おきな)の真(まこと)の解釈(かいしやく)は、国(くに)常立(とこたちの)尊(みこと)となるのであります。
 その翁(おきな)の言(い)はれるには、此処(ここ)より東(ひがし)の方(はう)に美(うつく)しき国(くに)があると、日向(ひうが)の国(くに)から見(み)られたのでありますから、それは大和(やまと)の国(くに)になる。此(この)大和(やまと)の国(くに)は青山(あをやま)が四方(しはう)に廻(めぐ)つて、三種(しゆ)の神器(じんぎ)にたとへられた、大和(やまと)三山(さんざん)といふのがある。神武(じんむ)天皇(てんわう)はそれへ御(お)越(こ)しになりました。四方(しはう)山(やま)を圍(めぐ)らす国(くに)の中心(ちうしん)で、都(みやこ)を造(つく)り給(たま)ふに適(てき)した大和(やまと)の地(ち)を指(さ)されたのであります。
 御(お)筆先(ふでさき)も綾部(あやべ)の地(ち)、青山(あをやま)四方(よも)にめぐらしとありますが、昔(むかし)は大和(やまと)で、今(いま)は国常立(くにとこたちの)尊(みこと)の現(あらは)れた聖地(せいち)とも思(おも)はれます。これは我田(がでん)引水(いんすゐ)でもなければ、牽強(けんきやう)附会(ふくわい)でもない。御(ご)本文(ほんぶん)から考(かんが)へて、その通(とほ)りになります。其中(そのなか)に天(あめ)の磐船(いはふね)に乗(の)つて飛(とび)降(お)りるものがある。余(われ)謂(おも)ふに、彼地(かのくに)は、必(かなら)ず天業(あまつひつぎ)を恢弘(ひろめの)べて天(あめ)の下(した)に光宅(みちを)るにたる。これ六合(くに)の中心(もなか)乎(か)とありますが、之(これ)を委(くは)しく申(まを)すと又(また)綾部(あやべ)を曳(ひ)き出(だ)すやうになりますから、止(や)めて置(お)きます。
 飛(とび)降(くだ)るものは、是(こ)れ饒速日(にぎはやひ)歟(か)、何(なん)ぞ就(ゆ)いて都(みやこ)をつくらざるとの御(ご)本文(ほんぶん)がありますが、その天(あめ)の磐船(いはふね)といふのは、磐(いは)楠(くす)船(ぶね)とか、飛行船(ひかうせん)とか、飛行機(ひかうき)の事(こと)にもなりますが、此処(ここ)では艮(うしとら)の金神(こんじん)の教(をしへ)であります。即(すなは)ち磐(いは)楠(くす)船(ぶね)の如(ごと)く砕(くだ)けない、固(かた)い教(をしへ)といふことである。この船(ふね)に乗(の)つて中心(ちうしん)に飛(とび)降(お)りるといふので、高(たか)い所(ところ)から低(ひく)い所(ところ)へ、一足(いつそく)飛(と)びに飛(と)び下(おり)るといふ事(こと)になる。これ饒速日(にぎはやひ)歟(か)といふニギは、賑々(にぎにぎ)しくとか、弥(いや)栄(さか)えに栄(さか)えるとかいふことで、日(ひ)は日輪(にちりん)の日(ひ)で、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の日(ひ)であります。即(すなは)ち天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)の坐(いま)す国(くに)が、速(すみや)かに賑々(にぎにぎ)しく、弥(いや)栄(さか)えに栄(さか)え行(ゆ)くやうにする神様(かみさま)が、降(くだ)るといふことになります。その饒速日(にぎはやひ)の所(ところ)に、都(みやこ)を作(つく)るのは如何(どう)であらうかと、神武(じんむ)天皇(てんわう)は御(お)尋(たづ)ねになつたのであります。
 『諸(もろもろ)の皇子(みこたち)、対(こたへ)て曰(まを)さく、理(ことはり)、実(まこと)に灼然(いやちこ)なり。我等(われら)も亦(また)恒(つね)に以(もつ)て念(おもひ)と為(し)つ、宣(むべ)早(すみや)かに行(おこな)ひたまへ。是年(ことし)や太歳(おほとし)甲寅(きのえとら)………』
 そこで皇子(みこ)等(たち)は、対(こた)へて曰(まを)さるるには、天皇(すめらみこと)の御(み)言葉(ことば)は誠(まこと)に道理(だうり)に適(かな)うたことで、鏡(かがみ)の如(ごと)く灼然(しやくぜん)と輝(かがや)いて居(を)ります。私達(わたくしたち)も其処(そこ)に都(みやこ)を作(つく)り給(たま)はば、結構(けつこう)だと恒(つね)に思(おも)うて居(を)りました。速(すみやか)に御(ご)進発(しんぱつ)あつて、天(あめ)の下(した)を治(をさ)め給(たま)ひますやうにと申(まを)されたのであります。
 この年(とし)が即(すなは)ち甲寅(きのえとら)の十月(ぐわつ)五日(いつか)で、大正(たいしやう)三年(ねん)の十月(ぐわつ)五日(いつか)に当(あた)りまして、今(いま)より二千五百八十六年(ねん)前(ぜん)のことでありますが、実(じつ)に古今(ここん)を通(つう)じて、同(おな)じ事(こと)が出(で)て来(く)るのは不思議(ふしぎ)であります。
 それから筑紫(つくし)、吉備(きび)、安芸(あき)、浪速(なには)へゆかれます。瀬戸(せと)内海(ないかい)御(ご)進軍(しんぐん)の模様(もやう)は略(りやく)して、浪速(なには)から先(さき)を述(の)べます。道中(だうちう)記(き)は、言霊(げんれい)学(がく)上(じやう)本(ほん)講(かう)に就(つい)ては無(む)意義(いぎ)であり、亦(また)興味(きようみ)も少(すくな)いのであります。
 『皇師(みいくさ)、遂(つひ)に東(ひむがし)に征(ゆ)く、舳(とも)艫(へ)相(あひ)接(つ)げり。方(まさ)に難波(なには)の埼(みさき)に到(いた)るときに、奔潮(はやきなみ)ありて、太(はなは)だ急(はや)きに会(あ)ひぬ。因(よつ)て以(も)つて名(な)づけて浪速(なみはやの)国(くに)と為(な)す。……流(かは)より遡(さか)上(のぼ)りて、径(ただ)に河内(かはちの)国(くに)草香(くさか)邑(むら)の青空(あをくも)の白肩(しらかた)の津(つ)に至(いた)ります。………皇師(みいくさ)、兵(つはもの)を勒(ととの)へて、歩(かち)より龍田(たつた)に趣(おもむ)く。而(しか)して其(そ)の路(みち)狭(さ)く嶮(さか)しく、人(ひと)、並(なみ)行(ゆ)くを得(え)ず、乃(すなは)ち還(かへ)りて更(さら)に東(ひむがし)のかた膽駒(いこま)の山(やま)を踰(こ)えて、中洲(うちつくに)に入(い)らむと欲(おぼ)す。時(とき)に長髄彦(ながすねひこ)聞(き)きて曰(いは)く、天神(あまつかみ)の子(みこ)等(たち)の来(いで)ます所以(ゆゑ)は、必(かなら)ず将(まさ)に、我(わ)が国(くに)を奪(うば)はむというて、尽(ことごと)に属(したが)へる兵(つはもの)を起(おこ)して、孔(く)舎(さ)衙(かの)坂(さか)に徼(さへぎ)りて、与(とも)に会(あひ)戦(たたか)ふ。流矢(いたやぐし)ありて、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひぢ)に中(あた)れり。皇師(みいくさ)進(すす)み戦(たたか)ふこと能(あた)はず』
 これで今(いま)の大阪(おほさか)を浪速(なには)といふのであります。浪速(なには)の渡(わた)しを経(へ)て白肩(しらかた)の津(つ)に、船(ふね)を泊(と)められました。白肩(しらかた)を今(いま)はひらかたと申(まを)します。昔(むかし)は枚方(ひらかた)まで海(うみ)になつて居(ゐ)たのであります。此時(このとき)長髄彦(ながすねひこ)が待(ま)ち対(むか)ひ戦(たたか)ひました。長髄彦(ながすねひこ)は豪族(がうぞく)であつて、神武(じんむ)天皇(てんわう)の神軍(しんぐん)を防(ふせ)ぎました。神武(じんむ)天皇(てんわう)は矢(や)を防(ふせ)ぐ楯(たて)を、船(ふね)から御(お)出(だ)しになつて防(ふせ)がしめられました。現代(げんだい)では長髄彦(ながすねひこ)といふのは、大(おほ)地主(ぢぬし)とか、大(だい)富豪(ふがう)といふことになる。手長彦(てながひこ)となる。警察(けいさつ)の前(まへ)を通(とほ)れぬ盗人(ぬすびと)になります。或(あ)る国(くに)が印度(いんど)を奪(と)るといふことは、足(あし)を伸(の)ばして居(を)ると同(おな)じで、世界(せかい)各国(かくこく)に足(あし)を伸(の)ばして日(ひ)の没(ぼつ)せぬ国(くに)、某国(ぼうこく)の如(や)うになつて居(を)るのが長髄彦(ながすねひこ)である。小(ちひ)さな長髄彦(ながすねひこ)は大(おほ)地主(ぢぬし)であつた。唯(た)だ手(て)でとるか足(あし)で取(と)るかの差(さ)があるだけであります。長髄彦(ながすねひこ)は足(あし)を以(もつ)て土地(とち)を蹂躙(じうりん)するので、手長彦(てながひこ)は手(て)を以(もつ)て物(もの)を盗(と)るのであります。即(すなは)ち手(て)は天(てん)に属(ぞく)し、足(あし)は地(ち)に属(ぞく)する。大(おほ)地主(ぢぬし)とか、各国(かくこく)の土地(とち)を占領(せんりやう)して居(を)る国(くに)とかを、長髄彦(ながすねひこ)といふので、この長髄彦(ながすねひこ)が皇軍(くわうぐん)に刃(は)向(むか)うた。今日(こんにち)で云(い)ふと、丁度(ちやうど)大和(やまと)一円(いちゑん)の豪族(がうぞく)が、反抗(はんかう)したと同(おな)じ有様(ありさま)であります。その皇軍(くわうぐん)と長髄彦(ながすねひこ)と戦(たたか)うた時(とき)に、皇兄(くわうけい)五瀬命(いつせのみこと)が、流矢(ながれや)に中(あた)つて国替(くにがへ)をなされました。この五瀬命(いつせのみこと)は厳兄(いつせ)で、皇兄(くわうけい)といふことになります。
 『天皇(てんわう)憂(うれ)ひたまふ、乃(すなは)ち神(あやしき)策(はかりごと)を沖衿(みこころのうち)に運(さだ)めたまひて曰(のたまは)く、今(いま)我(わ)れは是(こ)れ日神(ひのかみ)の子孫(うみのこ)にして、日(ひ)に向(むか)ひて虜(あだ)を征(う)つは、此(こ)れ天(あめ)の道(みち)に逆(さか)れり。退(しりぞ)き還(かへ)りて弱(よわ)きことを示(しめ)して、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を礼(ゐやひ)祭(いは)ひて、背(そびら)に日神(ひのかみ)の威(みいきほひ)を負(お)ひたてまつり、影(みかげ)の随(まま)に圧(おそ)ひ躡(ふ)まむに若(し)かじ。如(かく)此(あ)らば則(すなは)ち曽(かつ)て刃(は)に血(ち)ぬらずして、虜(あだ)必(かなら)ず自(おのづか)らに敗(やぶ)れなむ。僉(みな)曰(いは)く然(しか)りと。於是(ここに)、軍中(みいくさ)に令(のりご)ちて曰(のたまは)く、且(しば)らく停(とど)まれ、復(また)な進(すす)みそ。乃(すなは)ち軍(いくさ)を引(ひ)いて還(かへ)りたまふ。虜(あだ)、亦(また)敢(あへ)て逼(せ)めまつらず。郤(しりぞ)いて草(くさ)香(か)津(のつ)に至(いた)りて、盾(たて)を樹(た)てて雄(を)誥(たけ)びを為(な)す…………』
 そこで神武(じんむ)天皇(てんわう)は、更(さら)に神(かみ)にうかがはれました。即(すなは)ち直霊(なほひ)に省(かへり)み給(たま)ひて、我(われ)はこれ日(ひ)の神(かみ)の御子(みこ)である。然(しか)るに日(ひ)に向(むか)つて戦(たたか)つたのが敗戦(はいせん)の原因(げんいん)であらう。即(すなは)ち西(にし)より東(ひがし)に向(むか)ふのは、朝日(あさひ)に向(むか)ひ、太陽(たいやう)に向(むか)ふことになりますから、日(ひ)を背(せな)に負(お)ふために、道(みち)を転(てん)じて、紀伊(きい)の方(はう)から大和(やまと)に出(で)ることにされました。これを今日(こんにち)の軍事(ぐんじ)から云(い)へば、日本(につぽん)の軍法(ぐんぱふ)は、中昔(ちうせき)のことは知(し)りませぬが、明治(めいぢ)以後(いご)は海外(かいぐわい)から教(おそ)はつたもので、独逸(ドイツ)の軍隊(ぐんたい)編制(へんせい)だとか、戦法(せんぱふ)だとか、其(そ)の他(た)各国(かくこく)から取(と)つた、それを混同(こんどう)したもので、即(すなは)ち各国(かくこく)戦法(せんぱふ)の長所(ちやうしよ)を採用(さいよう)したといふことになります。
 日本(につぽん)も今(いま)では八八(はちはち)艦隊(かんたい)も出来(でき)かけたし、又(また)陸軍(りくぐん)も多(おほ)くなりましたが、併(しか)し体(たい)を以(もつ)て体(たい)に対(たい)するといふ事(こと)になれば、吾々(われわれ)の如(ごと)き小(ちひ)さな人間(にんげん)と、常陸(ひたち)山(やま)と角力(すまふ)をとるやうなもので、必(かなら)ず日本(につぽん)は敗(やぶ)れるのであります。今(いま)日本(につぽん)が或(あ)る一国(いつこく)と戦(たたか)ふのにも、金(かね)の上(うへ)に於(おい)て、武器(ぶき)の上(うへ)に於(おい)て、又(また)兵員(へいゐん)とか、艦船(かんせん)とか飛行機(ひかうき)等(など)の上(うへ)に於(おい)て、外国(ぐわいこく)は常(つね)に常陸(ひたち)山(やま)で、吾々(われわれ)が日本(につぽん)といふ有様(ありさま)で、到底(たうてい)勝(か)つことは出来(でき)ない。即(すなは)ち皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)に反(はん)した、外国(ぐわいこく)の戦法(せんぱふ)を用(もち)ひては、敗(やぶ)れるのでありますが、併(しか)し言霊(ことたま)の力(ちから)を以(もつ)て日(ひ)を背(せな)に負(お)うて戦(たたか)ふ、即(すなは)ち皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)に随(したが)つて戦(たたか)へば勝(か)つのであります。実(じつ)に神軍(しんぐん)の兵法(へいはふ)は、古(こ)事(じ)記(き)の中(なか)に立派(りつぱ)に、各所(かくしよ)に明記(めいき)されてありますが、今日(こんにち)はただ泰西(たいせい)の真似(まね)をして居(を)る戦法(せんぱふ)であるから役(やく)に立(た)たぬ。今度(こんど)仮(か)りに某国(ぼうこく)と戦(たたか)ふといふ時(とき)に、今(いま)までのやうなやり方(かた)をして居(ゐ)ては勝(か)てぬのであります。今(いま)までの間(あひだ)に於(おい)て、日清(につしん)戦争(せんさう)や日露(にちろ)戦争(せんさう)に勝(か)つことの出来(でき)たのは、全(まつた)く神明(しんめい)の御(ご)加護(かご)が第(だい)一次(つぎ)には相手(あひて)の敵(てき)が弱(よわ)かつたからである。今後(こんご)の戦争(せんさう)を日露(にちろ)戦争(せんさう)などと同(おな)じに見(み)て居(を)つては迚(とて)も勝(か)つことは出来(でき)ませぬ。以前(まへ)には日本(につぽん)を侮(あなど)つて、日本(につぽん)を指導(しだう)啓発(けいはつ)しようとした某国(ぼうこく)なども、今日(こんにち)では日本(につぽん)を侮(あなど)れなくなつて、日本(につぽん)に対(たい)して万一(まんいち)の備(そな)へをして居(を)る有様(ありさま)であります。もし某国(ぼうこく)の飛行機(ひかうき)が、今日(こんにち)人戸(じんこ)密集(みつしふ)の都会(とくわい)の空(そら)に来(き)て、爆弾(ばくだん)を一つ落(おと)しましても、五百間(けん)四方(しはう)は忽(たちま)ち燃(も)えるのであるから、四つ五つも落(おと)されようものなら、一遍(ぺん)にやられてしまひます。それで向(むか)ふの飛行機(ひかうき)と此方(こちら)の飛行機(ひかうき)、向(むか)ふの軍艦(ぐんかん)と此方(こちら)の軍艦(ぐんかん)と戦(たたか)ふのでは、充分(じうぶん)の勝利(しようり)は認(みと)められぬ。これは所謂(いはゆる)皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)に反(はん)して、日(ひ)を背(せな)に負(お)はず、日(ひ)に向(むか)ふからであつて、皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)通(どほ)りに、日(ひ)を背(せな)に負(お)うて戦(たたか)へば、即(すなは)ち皇祖(くわうそ)皇宗(くわうそう)の御(ご)遺訓(ゐくん)たる神軍(しんぐん)の兵法(へいはふ)に依(よ)りてやれば、長髄彦(ながすねひこ)を討伐(たうばつ)し、外国(ぐわいこく)に勝(か)つことが出来(でき)るのであります。
 『軍(みいくさ)、茅渟(ちぬ)の山城(やましろ)の水門(みなと)(亦(また)の名(な)は、山井(やまのゐ)の水門(みなと))に至(いた)る。時(とき)に五瀬命(いつせのみこと)、矢瘡(いたやぐしのきず)痛(いた)みますこと甚(はなはだ)し。乃(すなは)ち剣(つるぎ)の手頭(たがみ)撫(とりしば)りて、雄誥(をたけび)したまひて、慨哉(うれたきかや)、大丈夫(ますらを)にして、虜手(いやしきやつこ)の被傷(てをおひ)て、報(むく)いずして死(や)みなむと曰(い)ふ。時(とき)の人(ひと)、因(よ)りて其(そ)の処(ところ)を号(なづ)けて、雄(を)の水門(みなと)と曰(い)ふ。進(すす)んで紀伊(きいの)国(くに)竈山(かまやま)に到(いた)りて、五瀬命(いつせのみこと)、軍(いくさ)に薨(かみさ)りましぬ。因(よ)りて竈山(かまやま)に葬(をさ)めたてまつる。』
 白肩(しらかた)の津(つ)から、南(みなみ)へ廻(まは)らうとして行(ゆ)かれると、五瀬命(いつせのみこと)が、御(お)負傷(いたで)の血(ち)を洗(あら)はれましたので、今(いま)では茅渟(ちぬ)の海(うみ)と申(まを)します。それから紀州(きしう)の雄(を)の水門(みなと)へ船(ふね)で行(ゆ)かれますと、五瀬命(いつせのみこと)が、賤(いや)しき奴(やつこ)の手(て)を負(お)うて、今(いま)此処(ここ)で死(し)ぬるかと雄(を)たけびなされて、残念(ざんねん)と云(い)ひ乍(なが)ら御(お)薨去(かくれ)になりました。それで今(いま)に雄(を)の水門(みなと)と申(まを)します。五瀬命(いつせのみこと)の御陵(みささぎ)は紀(き)の国(くに)の竈山(かまやま)にあります。
 そこで神(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)彦(ひこの)尊(みこと)即(すなは)ち神武(じんむ)天皇(てんわう)は廻(まは)り出(い)でて、熊野(くまの)の浦(うら)に出(い)でられました。その時(とき)に大(おほ)きな熊(くま)が出(で)て又(また)隠(かく)れた。そこで今(いま)に熊野(くまの)というてをるが、この熊(くま)といふのは本当(ほんたう)の熊(くま)ではなく、悪魔(あくま)といふ事(こと)であります。この悪魔(あくま)のアは、言霊(げんれい)学(がく)上(じやう)言(い)はぬことが多(おほ)いのであつて、五大(ごだい)母音(ぼおん)は、隠(かく)れて居(を)る場合(ばあひ)が沢山(たくさん)あります。即(すなは)ち伊達(いだて)を唯(ただ)ダテと云(い)ひ、悪魔(あくま)をクマと云(い)ふのであります。この大(だい)悪魔(あくま)即(すなは)ち、四つ足(あし)の悪魔(あくま)が出(で)て皇軍(みいくさ)を遮(さへぎ)つた。世(よ)の中(なか)は総(すべ)て霊界(れいかい)が支配(しはい)して居(を)りますから、熊(くま)が一寸(ちよつと)出(で)て、又(また)隠(かく)れたといふのは、悪霊(あくれい)が憑(かか)つたといふことであります。
 『時(とき)に神(かみ)、毒気(あしきき)を吐(は)いて、人物(ひと)、咸(ことごと)に瘁(をえ)ぬ。是(これ)に因(よ)りて、皇軍(みいくさ)、復(ま)た振(おこ)ること能(あた)はず』
 この悪霊(あくれい)のために神(かむ)日本(やまと)磐余(いはれ)彦(ひこの)尊(みこと)は、身体(からだ)がフニヤフニヤになつて一歩(いつぽ)も進(すす)めず、倒(たふ)れてしまはれました。後(あと)は野(の)となれ山(やま)となれ、戦(いくさ)などは、どうでもよい、それよりも寝(ね)たいと云(い)つて、更(さら)に戦(たたか)ふ勇気(ゆうき)なく平太(へた)つて了(しま)ひました。日清(につしん)日露(にちろ)の戦(たたかひ)に、脆(もろ)くも敵(てき)が敗(ま)けたのは、霊(れい)と霊(れい)との戦(たたかひ)で、霊(れい)が向(むか)ふへ憑(うつ)りて遁(に)げさしたのであります。又(また)此方(こちら)は神(かみ)がかかつて、生命(いのち)を構(かま)はず進(すす)むから敵(てき)を負(ま)かすことが出来(でき)るので、所謂(いはゆる)日(ひ)を背(せ)に負(お)うて戦(たたか)へば、鉄砲(てつぱう)弾(だま)も中(あた)らぬのであります。
 『時(とき)に、彼処(そこ)に人(ひと)在(あ)り、号(な)を熊野(くまぬ)の高倉下(たかくらじ)と曰(い)ふ。忽(たちま)ちに夜(よ)夢(ゆめ)みらく、天照(あまてらす)大神(おほかみ)、武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)に謂(い)ひて曰(の)りたまはく、夫(か)の葦原(あしはらの)中国(なかつくに)は、猶(なほ)、聞喧擾之響焉(さやげり)、汝更(いましまた)往(ゆ)いて征(う)て。武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)、対(こた)へて曰(まを)しき、予(やつがれ)行(ま)からずて、予(やつこ)が平(くに)国(むけ)之(し)剣(つるぎ)を下(くだ)さば、則(すなは)ち国(くに)自(おのづか)らに平(むけ)矣(なむ)。天照(あまてらす)大神(おほかみ)曰(の)りたまはく、諾(うめなり)時(とき)に武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)、登(すなは)ち高倉下(たかくらじ)に謂(い)うて曰(いは)く、予(あ)が剣(つるぎ)の号(な)を韴霊(ふつのみたま)と言(い)ふ。今(いま)、当(まさ)に汝(いまし)が庫裏(くらのうら)に置(お)く取(と)りて之(こ)れを天孫(すめみまのみこと)に献(たてまつ)れ。高倉下(たかくらじ)、唯々(おお)と曰(まを)すと夢(み)て寤(さ)めぬ。明(あくる)旦(あした)、夢(ゆめ)の中(なか)の教(をしへ)に依(よ)りて庫(くら)を開(あ)けて視(み)れば、果(はた)して落(お)ちたる剣(つるぎ)有(あ)り。倒(さかしま)に庫(くら)の底板(しきいた)に立(た)てり。即(すなは)ち取(と)りて進之(たてまつる)。時(とき)に、天皇(すめらみこと)、適(よ)く寐(みね)ませり。忽然(たちまち)にして寤(さ)めて曰(の)りたまはく、予(あれ)何(なん)ぞ若此(かく)長眠(ながい)しつるや。尋(つづ)いて毒(あしきき)に中(あた)りし士卒(いくさのひとども)、悉(ことごと)に復(また)醒起(おき)ぬ』
 この時(とき)に高倉下(たかくらじ)といふ人(ひと)があつて、一つの神剣(しんけん)を持(も)つて来(き)て、天皇(てんわう)に献(たてまつ)つた。すると玉体(ぎよくたい)も、しやんとせられ、総(すべ)ての軍隊(ぐんたい)もしやんとして来(き)た。勇気(ゆうき)は平常(へいぜい)に百倍(ばい)して来(き)た、そこで高倉下(たかくらじ)に向(むか)つて如何(どう)してこの霊剣(れいけん)を得(え)たかと問(と)はれますと、対(こた)へて曰(い)ふのに、私(わたくし)は天照(あまてらす)大神(おほかみ)、高木(たかぎの)神(かみ)が天上(てんじやう)で、武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)を御(お)呼(よ)び寄(よ)せになりましたのを夢(ゆめ)に見(み)ました。さうして天照(あまてらす)大神(おほかみ)様(さま)が、豊(とよ)葦原(あしはら)の中津(なかつ)国(くに)はいたくさやぎてをる、即(すなは)ち大(だい)戦争(せんさう)をやつてをる。我(あが)子孫(すめみま)の皇軍(くわうぐん)は、定(さだ)めて困(こま)つて居(を)るであらう。葦原(あしはら)の中津(なかつ)国(くに)は、汝(いまし)が専(もつぱ)ら言(こと)向(む)けつる国(くに)であるから、再(ふたた)び降(くだ)つて平定(へいてい)せよと仰(あふ)せられました。そこで武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)が、曰(い)はるるには、私(やつがれ)が中津(なかつ)国(くに)に降(くだ)らなくとも、言(こと)向(む)けして平定(へいてい)した剣(つるぎ)がありますから、その剣(つるぎ)を下(くだ)しませうと申(まを)されました。此(こ)の剣(つるぎ)は平国(くにむけ)の剣(つるぎ)、又(また)の名(な)をみかふつの神(かみ)、又(また)ふつの御魂(みたま)と申(まを)しますが、これは石上(いそのかみ)神宮(じんぐう)に祭(まつ)つてあります。之(これ)を私(やつがれ)の代(かは)りに、中津(なかつ)国(くに)へ降(くだ)しますと申(まを)されて、天(てん)から御(お)降(くだ)しになつた。この剣(つるぎ)には武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)の霊(れい)が加(くは)はつて居(を)ります。即(すなは)ち天照(あまてらす)大神(おほかみ)、高木(たかぎの)神(かみ)から授(さづ)けられた時(とき)に、鎮魂(ちんこん)が出来(でき)てをるのであります。これは天孫(てんそん)降臨(かうりん)の時(とき)、大国主(おほくにぬしの)命(みこと)に経津主(ふつぬしの)神(かみ)が、国土(こくど)返上(へんじやう)をせられて中津(なかつ)国(くに)を平定(へいてい)せられたその時(とき)に、天照(あまてらす)大神(おほかみ)の神霊(しんれい)の宿(やど)つた剣(つるぎ)でありますから、その剣(つるぎ)を下(くだ)してやれば、皇軍(くわうぐん)は勝(か)つことが出来(でき)ますと云(い)うて、天(てん)から御(お)下(くだ)しになりました。如何(どう)して御(お)下(くだ)しになつたかと申(まを)しますと、高倉下(たかくらじ)の庫(くら)の棟(むね)を穿(うが)つて、その穴(あな)から落(おと)されたのであります。武甕雷(たけみかづちの)神(かみ)が、高倉下(たかくらじ)に申(まを)されるのには、庫(くら)の棟(むね)に穴(あな)を穿(うが)つて神剣(しんけん)を下(くだ)して置(お)いたから、明朝(みやうてう)早(はや)く起(お)きて、之(これ)を日(ひ)の御子(みこ)に献(たてまつ)れと申(まを)されました夢(ゆめ)を見(み)たのであります。そこで高倉下(たかくらじ)は夢(ゆめ)で教(をそ)はつたやうに、翌朝(よくてう)早(はや)く起(お)きて庫(くら)を開(あ)けると、夢(ゆめ)に見(み)た通(とほ)り一本(いつぽん)の剣(つるぎ)があつたのであります。その剣(つるぎ)を取(と)りて神武(じんむ)天皇(てんわう)に献(たてまつ)つたのであります。何故(なぜ)この熊野(くまぬ)の高倉下(たかくらじ)に剣(つるぎ)を渡(わた)されたか、結構(けつこう)な御用(ごよう)をさせられたかと申(まを)すに、高倉(たかくら)は高(たか)御(み)座(くら)であります。高倉下(たかくらじ)は今(いま)では、この土地(とち)の住民(ぢゆうみん)になつてをるが、元(もと)は天照(あまてらす)大神(おほかみ)様(さま)から分(わか)れた神様(かみさま)の子(こ)で、天孫(てんそん)に先(さき)立(だ)つて天(あま)降(くだ)つてゐられたのであります。高(たか)御(み)座(くら)から下(くだ)つたから高倉下(たかくらじ)である。これは霊界(れいかい)の因縁(いんねん)であつて、御(お)筆先(ふでさき)にも、総(すべ)て神様(かみさま)の御用(ごよう)は、因縁(いんねん)の霊魂(みたま)でなくては出来(でき)ぬ、と示(しめ)されて居(を)るのと同様(どうやう)であります。明治(めいぢ)二十五年(ねん)に開祖(かいそ)が気(き)違(ちが)ひとして、座敷(ざしき)牢(らう)に投(な)げ込(こ)まれなされた時(とき)に、矢張(やは)り高倉下(たかくらじ)と同(おな)じやうに、七寸(すん)五分(ぶ)の剣(つるぎ)を夢(ゆめ)に見(み)せられて、この剣(つるぎ)を以(もつ)て世界(せかい)を洗濯(せんたく)せよ荒(あら)ぶる邪神(じやしん)を掃蕩(さうたう)せよと仰(あふ)せられ、膝下(しつか)に置(お)いてあつたというて、今(いま)尚(な)ほ大本(おほもと)の神宝(しんぱふ)となつてをりますが、実(じつ)に歴史(れきし)は繰(く)り返(かへ)すと言(い)はるるやうに、繰(くり)返(かへ)し繰(くり)返(かへ)し同(おな)じ事(こと)が出(で)て来(く)るのが不(ふ)思(し)議(ぎ)であります。開祖(かいそ)は何時(いつ)献(たてまつ)られるのか知(し)りませぬが、高倉下(たかくらじ)と同(おな)じ御用(ごよう)を為(さ)されて居(を)らるるのであるまいかと思(おも)ふのであります。
 『既(すで)に皇師(みいくさ)、中洲(うちつくに)に趣(おもむ)かむと欲(おもほ)す。而(しか)も山(やま)の中(なか)嶮(さか)絶(しく)して、復(また)行(ゆ)くべき路(みち)無(な)し。乃(すなは)ち棲(しじ)遑(まひ)て、跋(ふみ)渉(ゆか)む所(ところ)を知(し)らず。時(とき)に夜(よ)、夢(ゆめ)みたまはく、天照(あまてらす)大神(おほかみ)、天皇(すめらみこと)に訓(をし)へまつりて曰(の)りたまはく、朕(あれ)今(いま)、頭八咫(やあた)烏(からす)を遣(つか)はさむ。以(も)て向導者(くにのみちびき)と為(し)たまへと。果(はた)して頭八咫(やあた)烏(からす)有(あ)り。大空(おほぞら)より翔(とび)降(くだ)る。天皇(すめらみこと)曰(の)りたまはく、此(こ)の烏(からす)の来(く)ること、自(おのづか)らに祥(よき)夢(ゆめ)に叶(かな)へり。大(よい)哉(かな)、赫矣(さかりなるかな)。…………』
 それで一時(いちじ)この神剣(しんけん)の徳(とく)によつて、軍隊(ぐんたい)が元気(げんき)がついて来(き)て、昇天(しようてん)の勢(いきほひ)になつて来(き)た。しかし高木(たかぎの)神(かみ)の御(ご)命令(めいれい)によれば、これから奥(おく)には入(はい)つてはならぬ。今(いま)剣(つるぎ)の徳(とく)に依(よ)つて元気(げんき)づいて来(き)て進(すす)まうとするのを、勢(いきほひ)にまかせて進(すす)めては危(あぶ)ない。今(いま)八咫(やあた)烏(からす)を遣(つか)はして皇軍(くわうぐん)を導(みちび)かしめるから、その後(あと)から行(ゆ)けばよい。さうすると皇軍(くわうぐん)の勝利(しようり)となる、と仰(あふ)せられたのであります。
 この八咫(やあた)烏(からす)には大(おほい)に意味(いみ)があるので、鏡(かがみ)と同(おな)じ意味(いみ)、即(すなは)ち八咫(やあた)鏡(かがみ)と同(おな)じ事(こと)になります。正(ただ)しく言(い)へばヤタガラスでなくして、ヤアタガラスである。前(ぜん)申(まを)しました通(とほ)り、言霊(げんれい)上(じやう)五大(だい)母音(ぼおん)のアが隠(かく)れるのであります。即(すなは)ちこの八咫(やあた)烏(からす)は天(てん)から降(くだ)つたもので、四方(しはう)八方(ぱう)を明(あきら)かにするといふのであります。このガは輝(かがや)くであり、ラは巡(めぐ)るであり、スは統(すべ)るである。三千年(ねん)間(かん)世(よ)に落(お)ちて、世界(せかい)の隅々(すみずみ)までも調(しら)べられたといふことが神諭(しんゆ)に出(で)てをりますが、これがヤアタに調(しら)べられたといふ事(こと)なので、三千世界(せかい)一度(いちど)に開(ひら)く梅(うめ)の花(はな)がカであり、天運(てんうん)循環(じゆんくわん)がラであり、スは統(すべ)るで世界(せかい)統一(とういつ)の教(をしへ)であります。ヤアタガラスをかためて申(まを)せば、国常立尊(くにとこたちのみこと)様(さま)が世界(せかい)を治(をさ)め遊(あそ)ばす教(をしへ)といふことになる。神様(かみさま)の教(をしへ)が八咫(やあた)烏(からす)である。元気(げんき)がついても軽々(かるがる)しく進(すす)むな、神(かみ)の教(をしへ)に随(したが)へと高木(たかぎの)神(かみ)が言(い)はれたのであります。
 『山(やま)を蹈(ふ)み、啓行(みちをひら)きて、乃(すなは)ち烏(からす)の所向(むかひ)の尋(まにまに)、仰(あふ)ぎ視(み)て追(お)ひ、遂(つひ)に兎田(うだ)の下縣(しもつこほり)に到達(とほりいた)る。因(よ)りて其(そ)の所至(いたり)し処(ところ)を号(なづ)けて、兎田穿邑(うだうけちのむら)と曰(い)ふ。…………天皇(すめらみこと)、兄猾(えうかし)及(およ)び弟猾(おとうかし)を徴(め)さしむ。是(こ)の両(ふたり)の人(ひと)は兎田(うだの)縣(こほり)の魁帥(ひとこのかみ)なり。時(とき)に兄猾(えうかし)不来(まゐこず)、弟猾(おとうかし)即(すなは)ち詣(まゐ)至(け)り。因(よ)りて軍門(みかど)を拝(をが)みて、告之(まを)して曰(まを)さく、臣(やつがれ)が兄(あに)兄猾(えうかし)が逆(さか)さまなるわざを為(な)す状(さま)は、天孫(すめみま)、且到(いたりまさむ)とすと聞(うけたまは)りて、即(すなは)ち兵(つはもの)を起(おこ)して襲(おそ)ひたてまつらむとす。皇師(みいくさ)の威(いきほひ)を望見(みる)に、敢(え)敵(あた)るまじきを惧(お)ぢて、乃(すなは)ち潜(ひそか)に其(そ)の兵(つはもの)を伏(かく)して、権(か)りに新宮(にひみや)を作(つく)りて、殿(みあらか)の内(うち)に機(おし)を施(お)きて、因(よ)りて請(みあへ)餐(たてまつ)らむとまをして、作(まち)難(とらむ)と欲(おぼ)す願(ねが)はくばこの詐(いつはり)を知(し)ろしめして、善為(そなへ)之備(たまへ)』
 それから皇軍(くわうぐん)は山(やま)を踏(ふ)み穿(うが)ちて、大和(やまと)の兎田(うだ)に出(で)て行(ゆ)かれました。これは今(いま)でも残(のこ)つてをつて、宇陀(うだ)郡(ごほり)といふ郡(ぐん)もあります。ここへ来(こ)られると、兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)といふものがをる。一体(たい)このウカシは余(あま)りよいものの名(な)ではない。迂散(うさん)な奴(やつ)といふ意味(いみ)であります。誠(まこと)を失(うしな)つたもので、弱(よわ)いものを虐(しひた)げて、自分(じぶん)勝手(かつて)のことばかりをするもので、ぼかしとか、化(ばか)しとか云(い)うて、呆(とぼ)けて悪事(あくじ)をなすものであつて非常(ひじやう)に権力(けんりよく)を持(も)つてをるものであります。
 そこに八咫(やあた)烏(からす)を御(お)遣(つか)はしになつて、天津(あまつ)神(かみ)の神勅(しんちよく)を伝(つた)へさせ、汝(なんじ)等(ら)は帰順(きじゆん)するか、天孫(てんそん)に降伏(かうふく)するか何(ど)うかと問(と)はれました。すると兄猾(えうかし)は鳴(なり)鏑(かぶら)、大(おほ)きな矢(や)で射(い)返(かへ)して使(つかひ)の人(ひと)を射(い)殺(ころ)して了(しま)つた。鳴(なり)鏑(かぶら)は矢(や)の先(さき)に穴(あな)があつて、矢(や)が鳴(な)りつつ行(ゆ)くもので、それで射(い)て射(い)て射(い)返(かへ)すから、進(すす)むことが出来(でき)ずに、使(つかひ)のものも還(かへ)つて来(き)たのであります。其処(そこ)を今(いま)では鏑崎(かぶらざき)と名(な)附(づ)けてをります。そこで兄猾(えうかし)は皇軍(くわうぐん)を討(う)たむとして軍兵(ぐんぺよう)を集(あつ)めたけれども、軍隊(ぐんたい)が集(あつ)まらぬ。それは霊(れい)の作用(さよう)であつた。皇軍(くわうぐん)には神剣(しんけん)と八咫(やあた)烏(からす)の御(ご)守護(しゆご)がありますから、兄猾(えうかし)が一生(いつしやう)懸命(けんめい)になつて、部下(ぶか)の兵(へい)を募集(ぼしふ)しても、神剣(しんけん)の威徳(ゐとく)に恐(おそ)れて、一人(ひとり)も寄(よ)つて来(こ)ぬのであります。そこで已(や)むを得(え)ず降参(かうさん)したというて、実(じつ)は偽(いつは)りの降伏(かうふく)であります。俄(には)かに大(おほ)きな御殿(ごてん)を造(つく)つて、機(はづみ)即(すなは)ち釣(つり)天井(てんじやう)のやうなものを仕(し)掛(か)けて、御(ご)馳走(ちそう)をして日(ひ)の御子(みこ)が中(なか)に入(はい)られようとさるる時(とき)、上(うへ)から臼(うす)見(み)たやうなものを落(おと)して、生命(いのち)を奪(と)らうと計(はか)つたのであります。
 その時(とき)弟猾(おとうかし)に正(ただ)しき神(かみ)が懸(かか)つてしまはれたから、弟猾(おとうかし)の奴(やつ)、じつとしてをる事(こと)が出来(でき)ずに、到頭(たうとう)兄(あに)の計略(けいりやく)を、悉皆(しつかい)日(ひ)の御子(みこ)に告(つ)げ参(まゐ)らせて了(しま)つたのであります。
 弟猾(おとうかし)が、天皇(てんわう)の所(ところ)に来(き)て曰(い)ふのには、兄(あに)の兄猾(えうかし)が、天孫(てんそん)を邀(むか)へ撃(う)たむとして、兵(へい)を集(あつ)めて見(み)たけれども、何(ど)ういふものか今度(こんど)は却々(なかなか)集(あつ)まつて来(き)ませぬ。そこで計(はかりごと)を設(まう)けて、大(おほ)きな御殿(ごてん)を造(つく)り、実(じつ)は降伏(かうふく)と見(み)せかけて、御(ご)馳走(ちそう)を奉(たてまつ)り、日(ひ)の御子(みこ)をそれへ招待(せうたい)し、日(ひ)の御子(みこ)が入(はい)られようとする時(とき)に機(はづみ)を以(もつ)て御(お)生命(いのち)を奪(と)らうとしてをります。それで此所(ここ)に参向(さんかう)致(いた)して、事情(じじやう)を密告(みつこく)しますと言(い)つたのであります。これは二人(ふたり)の兄弟(きやうだい)が、一生(いつしやう)懸命(けんめい)に悪(あく)を働(はたら)いてをつたのであるけれども、その悪人(あくにん)が俄(には)かに善人(ぜんにん)になつたのは、全(まつた)く神様(かみさま)が御魂(みたま)を入(い)れ替(か)へられたからで、即(すなは)ち神(かみ)から斯(か)ういふ工合(ぐあひ)にして人間(にんげん)を使(つか)はれて居(を)るのであります。
 『天皇(すめらみこと)、即(すなは)ち道臣(みちのおみの)命(みこと)を遣(つかは)して、其(そ)の逆(さか)ふる状(かたち)を察(み)せたまふ。時(とき)に道臣(みちのおみの)命(みこと)、審(つまびら)かに賊害(あだな)ふ心(こころ)あることを知(さと)りて、大(おほ)いに怒(いか)りて、誥(たけ)び嘖(ころ)びて曰(いは)く、虜(いやし)爾(やつこ)が造(つく)れる屋(や)には、爾(おれ)自(みづか)ら居(いりゐ)よといふ。因(よ)りて剣(つるぎ)のたがみ案(とりしば)り、弓(ゆみ)彎(ひ)きまかなひて、逼(せ)めて催(おひ)入(い)れしむ。兄猾(えうかし)、罪(つみ)を天(きみ)に獲(え)たれば事(こと)、辞(いなぶ)る所(ところ)無(な)し。乃(すなは)ち自(おの)れ機(はづみ)を踏(ふ)みて圧(おそ)はれ死(し)にぬ。時(とき)に其(そ)の屍(かばね)を陳(ひ)きいだして斬(き)る。…………弟猾(おとうかし)、大(おほ)いに牛(しし)酒(ざけ)を設(まう)けて、以(も)ちて皇師(みいくさ)を労(み)饗(あへ)す焉。天皇(すめらみこと)、其(そ)の酒(さけ)宍(しし)を以(も)ちて、軍卒(いくさびとども)に班賜(あた)ふ。乃(すなは)ち御謡(みうたよみ)して曰(のりたまは)く、……』
 そこで天皇(てんわう)は道臣(みちのおみの)命(みこと)即(すなは)ち大(おほ)久米(くめ)の大将(たいしやう)、今(いま)の司令(しれい)長官(ちやうくわん)のやうなものと、大伴(おほとも)即(すなは)ち今(いま)の侍従(じじう)武官(ぶくわん)長(ちやう)のやうなものと、二人(ふたり)を御(お)遣(つか)はしになつて、その方(はう)は詐(いつは)りてをる、その手(て)は喰(く)はぬ。それが嘘(うそ)であつたら、汝(なんぢ)先(ま)づ御殿(ごてん)に入(はい)れと言(い)つて、二人(ふたり)が刀(かたな)の柄(つか)を握(にぎ)り、鯉口(こひぐち)くつろけてぢりぢりと、双方(さうはう)から迫(せま)つたので、已(や)むを得(え)ず自分(じぶん)が入(はい)りますと、自分(じぶん)で造(つく)つた機(はづみ)に押(お)し付(つ)けられて死(し)んだのであります。弟猾(おとうかし)の方(はう)は、大(おほい)に誠(まこと)を尽(つく)し御(み)饗(あへ)を奉(たてまつ)り、皇軍(くわうぐん)を慰労(ねぎら)うたのであります。
 その天皇(てんわう)の御(おん)歌(うた)に、
 『兎田(うだ)の高城(たかき)に、鴫(しぎ)罠(わな)張(は)る、我(わが)待(ま)つや、鴫(しぎ)は罹(さや)らず、いすくはし、鯨(くじら)罹(さや)り、前妻(こなみ)が、魚乞(なこ)はさば、立(たち)柧稜(そば)の、実(み)の少(すなけ)くを、扱(こ)きし捭(ひ)取(ゑ)ね、後妻(うはなり)が、魚乞(なこ)はさば、いちさかき、実(み)の多(おほ)けくを、こきだ捭(ひ)取(ゑ)ね』
 これはつまり、兄猾(えうかし)が自分(じぶん)を、機(はづみ)にかけようとしたが、自分(じぶん)がかかつて死(し)んで了(しま)つた。これは天罰(てんばつ)であると、大(おほい)に軍隊(ぐんたい)が勇(いさ)んで来(き)た時(とき)の御(み)歌(うた)であります。
 『是(この)後(のち)に、天皇(すめらみこと)、吉野(よしの)の地(ところ)を省(みそなは)さむと欲(おぼ)して、乃(すなは)ち兎田(うだの)穿邑(うけちのむら)より、親(みみづか)ら軽(いささけき)兵(つはもの)を率(ひき)ゐて巡(めぐり)幸焉(いでます)。吉野(よしの)に到(いた)り…………』
 それから八咫(やあた)烏(からす)の後(あと)から随(つ)いて行(ゆ)くと、吉野(よしの)川(がは)の下(しも)に出(で)られた。神様(かみさま)の教(をしへ)に随(したが)つて行(ゆ)けば、易々(やすやす)とよい道(みち)に出(で)られたのであります。この吉野(よしの)川(がは)を言霊(ことたま)から解釈(かいしやく)いたしますと、実(じつ)に美(うる)はしい、水晶(すゐしやう)の世(よ)の中(なか)といふことになり、神(かみ)の御徳(みいづ)が、国内(こくない)に潤(うるほ)ひ溢(あふ)れてをるといふことであります。この川(かは)は変(かは)るといふことで、世(よ)の中(なか)を清(きよ)め、すべての物(もの)を美(うる)はしく、変(か)へるといふことになります。其処(そこ)へ行(ゆ)かれますと、漁師(れふし)がをつて、吉野(よしの)川(がは)の魚(うを)を取(と)つて、天皇(てんわう)に献(たてまつ)つた。所謂(いはゆる)今日(こんにち)で言(い)へば、皇軍(くわうぐん)を慰労(ねぎら)つたのであります。この魚(うを)を魚(な)と申(まを)します。サカナ即(すなは)ちナと言(い)ひまして、この魚(な)を献(たてまつ)るといふことは、天皇(てんわう)の御名(みな)が、世界(せかい)に輝(かがや)くといふ意味(いみ)で祝(いは)うたのであります。目(め)出(で)度(た)い時(とき)に、鯛(たひ)や鯉(こひ)を祝(いは)ふのと同(おな)じ事(こと)で、即(すなは)ち祝(いは)うて魚(うを)を献上(けんじやう)したのであります。
 『時(とき)に、人(ひと)有(あ)りて、井(ゐ)の中(なか)より出(い)でたり。光(ひか)りて尾(を)もあり。天皇(すめらみこと)、問(と)うて曰(の)りたまはく、汝(いまし)は何人(なにびと)ぞ。対(こた)へて曰(いは)く、臣(やつがれ)は是(こ)れ国(くにつ)神(かみ)なり。名(な)を井(ゐ)光(ひかり)と為(い)ふ。此(こ)れ即(すなは)ち吉野(よしの)の首部(おひとら)の始(はじめ)の祖(おや)なり』
 それからどんどん八咫(やあた)烏(からす)に随(つ)いて進(すす)んで行(ゆ)くと、尾(を)の有(あ)る人(ひと)が出(で)て来(き)たといふ事(こと)が記(しる)されてある。この烏(からす)は今日(こんにち)では神(かみ)の教(をしへ)で、高倉下(たかくらじ)が八咫(やあた)烏(からす)の御用(ごよう)に仕(つか)へたのであります。そこに井(ゐど)の中(なか)から、尾(を)のある人(ひと)が出(で)て来(き)て、井(ゐど)が光(ひか)つて居(ゐ)たから、井(ゐ)光(ひかり)と称(とな)へたとあります。
 人類(じんるゐ)学者(がくしや)の説(せつ)によると、丁度(ちやうど)其(そ)の時代(じだい)には、尾(を)のある人(ひと)が住(す)んでをつたとも云(い)ひ、又(また)人間(にんげん)の元祖(ぐわんそ)は尾(を)長(なが)猿(ざる)などと申(まを)します。頭(あたま)があれば尾(を)がある通(とほ)り、尾(を)があるといふことは、沢山(たくさん)の部下(ぶか)を伴(つ)れて居(を)る人(ひと)といふ意味(いみ)で、即(すなは)ち神武(じんむ)天皇(てんわう)を助(たす)ける為(た)めに出(で)て来(き)た土地(とち)の名望(めいばう)家(か)といふことであります。その井(ゐ)光(ひかり)と申(まを)す井戸(ゐど)は、今(いま)の様(やう)に石(いし)で畳(たた)んで水(みづ)を汲(く)む井戸(ゐど)でなくして、非常(ひじやう)に美(うる)はしい処(ところ)から出(で)て来(き)たといふ意味(いみ)で、即(すなは)ち山(やま)を四辺(しへん)にめぐらし、川(かは)を前(まへ)にして井戸(ゐど)形(がた)の所(ところ)に大(おほ)きな家(いへ)を建(た)てて住(す)んでをる、其処(そこ)から出(で)て来(き)たといふ事(こと)であります。又(また)井(ゐ)光(ひかり)といふのは、其(そ)の人(ひと)の徳(とく)が、土地(とち)一面(いちめん)に輝(かがや)く名望(めいばう)家(か)であるから、人(ひと)がそれを見(み)て井(ゐ)光(ひかり)と云(い)うたのである。これは吉野(よしの)の首(おひと)の始祖(しそ)であります。昔(むかし)は首(おひと)、直(あたへ)、宿禰(すくね)、大臣(おほおみ)等(など)がありまして、今日(こんにち)でいへば首(おひと)の井(ゐ)光(ひかり)は郡長(ぐんちやう)の如(ごと)きものであります。それですから獣(けもの)の如(ごと)く、尾(を)があつたのではないことはこれでも分(わか)ります。
 『更(また)少(すこ)し進(ゆ)くときに、亦(また)尾(を)有(あ)りて、磐石(いは)を披(おしひら)きて出(い)づる者(もの)あり。天皇(すめらみこと)、問(と)ひて曰(の)りたまはく、汝(いまし)は何人(なにびと)ぞ。対(こた)へて曰(いは)く、臣(やつがれ)は是(こ)れ磐排別(いはおしわく)之(が)子(こ)なり。此(こ)れ即(すなは)ち吉野(よしの)の国(く)樔(ず)部(ら)の始(はじめ)の祖(おや)なり…』
 それから吉野(よしの)を分(わ)けて行(ゆ)かれると、又(また)尾(を)の有(あ)るに出(で)会(あ)はれました。この人(ひと)が磐(いは)を押(おし)分(わ)けて、出(で)て来(き)たと書(か)いてあります。その名(な)が磐排別(いはおしわけ)で、一方(いつぱう)は井戸(ゐど)から出(で)て来(き)たのでありますが、井戸(ゐど)は低(ひく)い所(ところ)にある意義(いぎ)である。即(すなは)ち之(これ)は前(まへ)に出(で)て来(き)た人(ひと)よりも、一つ偉(えら)い人(ひと)といふ事(こと)であります。これは岩山(いはやま)の所(ところ)に在(あ)る、要害(えうがい)堅固(けんご)なる岩戸(いはと)を押(おし)別(わ)けて、臣(しん)子(し)の礼(れい)を竭(つく)し奉(たてまつ)つたのであつて、つまり岩戸(いはと)といふ意義(いぎ)は、蚊帳(かや)でも釣(つ)りて、その中(なか)に上(うへ)の人(ひと)がをれば、即(すなは)ち蚊帳(かや)一重(ひとへ)が岩戸(いはと)に当(あた)るのであつて、天(あま)の岩戸(いはと)が閉(しま)つたと同(おな)じ意義(いぎ)になるのであります。即(すなは)ち非常(ひじやう)に尊(たふと)き人(ひと)があるから、普通(ふつう)の人(ひと)は会(あ)ふことが出来(でき)ない。この高貴(かうき)の人(ひと)が天孫(てんそん)に対(たい)して、臣礼(しんれい)を尽(つく)されたのであります。所謂(いはゆる)磐排別(いはおしわけ)といふのは、今(いま)迄(まで)の貴族(きぞく)主義(しゆぎ)を捨(す)てて、平民(へいみん)主義(しゆぎ)になつたといふことになります。たとへて言(い)へば、私(わたくし)は今(いま)まで妄(みだ)りに出(で)るものではなかつたが、貴人(きじん)が通(とほ)られるので、出(で)て来(き)たといふことであります。之(こ)れを見(み)ても、磐(いは)から出(で)て来(き)たものでは無(な)いといふことが、よく分(わか)るのであります。これが吉野(よしの)の国造(くにつこ)の一の先祖(せんぞ)で、出雲(いづも)の国(くに)の千家(せんけ)尊福(そんぷく)さんの家(いへ)も、随分(ずゐぶん)古(ふる)いもので、矢張(やは)り出雲(いづも)の国造(くにつこ)となつてをるやうなものであります。
 以上(いじやう)神武(じんむ)天皇(てんわう)御(ご)東征(とうせい)の一節(いつせつ)を説明(せつめい)したのでありますが、之(これ)と同様(どうやう)、今日(こんにち)及(およ)び今後(こんご)の軍隊(ぐんたい)も、日(ひ)の神(かみ)の教(をしへ)を背(せな)に負(お)ひ、造次(ざうじ)にも顛沛(てんぱい)にも神様(かみさま)の事(こと)を忘(わす)れず、頭(かしら)に神(かみ)を戴(いただ)いて一切(いつさい)と戦(たたか)はねばなりませぬ。戦(たたかひ)と云(い)うても思想(しさう)上(じやう)の戦(たたかひ)もあれば砲戦(はうせん)もあり、其他(そのた)種々(しゆじゆ)の戦(たたかひ)がありますが、要(えう)するに神様(かみさま)を頭(かしら)に戴(いただ)いて戦(たたか)へば、如何(いか)なる災禍(さいくわ)にもかからず、禍害(くわがい)を去(さ)る事(こと)が出来(でき)るといふ教(をしへ)になるのであります。
 今(いま)此(こ)の講演(かうえん)を終(をは)るに臨(のぞ)み、御(お)筆先(ふでさき)の一節(いつせつ)を捧読(ほうどく)致(いた)します。
 『大日本神(おほくに)国経綸万(とこたち)古不動の神(のみこと)言霊、天壌(おほ)無窮(い)之皇(つ)運発揮(き)の火水(かみ)と現(あらは)れて、三千世界(せかい)の修理(たてかへ)固成(たてなほし)を致(いた)すぞよ。日本(にほん)は神(かみ)の国(くに)でありながら、今(いま)の人民(じんみん)の心(こころ)は薩張(さつぱ)り獣(けもの)と同(おな)じ事(こと)であるぞよ。外国(ぐわいこく)から渡(わた)つて来(き)た下(くだ)らぬ学(がく)に累惑(ばか)されて、尻(しり)の毛(け)までも曳(ひ)き抜(ぬ)かれて居(を)り乍(なが)ら、未(ま)だ外国(ぐわいこく)の行(や)り方(かた)の真似(まね)計(ばか)りいたして、何(なに)も彼(か)も自由(じゆう)に致(いた)されて居(を)るが、もはや天(てん)からの時節(じせつ)がまはりて来(き)たから、何時(いつ)までも斯(こ)んな見(み)苦(ぐる)しい行(や)り方(かた)は、さしては神(かみ)は置(お)かぬぞよ。国会(こくくわい)開(びら)きは人民(じんみん)が何時(いつ)までかかりたとて真正(まこと)の国家(よの)経綸(もちかた)は能(よ)う致(いた)さぬぞよ。神(かみ)が表(おもて)に現(あら)はれて開(ひら)いて見(み)せようぞよ。国(くに)と国(くに)の奪(と)り合(あ)ひ、役人(やくにん)は役(やく)の取(と)り合(あ)ひ、人民(じんみん)は吾身(わがみ)さへ都合(つがふ)が好(よ)けりやよいと申(まを)し、金銀(きんぎん)さへ持(も)ちて居(を)りたら、人(ひと)が頭(あたま)を下(さ)げると申(まを)し、慾(よく)ばかりに心(こころ)を痛(いた)め、金銀(きん)の事(こと)に懸(か)けたら、親(おや)兄弟(きやうだい)とでも訴訟(くじ)をいたすといふやうな悪(あく)の蔓(はびこ)りた暗黒無道(くらがり)の世(よ)の中(なか)であるぞよ。是(これ)では斯(こ)の世(よ)は万劫(まんがふ)末代(まつだい)続(つづ)きはいたさんぞよ。今(いま)の日本(にほん)の人民(じんみん)は一人(いちにん)も誠(まこと)の神国(しんこく)の行動(おこなひ)はいたして居(を)らぬぞよ。神(かみ)から見(み)れば、鬼(おに)と大蛇(おろち)の四つ足(あし)の世(よ)の中(なか)に化(ば)けて居(を)るぞよ。大(だい)の字(じ)逆様(さかさま)の世(よ)であるぞよ。斯(こ)の世(よ)を本様(ほんざま)に大正革新(たてなほ)して、天下(てんか)泰平(たいへい)に世(よ)を均(なら)して、世界(せかい)中(ぢう)の人民(じんみん)を安心(あんしん)させるぞよ。日本(にほん)は神国(しんこく)ぢやと口先(くちさき)では申(まを)して居(を)るが、神国(しんこく)の由来(わけ)を知(し)りた人民(じんみん)は誠(まこと)に尠(すく)ないぞよ。是(これ)までは暗黒(くらがり)の世(よ)でありたから、判(わか)らぬのも無理(むり)はないが、此(こ)の先(さき)は日(ひ)の出(で)の守護(しゆご)となるから、何(なに)も彼(か)も一度(いちど)に夜(よ)が明(あ)けて、ソコら辺(あた)りが光(ひか)り渡(わた)りて、今迄(いままで)の人民(じんみん)が思(おも)うて居(を)りた事(こと)が、大(おほ)間(ま)違(ちがひ)でありたといふことが判(わか)りて来(き)て、愧(はづ)かしき人民(じんみん)沢山(たつぴつ)に出来(でき)るぞよ、一度(いちど)に開(ひら)く梅(うめ)の花(はな)と申(まを)して知(し)らしてあるぞよ』
(大正九・一〇・四 五六七殿講演筆記 九・一〇・二一号神霊界)
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