日本書紀にある神武天皇御東征の一節を講演致します。
日本書紀の一節に、
『神日本磐余彦天皇(神武天皇)……年四十五歳に及びたまふ。諸の兄及び子等に謂りて曰たまはく。昔我が天神高皇産霊尊、大日霎尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我天祖、彦火瓊瓊杵尊に授へり。於是、彦火瓊瓊杵尊、天の関を闢きて、雲路を披け、駈仙蹕以て戻止す』
とあります。神武天皇の御年四十五歳の時は、今年を去る二千五百八十六年前の甲寅の年で、月日は十月五日に当るのであります。この甲寅の年といふのは、恰も大正三年世界戦争の始まつた年であります。
畏れ多くも天の下を平らけく治めし給ふ、御天職を惟神に享有し給ふ、天津日嗣天皇様が、大日本神国に君臨遊ばされて、豊葦原の瑞穂国即ち地球上を、道義的に統一せらるる機運に向うたのであります。大日本皇国の国体の御本義、御天職たる皇道の精髄精華は、未だ充分に発揮されて居りませぬ何となれば古往今来、全く暗黒無明の世界で、天の岩戸隠れの状態であつたからであります。
物質文明の結局は世界戦争となりて、海外の諸強国は、一旦経済的、精神的に滅んで了つたので、是から新に建設しなければならぬ破目に成つて来たのであります。
しかし我日本国は、幸にその暗黒な、ひどい影響を受けませんでしたから、世界戦争の起りつつある間に、十分の準備をして、世界を道義的に統一する機会を与へられたので、日本国は愈々改造の時機に向つて来たのであります。彼の日露戦争は日の暮の鐘、世界戦争は暗夜の鐘声であつて、日本国が日の出の守護になるに就て、世界は総て、統一的機運に向つて居ります。総てのものが、世界統一でありますから、外国の暗黒なる経済的影響は、日本に映り、日本の経済上に不安定なる荒波は、米国へうつり、米国の影響は欧洲にうつり、だんだん波が拡つて高まつて行き、その波が向岸に突当つて層一層激浪を捲き起し、再び日本へ撥ね返つて来る。今度の波は強いのであるから、日本も一層今より不景気になつて来ます。故に各自に注意をして、其の荒波を避ける工夫をいたさねばなりませぬ。今迄五年間の甘味を嘗めて来た人々は、この不景気は持直すかも知れんと云ふものがあるが、決して楽観すべきでは無い。もつともつとひどい激浪怒涛が襲来するものと覚悟せねばなりませぬ。而して日本国の皇道の光が、八紘に輝くのはこれからであつて、今まで殆ど二千年来、和光同塵的御政策の結果として、皇運発展の時機が来なかつたのであります。崇神天皇が国体の尊厳を秘して、和光同塵の政策をとられたのは、今日あるを知り給うて、天津日嗣天皇の御天職の発展を期待されて居られたからであります。世界各国も時節到来せぬために、権謀が発生したり、個人主義が隆盛になつて、体主霊従の悪土となり、人の国を奪る英雄が出たりして、昔から治乱興廃は何遍あつたかわからぬ。国が立つたり、倒れたり、併合されたり、或は占領されたり、数へ尽されぬ位であります。
従来人生の不安、世路の困難は此の上なく、実以て闇黒無明の世の中であつた。即ち天の岩戸隠れの現状であります。昔から王道とか、覇道とか、又憲法政治とか、共和政治であるとか、デモクラシーとか、マルクス主義とか、其の他聖人や賢哲が唱へる総ての社会経綸説や、また釈迦、孔子、基督の道義的教義は、ただ今日までの世界の破滅、人心の堕落を弥縫補綴すべく、用ひられた位にすぎず今後の社会政策に対しては、何等の権力も効力もない。唯だ其の教は、何れも人心の不安を和らげ、兇悪なる人心を矯正し、世道人心を導き、治国安民の道を立て、天下泰平を企てたのでありますが、併し孔子の生れた支那の現状は、あの通り闇黒で、百鬼昼行の状態。又釈迦の生れた印度は、此地に極楽浄土を出現せしめようとしたのに、今は某国の圧迫を受け、僅に人民は其の命脈を保つて、無限地獄の有様。又基督の出た猶太国は、天国を地上に樹てむと考へたけれど、二千年を経過した今日に於て暗黒無明の地獄の状態であります。之を考へると、世界の人心を緩和した利益はあつたけれどもこれから日の出の世の中になれば、少しも間に合はぬ時代錯誤の教義となつて了ふのであります。
之を譬へて言へば、月が出ると星の光が薄くなり、太陽が出ると、月も星も光を失ふのと同じであります。この星的位置にある古今諸賢哲の道義的諸説は、今後は影を没するのであります。それを和光同塵の政策により、崇神天皇は我国に引き入れ給うたのであります。何故かと申せば、今日の世の中の物質文明を、一旦日本に入れて、日本は世界の中心国でありますから、精神的文明と物質的文明の調和を図り、霊主体従の惟神の大道を発揮し、所謂皇祖皇宗の御遺訓によりて、世界万民を安らけく平らけく、治むる時機を待たせられたのであります。天運循環の神律に依つて、夫れがいよいよ実現さるる時機に到達した次第であります。由来総ての大道、即ち治国平天下の道は、我日本国に日月の如く、炳として儼存して居るのであります。
神武天皇即ち神日本磐余彦尊が、御年四十五歳の時、諸兄及び皇子達を集めて申されるには、昔天津御祖神、高皇産霊尊、大日霎尊、即ち高木神、天照大御神が、この豊葦原の瑞穂国を挙げて我天津御祖彦火瓊々杵尊に授けられた。そこで彦火瓊々杵尊は天の磐座放ち、天の八重雲を押し分けて、日向の串触峰に天の宇受売命、猿田彦神を先駆仙蹕にして天降りました。
『是の時に、運鴻荒に属ひ、時草昧に鍾れり。故蒙くして以て正しきを養ひて、此の西の偏を治らす。皇祖皇考、乃神乃聖にして、慶を積み、暉を重ね、多に年所を歴たり。天祖の降跡ましてより以逮于今、一百七十九万二千四百七拾余歳』
この時世は鴻荒に属ひ、草昧に鍾り云々の御詔は、丁度今日の世の現状其のままであります。
今日天の八重雲は十重二十重に包まれ、総てのものに磐座といふものがあり、岩戸がしまつて居る即ち閥があつて、一歩も中へ入れぬのであります。この曇りに曇つた総ての思想で、世は荒きに逢ひ時は昧きに鍾れり、所謂国体に反する外来思想のために、人の心は一層荒びに荒び、群衆心理的の焼討事件や米騒動や労働者の同盟怠業罷業や種々の不祥事があると同じやうな乱世であつたのであります。
この闇黒の世の中に交つて、正しきを養ひ誠の道を立て、西九州の地に於て、善の鏡を出して居られたのであります。丁度今日の闇黒無明の世の中に於て、実に畏れ多き譬でありますが、皇道大本が誠の道を説いて、この日本国の下津岩根に於て、皇国発祥の時機を待ちつつあるのと同じ状態であります。
皇祖皇考は即ち神即ち聖であつて、慶を積み、暉を重ねて、多くの年所を歴来られたのであります。即ち天照大御神より皇孫瓊々杵尊、鵜葺草葺不合尊まで慶を積み、暉を重ねて居られたので、神代は実に立派に治まり、天照大御神の御威徳が神武天皇まで光り輝いたのであります。
お筆先に神代は立派な世であつたと出て居りますが、その通りであります。ところが昔の神代は木の皮を着て穴居し、石器時代を経て、今日に開けたのでありますが、併し乍ら当時人民の生活は、実に安静平穏、至清至美、実に立派な世の中であつたことが御詔勅に依つて証明されるのであります。
天孫瓊々杵尊が、この地球上に降臨ましましてより、一百七十九万二千四百七拾余歳を経て居ります。日本歴史では、神武天皇即位紀元二千五百八十何年と、いふことになつて居りますが、日本の国体の古くして、尊きことを知るには、天孫瓊々杵尊の御降臨から算へて、一百七十九万二千何年とせねばなりませぬ。実に惜しいことをしたものです。
『而るを遼く邈なるの地、猶未だ王沢に霑はず、遂に邑に君あり、村に長あり、各自彊を分ちて、用て相凌轢ふ』
しかしさういふ工合に、理想的の世の中であつたけれども、遠い遥かなる地は、未だ王化に霑はず即ち日本から申せば海外が霑はないのでありますが、之を日本国内だけに就て申すと、九州以外の中国や東海、東山、北陸、其の他の国が王化に霑はないで、邑に君あり、村に長ありて、各自境界を分つて、互に相凌轢して居たのであります。今日から申せば、何でもない事の様に思ひますが、併し学者は学閥を作り、学者同志議論を闘はして互に相凌ぎ、政治家は政治家で又閥を作り、政府党と在野党で互に鎬を削り、軍人は軍人で閥を作り、所謂邑に君あり、村に長ありで、支那は支那、米国は米国、各国々に主権者があつて、皆自分の国の勝手の良いやうにと考へて居るのであります。丁度二千五百八十六年前の現状は、今日の世界の現状によく似て居るのであります。
現代世界列強が、各互に領土を獲得せむとし、領土慾のために鎬を削る有様は、古今相等しいのである。これが古今を通じて謬らず、中外に施して悖らざる御神書の権威ある所以で、何時の世に合はして考へて見ても、神典の記録に、符合するのは此処であります。
凡そもの窮すれば必ず通ずで、今日の如き、天下無道の状態となつたのを救済するのは、実に日本国で始めて我日本国の天職を発揮して、世界を修斎する時代が来たのであります。
世界の各国民は世界戦争で非常な打撃を受け、何千万といふ生霊を捨て、何百億といふ財を擲つてその苦みを受け、戦争の惨苦をよく嘗めて居るので、此上もう戦ふ気はなくて、何うかして、この地上に有力なものが現れて治めてくれることを、各自期待して居るのであります。今日我日本では、外交上の状況を総て憂へて居つて、今国交が破裂した場合には、外国から進んで戦をしかけるやうに思うてゐるが、併し外国人の腹の中は、これまでの戦争に懲り果てて、戦争といふものは詰らぬものであるといふ事を、心から悟つて居るのであります。
『抑又塩土翁に聞きしに、曰く東に美地あり、青山四方に周れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者ありといひき。余謂ふに、彼地は、必ず当に以て天業を恢弘べて、天の下に光宅るに足りぬべし。蓋し六合の中心乎。厥飛降るといふものは、謂ふに是れ饒速日をいふ歟。何ぞ就いて都つくらざらむ』
これは神武天皇の御言葉でありまして、又塩土翁に東国によき国ありて、青山四方に圍り、天の磐船云々と聞いたと仰せられたのでありますが、此の塩土翁は彦火々出見尊を綿津見の宮に、目無堅間の船で御案内せられた神と同じ神様であります。
シは水、ホは火、ツチは地で、この土は地球を意味し、シホは地を廻る海水である。即ち塩土の翁は地を創造して、目無堅間の船を造つた神様であります。塩は総てのものを清める力を持つたもので祭典にも塩水行事を行ひ、墓参後塩で浄めるのもこのわけで、塩は世の中を洗濯する力がある。夏魚の腐敗を防ぐにも、この塩を用ふる如く、総ての物の腐敗を止める力を持つて居るものであります。世の中がだんだん腐敗りに腐敗つて絶滅せむとする有様になつて来たが、この塩で汚れを浄め、腐敗を止めるのであります。又塩の味は食物の中で、一番うまいもので、沢山に食へば血を吐く位に、ピリピリ致して、マヅイものであるけれども、適度に用ふれば、砂糖よりもうまく、又食物は総て塩がなければ味はつくものではありませぬ。
土はつぶらなる地で、円満なる土といふ意味である。万物はこの地球の土より、天然力を吸うて、大きくなるのである。大便でも小便でも土にかけると、土は汚なきものを吸収して浄め、伊吹払つて不浄を無くする、これが土であります。
塩土の翁の翁は公といふ意味であり、この羽は両翼といふことである。即ち鳥も翼がなくては立つことが出来ぬ。又鳥の霊はスでありますから、鳥、雀、杜鵑などといつて、皆スの言霊である。スは所謂皇御国のスである。即ち両翼が必要である。翁は大地とも大名とも申して、名は天に属し、土は地に属し、左右の大臣である。即ち高皇産霊神となり、厳の御魂、瑞の御魂になる。翁は君の御働きを助ける人である。今は高徳な老人を称して翁といふ、この翁の真の解釈は、国常立尊となるのであります。
その翁の言はれるには、此処より東の方に美しき国があると、日向の国から見られたのでありますから、それは大和の国になる。此大和の国は青山が四方に廻つて、三種の神器にたとへられた、大和三山といふのがある。神武天皇はそれへ御越しになりました。四方山を圍らす国の中心で、都を造り給ふに適した大和の地を指されたのであります。
御筆先も綾部の地、青山四方にめぐらしとありますが、昔は大和で、今は国常立尊の現れた聖地とも思はれます。これは我田引水でもなければ、牽強附会でもない。御本文から考へて、その通りになります。其中に天の磐船に乗つて飛降りるものがある。余謂ふに、彼地は、必ず天業を恢弘べて天の下に光宅るにたる。これ六合の中心乎とありますが、之を委しく申すと又綾部を曳き出すやうになりますから、止めて置きます。
飛降るものは、是れ饒速日歟、何ぞ就いて都をつくらざるとの御本文がありますが、その天の磐船といふのは、磐楠船とか、飛行船とか、飛行機の事にもなりますが、此処では艮の金神の教であります。即ち磐楠船の如く砕けない、固い教といふことである。この船に乗つて中心に飛降りるといふので、高い所から低い所へ、一足飛びに飛び下るといふ事になる。これ饒速日歟といふニギは、賑々しくとか、弥栄えに栄えるとかいふことで、日は日輪の日で、天津日嗣の日であります。即ち天津日嗣の御子の坐す国が、速かに賑々しく、弥栄えに栄え行くやうにする神様が、降るといふことになります。その饒速日の所に、都を作るのは如何であらうかと、神武天皇は御尋ねになつたのであります。
『諸の皇子、対て曰さく、理、実に灼然なり。我等も亦恒に以て念と為つ、宣早かに行ひたまへ。是年や太歳甲寅………』
そこで皇子等は、対へて曰さるるには、天皇の御言葉は誠に道理に適うたことで、鏡の如く灼然と輝いて居ります。私達も其処に都を作り給はば、結構だと恒に思うて居りました。速に御進発あつて、天の下を治め給ひますやうにと申されたのであります。
この年が即ち甲寅の十月五日で、大正三年の十月五日に当りまして、今より二千五百八十六年前のことでありますが、実に古今を通じて、同じ事が出て来るのは不思議であります。
それから筑紫、吉備、安芸、浪速へゆかれます。瀬戸内海御進軍の模様は略して、浪速から先を述べます。道中記は、言霊学上本講に就ては無意義であり、亦興味も少いのであります。
『皇師、遂に東に征く、舳艫相接げり。方に難波の埼に到るときに、奔潮ありて、太だ急きに会ひぬ。因て以つて名づけて浪速国と為す。……流より遡上りて、径に河内国草香邑の青空の白肩の津に至ります。………皇師、兵を勒へて、歩より龍田に趣く。而して其の路狭く嶮しく、人、並行くを得ず、乃ち還りて更に東のかた膽駒の山を踰えて、中洲に入らむと欲す。時に長髄彦聞きて曰く、天神の子等の来ます所以は、必ず将に、我が国を奪はむというて、尽に属へる兵を起して、孔舎衙坂に徼りて、与に会戦ふ。流矢ありて、五瀬命の肱脛に中れり。皇師進み戦ふこと能はず』
これで今の大阪を浪速といふのであります。浪速の渡しを経て白肩の津に、船を泊められました。白肩を今はひらかたと申します。昔は枚方まで海になつて居たのであります。此時長髄彦が待ち対ひ戦ひました。長髄彦は豪族であつて、神武天皇の神軍を防ぎました。神武天皇は矢を防ぐ楯を、船から御出しになつて防がしめられました。現代では長髄彦といふのは、大地主とか、大富豪といふことになる。手長彦となる。警察の前を通れぬ盗人になります。或る国が印度を奪るといふことは、足を伸ばして居ると同じで、世界各国に足を伸ばして日の没せぬ国、某国の如うになつて居るのが長髄彦である。小さな長髄彦は大地主であつた。唯だ手でとるか足で取るかの差があるだけであります。長髄彦は足を以て土地を蹂躙するので、手長彦は手を以て物を盗るのであります。即ち手は天に属し、足は地に属する。大地主とか、各国の土地を占領して居る国とかを、長髄彦といふので、この長髄彦が皇軍に刃向うた。今日で云ふと、丁度大和一円の豪族が、反抗したと同じ有様であります。その皇軍と長髄彦と戦うた時に、皇兄五瀬命が、流矢に中つて国替をなされました。この五瀬命は厳兄で、皇兄といふことになります。
『天皇憂ひたまふ、乃ち神策を沖衿に運めたまひて曰く、今我れは是れ日神の子孫にして、日に向ひて虜を征つは、此れ天の道に逆れり。退き還りて弱きことを示して、神祇を礼祭ひて、背に日神の威を負ひたてまつり、影の随に圧ひ躡まむに若かじ。如此らば則ち曽て刃に血ぬらずして、虜必ず自らに敗れなむ。僉曰く然りと。於是、軍中に令ちて曰く、且らく停まれ、復な進みそ。乃ち軍を引いて還りたまふ。虜、亦敢て逼めまつらず。郤いて草香津に至りて、盾を樹てて雄誥びを為す…………』
そこで神武天皇は、更に神にうかがはれました。即ち直霊に省み給ひて、我はこれ日の神の御子である。然るに日に向つて戦つたのが敗戦の原因であらう。即ち西より東に向ふのは、朝日に向ひ、太陽に向ふことになりますから、日を背に負ふために、道を転じて、紀伊の方から大和に出ることにされました。これを今日の軍事から云へば、日本の軍法は、中昔のことは知りませぬが、明治以後は海外から教はつたもので、独逸の軍隊編制だとか、戦法だとか、其の他各国から取つた、それを混同したもので、即ち各国戦法の長所を採用したといふことになります。
日本も今では八八艦隊も出来かけたし、又陸軍も多くなりましたが、併し体を以て体に対するといふ事になれば、吾々の如き小さな人間と、常陸山と角力をとるやうなもので、必ず日本は敗れるのであります。今日本が或る一国と戦ふのにも、金の上に於て、武器の上に於て、又兵員とか、艦船とか飛行機等の上に於て、外国は常に常陸山で、吾々が日本といふ有様で、到底勝つことは出来ない。即ち皇祖皇宗の御遺訓に反した、外国の戦法を用ひては、敗れるのでありますが、併し言霊の力を以て日を背に負うて戦ふ、即ち皇祖皇宗の御遺訓に随つて戦へば勝つのであります。実に神軍の兵法は、古事記の中に立派に、各所に明記されてありますが、今日はただ泰西の真似をして居る戦法であるから役に立たぬ。今度仮りに某国と戦ふといふ時に、今までのやうなやり方をして居ては勝てぬのであります。今までの間に於て、日清戦争や日露戦争に勝つことの出来たのは、全く神明の御加護が第一次には相手の敵が弱かつたからである。今後の戦争を日露戦争などと同じに見て居つては迚も勝つことは出来ませぬ。以前には日本を侮つて、日本を指導啓発しようとした某国なども、今日では日本を侮れなくなつて、日本に対して万一の備へをして居る有様であります。もし某国の飛行機が、今日人戸密集の都会の空に来て、爆弾を一つ落しましても、五百間四方は忽ち燃えるのであるから、四つ五つも落されようものなら、一遍にやられてしまひます。それで向ふの飛行機と此方の飛行機、向ふの軍艦と此方の軍艦と戦ふのでは、充分の勝利は認められぬ。これは所謂皇祖皇宗の御遺訓に反して、日を背に負はず、日に向ふからであつて、皇祖皇宗の御遺訓通りに、日を背に負うて戦へば、即ち皇祖皇宗の御遺訓たる神軍の兵法に依りてやれば、長髄彦を討伐し、外国に勝つことが出来るのであります。
『軍、茅渟の山城の水門(亦の名は、山井の水門)に至る。時に五瀬命、矢瘡痛みますこと甚し。乃ち剣の手頭撫りて、雄誥したまひて、慨哉、大丈夫にして、虜手の被傷て、報いずして死みなむと曰ふ。時の人、因りて其の処を号けて、雄の水門と曰ふ。進んで紀伊国竈山に到りて、五瀬命、軍に薨りましぬ。因りて竈山に葬めたてまつる。』
白肩の津から、南へ廻らうとして行かれると、五瀬命が、御負傷の血を洗はれましたので、今では茅渟の海と申します。それから紀州の雄の水門へ船で行かれますと、五瀬命が、賤しき奴の手を負うて、今此処で死ぬるかと雄たけびなされて、残念と云ひ乍ら御薨去になりました。それで今に雄の水門と申します。五瀬命の御陵は紀の国の竈山にあります。
そこで神日本磐余彦尊即ち神武天皇は廻り出でて、熊野の浦に出でられました。その時に大きな熊が出て又隠れた。そこで今に熊野というてをるが、この熊といふのは本当の熊ではなく、悪魔といふ事であります。この悪魔のアは、言霊学上言はぬことが多いのであつて、五大母音は、隠れて居る場合が沢山あります。即ち伊達を唯ダテと云ひ、悪魔をクマと云ふのであります。この大悪魔即ち、四つ足の悪魔が出て皇軍を遮つた。世の中は総て霊界が支配して居りますから、熊が一寸出て、又隠れたといふのは、悪霊が憑つたといふことであります。
『時に神、毒気を吐いて、人物、咸に瘁ぬ。是に因りて、皇軍、復た振ること能はず』
この悪霊のために神日本磐余彦尊は、身体がフニヤフニヤになつて一歩も進めず、倒れてしまはれました。後は野となれ山となれ、戦などは、どうでもよい、それよりも寝たいと云つて、更に戦ふ勇気なく平太つて了ひました。日清日露の戦に、脆くも敵が敗けたのは、霊と霊との戦で、霊が向ふへ憑りて遁げさしたのであります。又此方は神がかかつて、生命を構はず進むから敵を負かすことが出来るので、所謂日を背に負うて戦へば、鉄砲弾も中らぬのであります。
『時に、彼処に人在り、号を熊野の高倉下と曰ふ。忽ちに夜夢みらく、天照大神、武甕雷神に謂ひて曰りたまはく、夫の葦原中国は、猶、聞喧擾之響焉、汝更往いて征て。武甕雷神、対へて曰しき、予行からずて、予が平国之剣を下さば、則ち国自らに平矣。天照大神曰りたまはく、諾時に武甕雷神、登ち高倉下に謂うて曰く、予が剣の号を韴霊と言ふ。今、当に汝が庫裏に置く取りて之れを天孫に献れ。高倉下、唯々と曰すと夢て寤めぬ。明旦、夢の中の教に依りて庫を開けて視れば、果して落ちたる剣有り。倒に庫の底板に立てり。即ち取りて進之。時に、天皇、適く寐ませり。忽然にして寤めて曰りたまはく、予何ぞ若此長眠しつるや。尋いて毒に中りし士卒、悉に復醒起ぬ』
この時に高倉下といふ人があつて、一つの神剣を持つて来て、天皇に献つた。すると玉体も、しやんとせられ、総ての軍隊もしやんとして来た。勇気は平常に百倍して来た、そこで高倉下に向つて如何してこの霊剣を得たかと問はれますと、対へて曰ふのに、私は天照大神、高木神が天上で、武甕雷神を御呼び寄せになりましたのを夢に見ました。さうして天照大神様が、豊葦原の中津国はいたくさやぎてをる、即ち大戦争をやつてをる。我子孫の皇軍は、定めて困つて居るであらう。葦原の中津国は、汝が専ら言向けつる国であるから、再び降つて平定せよと仰せられました。そこで武甕雷神が、曰はるるには、私が中津国に降らなくとも、言向けして平定した剣がありますから、その剣を下しませうと申されました。此の剣は平国の剣、又の名をみかふつの神、又ふつの御魂と申しますが、これは石上神宮に祭つてあります。之を私の代りに、中津国へ降しますと申されて、天から御降しになつた。この剣には武甕雷神の霊が加はつて居ります。即ち天照大神、高木神から授けられた時に、鎮魂が出来てをるのであります。これは天孫降臨の時、大国主命に経津主神が、国土返上をせられて中津国を平定せられたその時に、天照大神の神霊の宿つた剣でありますから、その剣を下してやれば、皇軍は勝つことが出来ますと云うて、天から御下しになりました。如何して御下しになつたかと申しますと、高倉下の庫の棟を穿つて、その穴から落されたのであります。武甕雷神が、高倉下に申されるのには、庫の棟に穴を穿つて神剣を下して置いたから、明朝早く起きて、之を日の御子に献れと申されました夢を見たのであります。そこで高倉下は夢で教はつたやうに、翌朝早く起きて庫を開けると、夢に見た通り一本の剣があつたのであります。その剣を取りて神武天皇に献つたのであります。何故この熊野の高倉下に剣を渡されたか、結構な御用をさせられたかと申すに、高倉は高御座であります。高倉下は今では、この土地の住民になつてをるが、元は天照大神様から分れた神様の子で、天孫に先立つて天降つてゐられたのであります。高御座から下つたから高倉下である。これは霊界の因縁であつて、御筆先にも、総て神様の御用は、因縁の霊魂でなくては出来ぬ、と示されて居るのと同様であります。明治二十五年に開祖が気違ひとして、座敷牢に投げ込まれなされた時に、矢張り高倉下と同じやうに、七寸五分の剣を夢に見せられて、この剣を以て世界を洗濯せよ荒ぶる邪神を掃蕩せよと仰せられ、膝下に置いてあつたというて、今尚ほ大本の神宝となつてをりますが、実に歴史は繰り返すと言はるるやうに、繰返し繰返し同じ事が出て来るのが不思議であります。開祖は何時献られるのか知りませぬが、高倉下と同じ御用を為されて居らるるのであるまいかと思ふのであります。
『既に皇師、中洲に趣かむと欲す。而も山の中嶮絶して、復行くべき路無し。乃ち棲遑て、跋渉む所を知らず。時に夜、夢みたまはく、天照大神、天皇に訓へまつりて曰りたまはく、朕今、頭八咫烏を遣はさむ。以て向導者と為たまへと。果して頭八咫烏有り。大空より翔降る。天皇曰りたまはく、此の烏の来ること、自らに祥夢に叶へり。大哉、赫矣。…………』
それで一時この神剣の徳によつて、軍隊が元気がついて来て、昇天の勢になつて来た。しかし高木神の御命令によれば、これから奥には入つてはならぬ。今剣の徳に依つて元気づいて来て進まうとするのを、勢にまかせて進めては危ない。今八咫烏を遣はして皇軍を導かしめるから、その後から行けばよい。さうすると皇軍の勝利となる、と仰せられたのであります。
この八咫烏には大に意味があるので、鏡と同じ意味、即ち八咫鏡と同じ事になります。正しく言へばヤタガラスでなくして、ヤアタガラスである。前申しました通り、言霊上五大母音のアが隠れるのであります。即ちこの八咫烏は天から降つたもので、四方八方を明かにするといふのであります。このガは輝くであり、ラは巡るであり、スは統るである。三千年間世に落ちて、世界の隅々までも調べられたといふことが神諭に出てをりますが、これがヤアタに調べられたといふ事なので、三千世界一度に開く梅の花がカであり、天運循環がラであり、スは統るで世界統一の教であります。ヤアタガラスをかためて申せば、国常立尊様が世界を治め遊ばす教といふことになる。神様の教が八咫烏である。元気がついても軽々しく進むな、神の教に随へと高木神が言はれたのであります。
『山を蹈み、啓行きて、乃ち烏の所向の尋、仰ぎ視て追ひ、遂に兎田の下縣に到達る。因りて其の所至し処を号けて、兎田穿邑と曰ふ。…………天皇、兄猾及び弟猾を徴さしむ。是の両の人は兎田縣の魁帥なり。時に兄猾不来、弟猾即ち詣至り。因りて軍門を拝みて、告之して曰さく、臣が兄兄猾が逆さまなるわざを為す状は、天孫、且到とすと聞りて、即ち兵を起して襲ひたてまつらむとす。皇師の威を望見に、敢敵るまじきを惧ぢて、乃ち潜に其の兵を伏して、権りに新宮を作りて、殿の内に機を施きて、因りて請餐らむとまをして、作難と欲す願はくばこの詐を知ろしめして、善為之備』
それから皇軍は山を踏み穿ちて、大和の兎田に出て行かれました。これは今でも残つてをつて、宇陀郡といふ郡もあります。ここへ来られると、兄猾、弟猾といふものがをる。一体このウカシは余りよいものの名ではない。迂散な奴といふ意味であります。誠を失つたもので、弱いものを虐げて、自分勝手のことばかりをするもので、ぼかしとか、化しとか云うて、呆けて悪事をなすものであつて非常に権力を持つてをるものであります。
そこに八咫烏を御遣はしになつて、天津神の神勅を伝へさせ、汝等は帰順するか、天孫に降伏するか何うかと問はれました。すると兄猾は鳴鏑、大きな矢で射返して使の人を射殺して了つた。鳴鏑は矢の先に穴があつて、矢が鳴りつつ行くもので、それで射て射て射返すから、進むことが出来ずに、使のものも還つて来たのであります。其処を今では鏑崎と名附けてをります。そこで兄猾は皇軍を討たむとして軍兵を集めたけれども、軍隊が集まらぬ。それは霊の作用であつた。皇軍には神剣と八咫烏の御守護がありますから、兄猾が一生懸命になつて、部下の兵を募集しても、神剣の威徳に恐れて、一人も寄つて来ぬのであります。そこで已むを得ず降参したというて、実は偽りの降伏であります。俄かに大きな御殿を造つて、機即ち釣天井のやうなものを仕掛けて、御馳走をして日の御子が中に入られようとさるる時、上から臼見たやうなものを落して、生命を奪らうと計つたのであります。
その時弟猾に正しき神が懸つてしまはれたから、弟猾の奴、じつとしてをる事が出来ずに、到頭兄の計略を、悉皆日の御子に告げ参らせて了つたのであります。
弟猾が、天皇の所に来て曰ふのには、兄の兄猾が、天孫を邀へ撃たむとして、兵を集めて見たけれども、何ういふものか今度は却々集まつて来ませぬ。そこで計を設けて、大きな御殿を造り、実は降伏と見せかけて、御馳走を奉り、日の御子をそれへ招待し、日の御子が入られようとする時に機を以て御生命を奪らうとしてをります。それで此所に参向致して、事情を密告しますと言つたのであります。これは二人の兄弟が、一生懸命に悪を働いてをつたのであるけれども、その悪人が俄かに善人になつたのは、全く神様が御魂を入れ替へられたからで、即ち神から斯ういふ工合にして人間を使はれて居るのであります。
『天皇、即ち道臣命を遣して、其の逆ふる状を察せたまふ。時に道臣命、審かに賊害ふ心あることを知りて、大いに怒りて、誥び嘖びて曰く、虜爾が造れる屋には、爾自ら居よといふ。因りて剣のたがみ案り、弓彎きまかなひて、逼めて催入れしむ。兄猾、罪を天に獲たれば事、辞る所無し。乃ち自れ機を踏みて圧はれ死にぬ。時に其の屍を陳きいだして斬る。…………弟猾、大いに牛酒を設けて、以ちて皇師を労饗す焉。天皇、其の酒宍を以ちて、軍卒に班賜ふ。乃ち御謡して曰く、……』
そこで天皇は道臣命即ち大久米の大将、今の司令長官のやうなものと、大伴即ち今の侍従武官長のやうなものと、二人を御遣はしになつて、その方は詐りてをる、その手は喰はぬ。それが嘘であつたら、汝先づ御殿に入れと言つて、二人が刀の柄を握り、鯉口くつろけてぢりぢりと、双方から迫つたので、已むを得ず自分が入りますと、自分で造つた機に押し付けられて死んだのであります。弟猾の方は、大に誠を尽し御饗を奉り、皇軍を慰労うたのであります。
その天皇の御歌に、
『兎田の高城に、鴫罠張る、我待つや、鴫は罹らず、いすくはし、鯨罹り、前妻が、魚乞はさば、立柧稜の、実の少くを、扱きし捭取ね、後妻が、魚乞はさば、いちさかき、実の多けくを、こきだ捭取ね』
これはつまり、兄猾が自分を、機にかけようとしたが、自分がかかつて死んで了つた。これは天罰であると、大に軍隊が勇んで来た時の御歌であります。
『是後に、天皇、吉野の地を省さむと欲して、乃ち兎田穿邑より、親ら軽兵を率ゐて巡幸焉。吉野に到り…………』
それから八咫烏の後から随いて行くと、吉野川の下に出られた。神様の教に随つて行けば、易々とよい道に出られたのであります。この吉野川を言霊から解釈いたしますと、実に美はしい、水晶の世の中といふことになり、神の御徳が、国内に潤ひ溢れてをるといふことであります。この川は変るといふことで、世の中を清め、すべての物を美はしく、変へるといふことになります。其処へ行かれますと、漁師がをつて、吉野川の魚を取つて、天皇に献つた。所謂今日で言へば、皇軍を慰労つたのであります。この魚を魚と申します。サカナ即ちナと言ひまして、この魚を献るといふことは、天皇の御名が、世界に輝くといふ意味で祝うたのであります。目出度い時に、鯛や鯉を祝ふのと同じ事で、即ち祝うて魚を献上したのであります。
『時に、人有りて、井の中より出でたり。光りて尾もあり。天皇、問うて曰りたまはく、汝は何人ぞ。対へて曰く、臣は是れ国神なり。名を井光と為ふ。此れ即ち吉野の首部の始の祖なり』
それからどんどん八咫烏に随いて進んで行くと、尾の有る人が出て来たといふ事が記されてある。この烏は今日では神の教で、高倉下が八咫烏の御用に仕へたのであります。そこに井の中から、尾のある人が出て来て、井が光つて居たから、井光と称へたとあります。
人類学者の説によると、丁度其の時代には、尾のある人が住んでをつたとも云ひ、又人間の元祖は尾長猿などと申します。頭があれば尾がある通り、尾があるといふことは、沢山の部下を伴れて居る人といふ意味で、即ち神武天皇を助ける為めに出て来た土地の名望家といふことであります。その井光と申す井戸は、今の様に石で畳んで水を汲む井戸でなくして、非常に美はしい処から出て来たといふ意味で、即ち山を四辺にめぐらし、川を前にして井戸形の所に大きな家を建てて住んでをる、其処から出て来たといふ事であります。又井光といふのは、其の人の徳が、土地一面に輝く名望家であるから、人がそれを見て井光と云うたのである。これは吉野の首の始祖であります。昔は首、直、宿禰、大臣等がありまして、今日でいへば首の井光は郡長の如きものであります。それですから獣の如く、尾があつたのではないことはこれでも分ります。
『更少し進くときに、亦尾有りて、磐石を披きて出づる者あり。天皇、問ひて曰りたまはく、汝は何人ぞ。対へて曰く、臣は是れ磐排別之子なり。此れ即ち吉野の国樔部の始の祖なり…』
それから吉野を分けて行かれると、又尾の有るに出会はれました。この人が磐を押分けて、出て来たと書いてあります。その名が磐排別で、一方は井戸から出て来たのでありますが、井戸は低い所にある意義である。即ち之は前に出て来た人よりも、一つ偉い人といふ事であります。これは岩山の所に在る、要害堅固なる岩戸を押別けて、臣子の礼を竭し奉つたのであつて、つまり岩戸といふ意義は、蚊帳でも釣りて、その中に上の人がをれば、即ち蚊帳一重が岩戸に当るのであつて、天の岩戸が閉つたと同じ意義になるのであります。即ち非常に尊き人があるから、普通の人は会ふことが出来ない。この高貴の人が天孫に対して、臣礼を尽されたのであります。所謂磐排別といふのは、今迄の貴族主義を捨てて、平民主義になつたといふことになります。たとへて言へば、私は今まで妄りに出るものではなかつたが、貴人が通られるので、出て来たといふことであります。之れを見ても、磐から出て来たものでは無いといふことが、よく分るのであります。これが吉野の国造の一の先祖で、出雲の国の千家尊福さんの家も、随分古いもので、矢張り出雲の国造となつてをるやうなものであります。
以上神武天皇御東征の一節を説明したのでありますが、之と同様、今日及び今後の軍隊も、日の神の教を背に負ひ、造次にも顛沛にも神様の事を忘れず、頭に神を戴いて一切と戦はねばなりませぬ。戦と云うても思想上の戦もあれば砲戦もあり、其他種々の戦がありますが、要するに神様を頭に戴いて戦へば、如何なる災禍にもかからず、禍害を去る事が出来るといふ教になるのであります。
今此の講演を終るに臨み、御筆先の一節を捧読致します。
『大日本神国経綸万古不動の神言霊、天壌無窮之皇運発揮の火水と現れて、三千世界の修理固成を致すぞよ。日本は神の国でありながら、今の人民の心は薩張り獣と同じ事であるぞよ。外国から渡つて来た下らぬ学に累惑されて、尻の毛までも曳き抜かれて居り乍ら、未だ外国の行り方の真似計りいたして、何も彼も自由に致されて居るが、もはや天からの時節がまはりて来たから、何時までも斯んな見苦しい行り方は、さしては神は置かぬぞよ。国会開きは人民が何時までかかりたとて真正の国家経綸は能う致さぬぞよ。神が表に現はれて開いて見せようぞよ。国と国の奪り合ひ、役人は役の取り合ひ、人民は吾身さへ都合が好けりやよいと申し、金銀さへ持ちて居りたら、人が頭を下げると申し、慾ばかりに心を痛め、金銀の事に懸けたら、親兄弟とでも訴訟をいたすといふやうな悪の蔓りた暗黒無道の世の中であるぞよ。是では斯の世は万劫末代続きはいたさんぞよ。今の日本の人民は一人も誠の神国の行動はいたして居らぬぞよ。神から見れば、鬼と大蛇の四つ足の世の中に化けて居るぞよ。大の字逆様の世であるぞよ。斯の世を本様に大正革新して、天下泰平に世を均して、世界中の人民を安心させるぞよ。日本は神国ぢやと口先では申して居るが、神国の由来を知りた人民は誠に尠ないぞよ。是までは暗黒の世でありたから、判らぬのも無理はないが、此の先は日の出の守護となるから、何も彼も一度に夜が明けて、ソコら辺りが光り渡りて、今迄の人民が思うて居りた事が、大間違でありたといふことが判りて来て、愧かしき人民沢山に出来るぞよ、一度に開く梅の花と申して知らしてあるぞよ』
(大正九・一〇・四 五六七殿講演筆記 九・一〇・二一号神霊界)