霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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人造精乳

インフォメーション
題名:03 人造精乳 著者:出口和明
ページ:40 目次メモ:
概要:喜三郎は京都で人造牛乳の会社を設立。綾部では焚書。世祢への虐待。澄は畳針を飲んで自殺未遂するが三日目にウンコと一緒に針が出る。綾部から連れ戻しに来たので仕方なしに綾部にいったん帰る。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-06-21 04:58:51 OBC :B138908c03
0001 隅本の家を出て、0002内藤家に悄然として戻ってきた鬼三郎を、0003暖かくいちが迎えた。0004二、0005三日、0006むなしい気分で、0007ごろごろと寝て過ごした。
0008 訪客があった。0009内藤は鬼三郎を引き合わせた。0010客は山田武寅、0011六十前後の、0012黒い髭を八の字にはやした紳士だ。0013信州で教師をしていたが、0014定年退職して、0015家族四人で京都に移住してきた。0016山田は人造精乳について独自に研究、0017内務省衛生試験所に申請して試験済の許可も得た。0018技師としての腕をふるって会社を興したいと夢を語る。
0019 内藤には関心のない話であろうが、0020牛乳には苦労もし、0021勉強もしてきた鬼三郎には、0022すぐ共鳴できる。0023欧米人に比べて日本人の体格・体質・体力の劣性を自覚もし、0024栄養価の高いものを求める社会的風潮もある。0025牛乳の需要が年々高まるにつれ供給が不足して、0026急には応じきれぬ現状だ。
0027 ――よし、0028社会に精乳を与え、0029わしは宣教の資金を得よう。
0030 鬼三郎の頭はめまぐるしく動いた。0031新時代の要求には人一倍敏感であり、0032思いついた時、0033すでに実行の第一歩を踏み出す鬼三郎でもあった。
0034 内藤と相談の上、0035鬼三郎は山田武寅を伴って園部へ帰り、0036奥村徳次郎方で人造精乳を試作した。0037見たところ、0038牛乳と変わらぬくらいだ。0039試飲すると、0040人造精乳は日本風になじんだ舌にはちょっと異国風でうまかった。0041牛乳は臭うて飲めんといっていた奥村さえ、0042これならいけると喜んだ。
0043 製造にあたって、0044山田は「極秘」と称して室に鍵をかけ、0045ものものしい。0046が、0047製造技術さえのみ込んでしまえば何のことはない。0048大豆を臼でひいてつぶし、0049炊いて汁をとる。0050鶏骨と牛の脂身を煮つめてスープをとる。0051大きなブリキ釜に両者を合わせ、0052麦芽、0053澱粉の溶き水を撹拌(かくはん)しながら加えていき、0054百二十度まで熱を上げる。
0055 撹拌という言葉はまだ耳新しかった。0056「植物性・動物性の油脂と水とを撹拌によって親和させる。0057そこにコツがあるんや」と山田は誇るが、0058なるほど彼が作ると、0059とろりとなめらかに乳色に仕上がる。0060それに薬品(?)を少々おとし、0061調味して冷やしたところを一合瓶につめる。
0062 鬼三郎は綾部からひそかに弟幸吉を呼び寄せた。0063人造精乳会社創設の準備を山田、0064奥村、0065幸吉らにまかせて鬼三郎は京都にとび、0066出資者の心あたりを説いてまわる。0067一方、0068京都の小竹家へ養子に行った末弟政一(十九歳)を園部へ送り、0069製造技術を学ばせた。
0070 やがて園部上本町、0071奥村徳次郎の離れに販売所を設ける。0072出資者は船岡字高尾の松井久三郎。0073小竹政一が番頭格で、0074人造精乳社は順調にすべり出した。0075園部の町中に評判が高まり、0076申し込む者が次々とふえる。0077一合三銭、0078強気にも牛乳と同じ値段だ。
0079 しばらく調子を見て、0080鬼三郎は山田と幸吉を京都に引き上げさせる。0081京都を舞台に、0082すぐ次の手を打っていた。0083七年前に乳牛研究に行っていて知りあった京都牧場の松原栄太郎の出資をとりつける。0084教員上がりの文具店主若林を仲間に引き入れ、0085蛸薬師富小路の文具店と若林の持家二戸分を一つにして「人造精乳修生社」の看板を上げた。0086畳一枚位もある大きな看板だった。0087修生社社長は上田鬼三郎、0088技師山田武寅、0089販売主任が教員上がりの若林。
0090 三十二歳の青年社長上田鬼三郎。0091資力ゼロ、0092学歴ゼロの田舎育ち百姓上がりの若造のくせして、0093倍も年上の都会人をたちまち心服させて使うなど、0094考えてみれば不思議である。
0095 鬼三郎に引きまわされつつ、0096山田も若林も松原も、0097時には首をひねって不審がる。0098逆らってはみても、0099結局、0100ついて行かされる自分に気づく。0101どうもしゃくではあった。
0102 何とか四、0103五十軒の得意をとって、0104朝夕の配達も順調になる。0105こちこちと算盤をはじいている山田に、0106どこからか帰ってきた鬼三郎が告げた。
0107「山田はん、0108お得意が思うように延びんのは宣伝不足のせいや、0109来月の中頃には、0110おもろいチンドン屋雇うて、0111ぱあっと派手に宣伝しますわ。0112けど、0113宣伝文句に偽りがあってはどもならんさけ、0114精乳の分析を頼んできましたで」
0115「分析を……へえ、0116誰にどす」
0117「京都やさけ、0118あそこが一番よいやろ思てなあ。0119京都帝大の医科大学長坪井博士。0120ついでに軍医の黒坂はんにも頼んできた。0121あ、0122坪井博士は薬剤士連れて、0123近日中に来るそうやで」
0124 山田は言葉につまった。0125今を時めく坪井博士が、0126そんなに気安うこんなとこまで来るかいなと嗤いたかった。0127が、0128ただ目をむいただけ。
0129「そや、0130どうも気にかかる。0131一つ専売特許とりまひょ。0132製法でも盗まれたら痛手やでなあ。0133山田はん、0134出願方、0135骨折ってみて下さらんか」
0136 返事をためらっていると、0137鬼三郎はせっかちに言った。
0138「めんどうなようなら、0139わしがしますさけ……うーん、0140一日に平均一斗一升、0141開業早々とはいえ、0142三円三十銭位の売り上げでは心細いのう。0143家賃が一日五十銭、0144人件費が一日二人で一円や。0145炭、0146薪、0147雑費がざっと三十銭、0148原料費が……山田はん、0149一日一斗で約七十銭とみんなりまへんか」
0150「いやいや、0151売り上げが少のうおすさかい、0152割高について八十銭ほど……」
0153「骨折り損のくたびれもうけ。0154このままでは、0155出資者や社長の給料の出どころがないのう。0156設備投資もせんなんし……」
0157「この上まだ投資どすかい」
0158「そらそうや、0159配達車を四、0160五台、0161一回に二斗分は運べるやつを考案しとる」
0162「……」
0163「悲観することはありまへんで。0164わしは一日売り上げ平均一石を目ざしてます。0165今の得意を十倍に増やす。0166まあ、0167見とくれやす。0168坪井さんの分析証明書さえ入れば……」
0169「うまくいきますかいな」
0170 意地のわるい眼になって山田が見上げる。0171鬼三郎はにっこりした。
0172「はて、0173宣伝文句をひねらんなん。0174宣伝服いうのも欲しおすなあ」
0175 山田は聞かぬ振りをして、0176茶をいれに立つ。0177元の席に戻った時、0178もうどこへ消えたか、0179青年社長の姿はない。
0180 半月ほどして、0181坪井博士が薬剤士と助手を連れてやって来た。
0182「三人の中で、0183どの人が坪井博士やろ」と、0184目前に偉い人を見るのが珍しい幸吉が囁く。0185若林が言った。
0186「背のすっと高い、0187真白な白衣着た人やろ」
0188 けれどどうやら人違いらしいことが、0189態度や言葉づかいで分かってきた。0190博士は一番背の低い、0191見ばえのせん服を来た、0192古いおんぼろ靴の男。
0193「けど、0194博士はんにしては着とるもんがお粗末すぎるやんか。0195ほんまもんの博士やろか」
0196 幸吉の思わず洩らした言葉が博士に聞こえたらしい。0197ひょいと首を上げて、0198真面目な顔が答えた。
0199「これでも坪井は坪井やからな」
0200 待ちに待った分析表がとどいた。
0201  報告書 第一〇三号
0202一、0203精乳一瓶、0204右定量分析、0205当方へ差し出たる品は乳様の臭気と微に甘味を有する乳様の流動液にして、0206比重は摂氏の一五度に於て一・〇二二五。0207反応は弱酸性なり。0208之れが分析を遂ぐにその毎百分中に検出する主要成分左の如し。
0209一、0210水分 九〇・三四六 一、0211乾燥残渣 九・二八五四 一、0212含窒素物 四・一二五 一、0213含水炭素 一・六四六 一、0214脂肪 三・二九五 一、0215灰分 〇・五八八
0216    京都帝国医科大学大学病院検査主任薬剤士 岩塚治郎
0217  証明書
0218一、0219人造精乳、0220右、0221京都帝国医科大学岩塚治郎氏の分析表に徴し衛生上好良なる滋養飲料と認め候也。
0222    医学博士 坪井次郎
0223  証明書
0224一、0225人造精乳、0226右精乳を細査し之を実験するに、0227多量の滋養分を含有し、0228衛生上牛乳に優るの好飲料たる事を証す。
0229    第四師団陸軍一等軍医従七位勲六等 黒坂芳七郎
0230 鬼三郎は頭の中に練っていた文案をもとに、0231精乳製造販売広告のビラを刷った。0232例の証明書を大きく刷り込むことを忘れない。
0233「中味さえ確かなら、0234それでよい。0235けど、0236世間の奴らは阿呆やさけ、0237(はく)をつけてやらんことには万事ついてきよらん。0238この証明のあるなしで、0239実際同じもん飲んどっても効き目まで違うてくる。0240信ずるか信ぜんかの差は恐いもんや」
0241 秋空冴え渡る日、0242早朝から賑やかな一行が繰り込んできた。
0243 大阪・京都・伏見から侠客連らも交えた雑多な男女四、0244五十人。0245鬼三郎の動員だ。0246ほんもののおひろめ屋のほか、0247即席の大応援団ができ上がった。0248「人造精乳」と大書した一人では持てぬ大きな赤旗・白旗。
0249 上田幸吉は役者になったように気恥ずかしく、0250自分の姿を眺め渡す。0251胸がわくわくした。0252兄貴得意の工夫デザインなのだが、0253何とも派手な宣伝服だ。0254黄色地に太い白の縦縞の膝下までの短ズボン、0255紺の靴下、0256青緑色の法被(はっぴ)にゴムの帯、0257襟の左右に人造精乳と白ぬきで染め出し、0258背にも白の精乳の二文字。0259細い袖口には白の折り返し。0260上下とも木綿で安上がりだが、0261町を歩いてもぱっと目立つ。0262和洋混合……綾部の役員たちが見たら何というやろ。0263だが身も心も軽く浮き立つような着心地は悪くなかった。
0264 太鼓、0265三味線、0266鈴など鳴り響かせて、0267派手な一行が街頭をねっていく。0268富小路西入ルの事務所から大宮通りを北へ。0269列の中央にはひろめ屋の御大将栗楽(くりらく)が上手に踊り歩いた。0270縮緬(ちりめん)の華やかな着物に袴をはいて、0271踊りながら鬼三郎作文の口上を浄瑠璃(じょうるり)口調でまくしたてる。
0272「昔、0273もろこしにて親に乳を与えし(ためし)あり。0274恐れおおくも応神天皇は乳なくして成長あそばせし例あり。0275人造の精乳なれば、0276衛生清きはもとより、0277動物質と植物質の脂肪及び全蛋白質、0278その他の人体必須の滋養分を抱合融化(よくちょうごう)させるものにして、0279牛乳・鶏卵に優る上品なり。0280おのおの方には是非ともお申しこみあれ」
0281 幸吉たちも、0282ひろめ屋と一緒に、0283一週間この口上を稽古していた。0284前触れ男は、0285「京都帝国大学病院長坪井博士の証明これありィ……」と、0286声を嗄らして叫んでいる。0287何事ならんと見物人がたかってくる。0288ぞろぞろついて宣伝文句に耳を澄ます。0289子供連れや赤児を負うたおかみさんには、0290宣伝用の精乳を飲ましてやった。0291口上はすっかりそらで言えたし、0292鬼三郎にいわれた通り、0293こうもつけ足した。
0294「はがきをもって御申込み下されし御方には、0295配達の節、0296はがき代一銭五厘御返し申しまする」
0297 美しい声だと我ながら思った。0298行列の先を、0299栗楽に負けぬ手ぶりで鬼三郎が踊っている。0300行列は丸太町通りへ来て烏丸通りへ。0301河原町通り三条、0302四条から祇園の東山・伏見方面にまで足をのばす。0303チンチン電車の窓々から客が首をつき出して手を振った。
0304 得意客は増え、0305売り上げはぐんとのぼった。0306精乳配達車五台も届いた。
0307「うん、0308注文通りに出来たわい」と、0309鬼三郎は満足げに言った。
0310 人力車を改造して、0311人の乗る所に大型の箱を据えつけ、0312二段の引き出し二つに約二百本、0313二斗は入った。0314が、0315空瓶回収を考えて、0316百本積み込む。0317雇いの配達夫にもみな例の宣伝服を着せ、0318配達車で市内を走らせる。0319まだ自動車はなく、0320ちらほらと自転車を見かけるほどの時代である。0321苦学生が小遣いかせぎに来ていた。0322二、0323三十本ずつ、0324自分の得意をつくって配っていた。
0325 出資者松原栄太郎は京都一の牛乳屋といわれ、0326相当数の牛を持ちながら乳が足らぬ。0327常時、0328大口の精乳を松原牧場に卸させた。
0329 鬼三郎は、0330穴太の弟由松を呼んで、0331まず精乳配達から仕込んだ。0332田舎出の由松が配達先を憶え、0333真面目に事務の仕事に慣れるまでには、0334かなり辛抱がいった。
0335 夕刻、0336青野の帽子工場から帰途を急ぐ澄の目に、0337真先に火の色が見える。0338中村竹吉、0339村上房之助、0340田中善吉らが館の庭で書を燃やしているのだ。0341上田幸吉が綾部を抜け出して間もなくから、0342この焚書(ふんしょ)は始まった。0343小松林の魂を追い、0344外国文字を焼き払って立替えの型を示す、0345日々の大切な儀式となった。
0346 炎を上げているのは、0347鬼三郎が綾部に来てから寝る間も惜しんで書き貯めた膨大な原稿、0348信者たちに書き与えた短冊や半截(はんせつ)類。0349神という字を燃やすのだけは畏れ多いと誰かが言い出して、0350役員たちが夜なべの合い間に丹念に神の字を切りとる。0351だから、0352一日に燃やす分量は、0353幾らでもない。0354それでも、0355切り抜いた神の字が、0356もうみかん箱三杯に貯まった。
0357 鬼三郎の部屋の天上裏から発見したり、0358役員たちがあちこちの信者の家を回って集めて来たものだが、0359よくまあこれだけ書いたものとあきれるぐらい。0360寝る間もなかったはずだ。
0361 澄が部屋の外に立って見張り、0362人が来ると廊下を踏んで合図して、0363夫は豆ランプを蒲団でおおい、0364苦労の末に書き上げた思い出のにじむ本もある。0365無学で読めぬとは言っても、0366それが夫にとってどんな大事なものか、0367妻の澄に分らぬはずはなかった。
0368 中村や四方平蔵らが役員を代表して夫の原稿の引き渡しをせまった時、0369澄は迷った。0370必死に拒めば守り切れたか知れぬ。0371けれど澄はそれをしなかった。0372夫の書きものが正か邪か知る由もない。0373しかしすべては小松林の心なのだ。0374小松林の書を焼くことで、0375夫と小松林を切り離せるなら……艮の金神の意のままに、0376立替えの型が成就するなら……。
0377 澄は、0378自分の手から炎の中に夫の書を投じた。0379火色の中に、0380鬼三郎の魂がもだえ尽きていく。0381それは同時に、0382澄の中の何ものかをもつき崩していく。
0383 背にささる痛い視線に、0384澄は振り向く。0385怒りをこめ、0386炎を宿した、0387(はは)世祢の眼だ。0388ぐっとにらみつけて、0389澄ははじいた。
0390 縄ないをして家計を助けるべき夜を、0391澄は抜けて北西町へ急ぐ。0392大槻家の離れでは、0393いつも賭場がひらかれていた。0394そこから上がるテラ銭は、0395鹿蔵夫妻の大きな収入源であった。
0396 澄の訪れを米は歓迎する。0397あしかけ九年間も狂い続け、0398母によって癒されながら、0399母へのわだかまりを捨て切れぬ米。0400世継の澄が大槻家の悪に染まることを嫌い、0401恐れる母を知っていて、0402いっそう澄を引き寄せたがる。0403姉妹の中を裂こうとする母が憎い。0404その分、0405妹の来訪は嬉しくてならないのだ。
0406 大槻鹿蔵もまじえて、0407茶の間で花札が始まる。
0408 ここにいると、0409まるで別世界であった。0410神も立替えも、0411筆先も、0412すべてが遠く、0413かかわりもなく、0414とるに足らぬ瑣末(さまつ)な事に思えてくる。0415わずかの銭のために体をこき使い、0416果ては団栗団子に飢えをしのがずとも、0417ここでは花札やサイコロの一夜の遊びで、0418大金が右から左へ転がってくる。0419鬼と蛇の身魂の夫婦とさげすまれる姉と同じ悪の血が、0420自分の体をも確かにめぐっているのかと思う。
0421 背中の朝野の泣き声にも気づかぬほど勝負に熱中する澄。0422澄が今、0423心の昂揚を感じるのは、0424小さく美しい花の図柄の戦いだけであった。
0425 ――澄よ、0426改心いたされよ。0427行いを改めて下されよ。0428直の子ではないか。
0429 筆先の執拗な叱責。0430澄に聞かせようとして、0431中村がわざとくりかえし音読する。0432澄は耳をふさいだ。0433まだおまけに、0434蒲団を頭からかぶった。
0435「会長はんいうたら、0436今度は人間から牛乳しぼる会社おこして、0437金儲けに乗り出さはったそうどすで」
0438 京都へ行った田中善吉が、0439義兄近松政吉から仕入れてきた怪情報である。
0440「はて、0441会長はんは昔、0442乳屋か牛飼いしとっちゃったげなが、0443人間から牛乳しぼるって……何じゃいな」と、0444四方平蔵がいぶかった。
0445「牛より人間から牛乳しぼる方が、0446安上がりやさかいどっしゃろ」
0447「いくら会長かて、0448男やさかい乳出さへんやろ。0449女子ども()うて、0450牛の代わりに乳しぼるんじゃろか……」
0451 中村竹吉が顔色変えた。
0452「くそ、0453四つ足身魂め。0454小松林がとうとう獣の正体あらわしくさったわい。0455人間に牛の乳出させるなど、0456なんちゅうこっちゃいな。0457この調子では、0458人間に牛の仔を生ますぐらいやりかねんでよ」
0459 三人は額を寄せた。0460が、0461どう頭をひねってみても、0462人間から牛乳をしぼるなど考えがたい。0463けれど、0464どんな不思議でもやりこなす会長の霊術の力は認めねばならんのだ。
0465「どえらい悪の型を出すことになる」と、0466平蔵はうなった。0467彼らは口々にしゃべり出す。
0468「どのいしても、0469やめさせねばならん。0470わしらが手をこまねいて見とったんでは、0471天地の神々さまに申し訳もたたんわな」
0472「よし、0473ちょうど外国文字もすっかり平らげたとこやさかい、0474すぐ京都へ行って会長はんを連れ戻してこよう。0475かついでも連れて帰らんなんさかい、0476若い者も連れて行こかい」
0477「教祖さまに御心配おかけしてはならんさかい、0478乳のことは内緒やでよ。0479わし、0480ちょこっと京都へ行くお許しもろてくるわな」
0481 平蔵は別荘に、0482中村、0483田中は東四辻に急ぐ。0484ちょうど居合わせた木下慶太郎、0485竹原房太郎、0486村上房之助が即座に同行を申し出た。
0487 村上が思案深げに言う。
0488「その前に、0489会長はんを産んだお世祢はんから、0490まず改心してもらわねばなりまへんなあ。0491大本の神さん除けといて、0492この頃は稲荷の札を拝んどりなはる」
0493 中村が大きくうなづいた。
0494「ほんまや、0495よう言うちゃった。0496まずお世祢はんに改心してもろて、0497それから会長や。0498みんな、0499ついて来なはれ」
0500 中村、0501田中に続いて若い者が従った。
0502 世祢は、0503奥の間で木綿の厚い地の足袋をつくろっていた。0504直の手づくりの足袋であった。0505「綾部の冬は寒いから」と、0506去年の秋にくれたものである。0507一冬はいて、0508今年もまたこの足袋で冬を過ごさねばならぬ。0509網すきの手内職で、0510指先は荒れていた。
0511 貧乏はこらえもしよう。0512だがこらえきれぬのは、0513絶え間ない息子鬼三郎への圧迫であった。0514留守の間に、0515澄までが一緒になって、0516息子の夜な夜な心血注いだ書き物を焼ききった。0517口惜しさが、0518世祢の心をじりじりとあぶる。
0519 嫁の澄、0520孫の朝野への愛すら干乾びていく。0521四面が敵。0522訴える者も、0523慰める者もない。0524人間としての直には敬慕を覚えながら、0525教祖直にはそっぽを向いた。0526気違いの元凶にちがいなかった。0527神前には義理で手を合わし、0528自室の柱に張った稲荷講社のお札ばかり熱心に拝んだ。0529金明霊学会は稲荷講社の付属教会なのだから、0530親元のお札を拝んで何が悪かろう。0531これ見よがしの、0532せめてもの世祢の抵抗であった。
0533 大勢の荒い足音がして、0534世祢の部屋の襖があいた。0535誰かがいきなり柱に貼っておいた稲荷講社のお札を破り捨てる。
0536「四つ足身魂の母親は、0537やっぱり四つ足や。0538改心して下され。0539稲荷を拝むような身魂はこの大本には置けんわい」
0540 世祢は逆上して我を忘れた。
0541「四つ足、0542四つ足とあんまりや。0543あの子を、0544誰のみ子やと思うてや。0545お前たちに馬鹿にされてよいような子やあらへん。0546無礼やないかいさ。0547出て行っとくれ」
0548「出て行くのはお前や。0549稲荷講社の駿河の狐や。0550この肉体から出て行けい」
0551 腹部に激痛。0552あたりがまっ暗になった。0553男たちの叫びが遠くかすかになっていく。
0554「どうや、0555狐はのいたか。0556お世祢はん……お世祢はん……」
0557 平蔵の知らせで、0558澄は東四辻にかけつけた。0559世祢は西田元吉と雪の介抱を受け、0560気をとり戻していた。
0561「どうしても足が綾部へ向きよるで、0562(あが)が急いで帰って()ら、0563このざまや。0564あいつら、0565横腹蹴って気絶させといて、0566義母(かあ)さん見捨てて逃げおった。0567兄貴がいたら口惜(くや)して……泣きよるで……」と言う元吉の目から、0568ぽたぽた涙がしたたる。
0569「こらえとくれやす」
0570 澄が両手をついた。0571知らずに筆先を書いているであろう母直に代わって、0572詫びた。
0573 世祢は白い目を脇にそらす。0574決して許すまいとしている。0575澄の責任でないのは知れたことだが、0576大本の世継として、0577息子鬼三郎をないがしろにする嫁として、0578二重に憎いのだ。
0579「このまま義母さんをここに置いといたら、0580気違いどもに殺されちまうでよ、0581お澄さん。0582どうしたらよいじゃろ」と、0583元吉が心配しきった眼の色で相談をもちかけた。
0584「……やっぱり龍門館に帰ってきておくれなはれ。0585ここよりはきっと……」
0586 駄目と分っていながら、0587澄が口にした。0588東四辻の雑居生活は世祢の望んだことだった。0589やはり世祢は白い面を強く横に振った。
0590 元吉が言い足す。
0591「どっちゃにしても、0592綾部ではあかん。0593あいつらが兄貴を連れて帰りよったら、0594もっとややこしいことになる。0595いっそ小竹のおる園部へでも移ったらどないやろ。0596義母さんが動けるようになったら、0597とりあえず吾の家へ来な。0598お雪と一緒に暮らしたらよいわい」
0599 澄は深くうなだれた。
0600 東四辻を出、0601龍門館への道の曲り角まできて、0602澄は思った。
0603 ――うちも出て行きたい。0604このままどこか遠くへ消えて行きたい。0605母も夫もいない世界へ……。
0606 平蔵たちが鬼三郎を連れて戻ったらと思うと、0607澄は身震いする。0608五百六十余冊と中村竹吉が数え上げていた、0609あの煙と化したどえらい書き物、0610書きつけ、0611衣類やら持ち物……。0612その上、0613母世祢への虐待が知れる。0614怒髪(どはつ)天をつく鬼三郎の神がかり、0615決して負けぬ母との激烈なぶつかり合い……。0616今の澄はそれに耐えられそうにない。
0617 細い体を折り曲げて、0618澄は道脇の桑畑へわけ入った。0619下枝の張った桑の木の太い幹にすがりつく。0620くっくっとのど笛が破れるように鳴る。0621大きな桑の葉が重なり合い、0622澄の体を包んでくれる。
0623 母の霊視と、0624夫の天眼通と、0625それから艮の金神の手のとどかぬ地が、0626どこにあるだろうか。0627澄は知っているかぎりの地を思い出す。
0628 七つの時、0629右手首に所書をくくりつけてもらって、0630とことこと歩いていった最初の奉公先福知山。0631姉たちのいる八木、0632王子。0633それから万右衛門牛のいる私市。0634全部でそれだけ。0635どこへ行っても、0636澄を鬼門の神の眼からかくまってはくれまい。
0637 澄は足下の土くれを握りしめた。0638ちかっと指を刺す痛み。0639掌を広げると、0640土に混じって太く長い針が……。0641澄は陽にすかして見た。0642耳のところがわずかに折れてはいるが、0643四寸五分はある畳屋の使う差針だ。
0644 ……何でこんな所に落ちとるんやろ。
0645 泥をぬぐって畳針をみつめた時、0646澄の荒立つ胸がすっと冷えて、0647はっきりと一筋の光が差し込んできた。0648澄は、0649その光に向けて落ちついて言った。
0650「もしほんまに神さまがうちを必要なら、0651生かしてくれるはずや。0652神さんのお仕組いうのが嘘っぱちで、0653どうでもよいことなら、0654今すぐうちを死なしておくれなはれ。0655さあ」
0656 澄は出来る限りのどをそらせる。0657桑の葉を洩れる陽ざしが、0658まぶしい光の玉を散らす。0659息をつめ、0660畳針の頭のほうからそろそろとのどへ押し込んだ。0661吐き気がした。0662針を抜いて吐く。0663固形の物はほとんどなかった。
0664 もう一度やり直す。0665こみ上げる吐き気。0666やたらに唾液が出るようだ。
0667 力をこめねば、0668はじき返してくる肉の弾力に負ける。0669白いのどが、0670ぴくぴく動く。0671ふくれた部分が通っていくと、0672あとは吸い込まれるように入っていった。
0673 もう引き戻したくても、0674指はとどかぬ。0675のどから胸へと落ちていく針のしびれるような感覚に心を研ぎすます。
0676 ――これでうちのまる十九年の人生は終わった。0677あとは必要なら、0678神さまが何とかしてくれてやろ。
0679 ふっと笑いがこみ上げてくる。0680桑畑を出て空を仰いだ。0681もうどうなってもよい。0682神にまかせきった身に、0683こわいものは何一つなかった。0684早く帰って朝野におっぱいをやらねばと思う。0685けれど急がず、0686ゆっくりと死への感覚を楽しみながら、0687龍門館への乾いた道を歩いた。
0688「お澄や、0689畑のさつまいもが食べ頃になっとるさかい、0690少しふかしておくれ」
0691 東四辻の桑畑から帰ってくると、0692表に立っていた直が待ちかねたように言った。
0693「はい、0694母さん」
0695 つとめて明るく澄が答える。0696一昨年の秋おそく、0697ここに移った時は、0698別荘の渡り廊下と薪置場の間は、0699石ころだらけの荒れた空地であった。0700「お土を荒れさせてはもったいない」と、0701筆先の合間に直が掘り起こして、0702今では石ころ一つ、0703雑草一本ないきれいな畑地。0704さつまいもの(つる)を上げると、0705ころころと太った芋がついてくる。
0706 畳針を呑み下し、0707死と向き合った今、0708澄の心は、0709風のそよぎにすら感じやすくなっていた。
0710 陽と水をいっぱいに受け、0711土が育んでくれた一つの芋。0712生命の不思議、0713お土の恩につき動かされ、0714涙が落ちて止まらない。
0715 神前にお初のさつまいもを供え、0716残りを火にかけていると、0717朝野が君におぶわれて帰ってきた。0718その機嫌よい笑い声を聞いただけで、0719きゅっと乳房が張りつめてくる。0720死にたいと願っている心とはうらはらに、0721この体は針を入れられてもなお我が子を育てようとしているのか。
0722 朝野をかき抱いて、0723激しく頬に口づけし、0724乳房を含ませる。
0725 直が台所へ来て芋のふかし加減をみ、0726塩をふって抱えてきた。0727目を輝かす君に一つ握らせ、0728一つを澄に渡してそこに坐った。
0729「食べておくれ、0730お初の芋やで」
0731 めったにないことであった、0732三度の食事以外、0733間食に母が芋をすすめるなど。0734大勢の食費の他、0735筆先の紙や墨、0736神に捧げる燈油や饌米(せんまい)などのために土方までして働いている東四辻の人々にすまない。0737喜びも苦しみも分かち合う共同生活の中なのだ。0738夢中で食べている幼い君。
0739 直は昔を偲ぶやわらかい眼になった。
0740「清吉が出征する時なあ、0741ふかしたての新しいさつまいもを腹いっぱい食べたい言うて……。0742熱いのをふうふう吹きながら頬ばってくれた。0743あれが、0744あの子との最後の別れじゃったが……」
0745 どきんとした。0746母の視線を受け止めかねて、0747澄は熱い芋をのどに押し込んだ。0748食欲はなかったが、0749母を喜ばそうとして「おいしい、0750おいしい」と幾度もくりかえした。
0751 その夜はたっぷりと芋粥。0752喜んで一同、0753腹いっぱい食べた。0754人々の満ち足りた笑顔が何よりも澄にはうれしかった。0755やさしいやさしい心になっていた。
0756 一夜、0757二夜が過ぎた。0758三日目の明け方、0759くどに火を起こしている時、0760澄は右横腹に激痛を感じた。0761最後が来た。0762火吹竹を握りしめ、0763歯をくいしばる。0764二階の神前から、0765母の奏上する神言が流れていた。0766苦悶の余り土間を転げていって、0767澄は気を失った。
0768 くどには火が燃えている。0769母の神言が続いている。0770火吹竹が、0771掌で、0772くだけている。0773あっと気づいて起きた。0774どうなったのだろう、0775ここはもう死んだ世界だろうか。
0776 異臭が鼻をつく。0777失禁していたのだ。
0778 汚物の中から澄は見覚えのある長い針をつまみとる。0779血と粘液にまみれた畳針の先に細い糸がからみついている。0780いや、0781糸ではない。0782さつまいもの繊維であった。0783頼りなく細いすじが幾重にもからみ合って、0784鋭い針の先をおおったのだ。0785この長さで、0786どこをどう差し貫いても仕方ないものを、0787狭苦しくまがりくねった腸の角々で向きをかえ、0788いたわり、0789いたわり、0790三日がかりで体内をくぐり抜けた……。0791針が、0792芋が、0793体が、0794澄の知覚せぬところで協調し合い、0795澄の体から直面する死を追いのけてくれたのだ。0796それは「生きよ」と命ずる厳然たる神の意志ではないか。
0797 土間を清め、0798汚れた衣服を着がえて外に出る。0799朝霧の奥に陽が昇るところであった。
0800 ようやく、0801鬼三郎の思惑通り、0802一日一石製造の線に行きついた頃、0803思わぬ商売仇が出現して、0804衝撃を受ける羽目となった。0805同じ町に、0806栄乳と称する人造精乳販売元が出来たのだ。0807信じられぬことだったが、0808精乳の製造秘術は、0809岩塚薬剤士から洩れたものと分かった。0810まったく同じ味、0811見分けはつかぬぐらいである。0812修生社の客ののびは止まり、0813逆に減りをみせてきた。
0814「おもろい。0815戦いをいどんできおったのう。0816心配するな。0817こちらも対抗策を考えたらよいのや」
0818 山田を初め若林、0819由松らの憤激を、0820やわらかく鬼三郎がなだめた。
0821 その朝、0822鬼三郎が帳面を調べていると、0823表で犬が激しく吠えつく。0824見ると、0825店の前を肩で風切って通り過ぎる蓑笠隊の一行がある。0826この町中を……。0827大本人種以外の誰であろう。
0828 思わず表にとび出した。0829蓑笠の後姿いっぱいに、0830丹波の秋が匂っている。0831涙が出るほど懐かしかった。0832一行の後尾を、0833たどたどしい足運びで行く平蔵の後から、0834抱きつくように鬼三郎は声をかけた。
0835「おい、0836どこへ行くんや」
0837 四方平蔵、0838中村竹吉、0839竹原房太郎、0840村上房之助、0841木下慶太郎。0842後姿だけでもそれと分る五人男はいっせいに振り返って、0843びっくりした目で鬼三郎を見た。
0844「ここにいちゃったんか。0845何しとってんです、0846先生」
0847 木下の声にも、0848正直に歓びがあふれる。
0849「お前ら見かけたさけ、0850懐かして追ってきたんやんけ」
0851 左右から、0852四方平蔵と中村竹吉がぐいと手をにぎる。0853平蔵は捜しあぐねた仇に出会った(つら)つきになった。
0854「やれ、0855艮の金神さまのお引き合わせや。0856つかまえたからには、0857もう離さんでよ」
0858「何がお引き合わせや。0859わしが声かけてやらなんだら、0860お前ら、0861どこまで行く気やったんや」
0862「それが、0863田中はんから住所は聞いたんやが、0864その書きつけを落として……(たこ)薬師まではみな覚えとるんですわ。0865けど、0866何やら小路か誰も思い出せん。0867朝から歩き廻っとるが、0868何しろ人間から牛乳しぼる商売ちゅうだけで、0869大本の上田鬼三郎と言うても誰も知らん。0870ひと先ず近松政吉はんの家へ行って、0871近松はんに先生の居所まで案内してもらおちゅうことになったんですわな」
0872「近松はんの家なら反対やんけ。0873こっちやない、0874向こうの通りや」
0875「そら好都合や。0876先生、0877知っとってんですかい」と、0878村上が嬉しそうに言った。
0879「お前ら知らんと行く気なんか。0880あきれた田舎者め、0881わしが連れてったろ」
0882「おおきに。0883やれ、0884ほっこりした」
0885 中村が村上の額を小突いた。
0886「阿呆、0887会長つかまえたら、0888近松はんへ行く用はないわい。0889さあ、0890先生のおってんとこへ案内しとくなはれ」
0891「気がすすまんなあ。0892連れてったら、0893どないするんや」
0894「きまってますわな。0895すぐ荷物をまとめて、0896綾部へ引き上げですわな。0897小松林にこんなとこうろうろしてもろとっては、0898ろくなことありまへんやろ」
0899「無茶ぬかすない。0900いま産んだばかりの事業が危機に瀕する瀬戸際なんや。0901生きるか死ぬかや。0902いま京都を離れられるけい」
0903「事業やて……産んだばかりで乳を出す事業やて……なんちゅう情けないこと言うてんじゃいな」と、0904平蔵。
0905「そうや。0906わしら大和魂の男子の事業は、0907三千世界の立替え立直し以外にはござへんで」と、0908中村が、0909得たりと大声を出す。
0910 ――えらい奴らに懲りもせず声かけてしもた。0911わしは阿呆や。
0912 すでに奇妙な姿の一行に、0913人だかりがしている。0914ともかくこの場はごまかす一手だ。
0915「よう分かった。0916ともかく近松はんの家まで行こけい」
0917「いや、0918行くのは会長はんの乳しぼる会社や」と、0919強引にねばる中村。
0920「わしの会社は遠いのや。0921またの日にしよ。0922近松はんの家はすぐ近くやさけ、0923まずそこで草鞋をぬいて、0924ゆっくり話をしよやないか」
0925 なだめなだめ、0926先に立った。
0927 近松家に草鞋をぬぐなり、0928四方平蔵が改まって告げた。
0929「おかげで先生、0930今までかかって、0931きれいに綾部の立替えもすみましたでよ。0932どうぞ喜んどくなはれ」
0933「外国文字と駿河の狐は、0934ちゃんと追い出して来ましたで」と、0935中村が真面目くさった顔をする。
0936「そら、0937何のこっちゃい」と、0938不安になって、0939鬼三郎が聞く。
0940「綾部へ帰ってみちゃったら何もかも分ることや。0941それよりも小松林を改心させて、0942わしらと一緒に綾部へ帰りなはれ」
0943 彼らは口を揃えて小松林を誹謗する。0944人造精乳への珍妙なる誤解はどうにか解いたが、0945近松政吉や妻の自由まで、0946いつの間にやら彼らの側だ。0947久し振りの対面で抱いたなつかしの情も、0948いっぺんに吹きとんだ。
0949 ふくれ返って帰綾を拒む鬼三郎を、0950平蔵がなだめる。
0951「そんならこうしまひょ。0952わしらは九十九まで教祖さんの言うことを聞く。0953あとの一つだけ先生のことを聞く」
0954「いや、0955万に一つも嫌じゃ。0956小松林の言うことなど誰が聞くけい」と、0957中村がむくれた。
0958「お前らがそんな頑固はるなら、0959なに綾部など帰ってやるけい」
0960 捨台詞を残して、0961鬼三郎は近松家をとび出した。
0962 翌朝、0963鬼三郎は、0964技師の山田武寅や販売主任の若林と新計画を打ち合わせていた。0965朝の配達を終わった連中が帰って来て、0966店は活気にあふれる。0967そこへ近松の案内で、0968蓑笠隊の一行が乗りこんできた。
0969 中村がやおら筆先をとり出し、0970独特の節まわしで読み上げる。
0971「この綾部の大本は、0972めぐりの金やら、0973うそ追従(ついしょう)できげんとりに来てくれても、0974お相手にはようならんぞよ。0975いまの世界はめぐりの金ばかり、0976めぐりの金では、0977まことの道の用にはたてられんぞよ。0978まことのものは、0979金に難渋をいたすのざぞよ。0980これからよくわかるぞよ。0981悪の身魂は金に不自由はしておらんなれど、0982悪は長うは続かんぞよ」
0983 一節読んでは演説をぶつ。
0984「なんぼ嘘で固めた世の中と言うても、0985偽物の乳を作って売るなんて、0986あんまりではござらんか。0987ぼろい儲けのつもりか知らんが、0988それは罪障(めぐり)の金。0989三千世界の立替えには、0990なんの護符(まもり)にもなり申さぬ。0991改心いたされよ」
0992 竹原が続ける。
0993「お前らの大将には、0994小松林の悪神が憑いてござる。0995知らずとはいえ使われとるお前らは、0996その眷属として悪のしぐみの型を出しとる。0997けものの骨や肉のソップやて。0998犬に食わすならまだしも、0999けがらわしや、1000大和男子は飲まんぞよ。1001改心なされよ。1002小松林の上田会長を追い出して下されよ」
1003 四方平蔵も若い者に負けてはいられない。
1004「わしらは綾の聖地から、1005上田会長の肉体を連れ戻しに参った者でござる。1006帰なぬというなら、1007帰ぬまでここに寝かせてもらいますわい。1008言い出したら成し遂げる生粋の日本魂でござるぞよ」
1009 近松政吉が禿頭をふり立てながら、1010くどき出した。
1011「皆さん御迷惑さんどす。1012けど役員さんたちの言うてん通りどっせ。1013上田会長は、1014今は情けなや小松林の巣になって悪の御用をしてなはるが、1015いずれは坤の金神のかかる大事な身魂どす。1016こんな偽乳屋の大将で治まっとる安っぽい身魂やおへん。1017ここは皆さんで上田会長に綾部へ帰ぬよう、1018勧めたげとくれやすな」
1019 配達員や苦学生らは、1020あっけにとられて眺めている。
1021 折しも配達から戻った幸吉が、1022ぎょっとして立ちすくんだ。
1023「幸はん、1024や、1025や……何ちゅうかっこうやいな、1026情けない」と、1027村上が、1028幸吉のハイカラな宣伝服を見て、1029悲鳴を上げた。
1030 山田と若林は顔見合わせてにやっとした。1031鬼三郎は気が気でない。1032店の前には人だかりがしてきた。1033癇癪持ちの由松(よしまつ)が配達から帰らぬのが不幸中の幸いだ。1034ごまかしではもう効かなかった。
1035「帰る、1036帰る、1037綾部へ帰るさかい、1038おとなしゅう表で待っとってくれ」
1039「社長はん、1040心配せんとお帰りやす。1041あとはわしらに任しといてもろたら、1042あんばいようしときますわ」
1043 むしろ嬉しそうに、1044山田と若林がすすめた。1045若い社長を押しのけて、1046色気を出したい二人の気持ちは見え見えだ。1047そんならそれでもよいと、1048鬼三郎は思った。1049あわただしく旅支度をしながら、1050心は次の手にとんでいた。