霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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錦の機

インフォメーション
題名:04 錦の機 著者:出口和明
ページ:70 目次メモ:
概要:喜三郎は綾部に帰る。澄と山に芝刈りに行く。世祢が綾部を出て園部に移住。それを送って行った喜三郎は綾部に戻らず京都へ向かう。澄は機織りに励む。喜三郎は京都に向かう途中、八木に立ち寄ると、福島寅之助が百日行の上がりに天に上るとして松の木から飛び上がろうとしていた。喜三郎は肉体のまま上るはずがないと忠告して京都へ向かう。寅之助は喜三郎が来たので仕組みが延びた、と上天を日延べに。しかしいつまでも迎えが来ず、寅之助は悪神に騙されたことに気が付き、4~5年かかって書きためた自分の筆先を全部燃やしてしまう。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-06-23 23:38:50 OBC :B138908c04
0001 蓑笠隊に京都駅から汽車をおごって、0002珍妙な鬼三郎一行は昼過ぎ、0003園部へ着く。0004三年前までは一日行程だったのだ。0005五人の石頭たちに、0006文明のありがたさを認識させたかった。0007しかし園部から夜道かけて一気に綾部まで行くのは気が重い。
0008 彼らを連れて、0009園部上本町の奥村徳次郎の家へ行った。0010気にかかっていた園部の人造精乳事業は順調にのびていて、0011まずは愁眉(しゅうび)をひらいた。
0012 さて、0013自分の根城に引入れたからには、0014四つ足呼ばわりを止めぬこいつらに一泡吹かせねば(しゃく)がおさまらぬ。0015鬼三郎持病のいたずらの虫がぐるぐるうごめいた。
0016 日が落ちて、0017十畳の座敷に膳が並べられる。0018奥村の妻さいが茶碗に赤飯を盛り分け始めた。0019それぞれの前に揚豆腐一皿、0020牛肉の甘煮一皿、0021精乳一瓶。
0022「今日は上田先生の大好物ばかりでっせ」と、0023さいが言った。
0024 悲しいかな、0025肉食を拒む五人衆には、0026牛肉と精乳は神かけてのどへ通せぬ。0027けれど艶のある暖かい赤飯と揚豆腐だけでも、0028粥腹に慣れた彼らには(よだれ)の出そうな御馳走だった。0029どこへ行ったのか、0030鬼三郎が席をはずしたまま戻って来ない。0031のどから手が出そうになりながら、0032先に食うわけにもいかぬ。
0033 じりじりしながら待った。0034と、0035襖の外で異様な唸り声が上がった。0036さいが襖を開けると、0037座敷の真ん中に四つ這いになって這い出た背広の男。
0038 あっと五人は息をのんだ。0039男はくるくると二、0040三べんまわって中村の前に這いより、0041膳に首をつっ込んで、0042むしゃむしゃと赤飯を食い始めた。0043中村が赤飯の皿を守ろうとやっきになる。0044男は揚豆腐をがっとくわえ込み、0045中村を睨んでうなった。
0046 中村は男を指さし、0047物も言えずに震え出す。
0048 平蔵がようやく深い吐息と共に言った。
0049「会長はんや。0050見い、0051会長はんが洋服着て……ああ」
0052 茫然としている五人の膳を、0053次々四つ這い男が食い荒らす。0054やがて満腹したのか、0055ごろんと仰向けに寝ころび、0056飯粒だらけの顔で大口をあけ、0057鼾をかきはじめた。0058息もつかずに見つめていた彼らは、0059ほっとしたように顔を見合わせた。
0060 四方平蔵の目から、0061ほろほろと涙が流れる。
0062「ああ、0063お筆先は争われぬ。0064とうとう会長はんの四つ足の本性があらわれた。0065ありがたい、0066ありがたい……」
0067 鬼三郎が目をきょろつかせ、0068口をぱくぱくさせた。
0069「え、0070何です、0071会長はん」と、0072竹原房太郎が口に耳を寄せる。
0073「タバコ……タバコ……」
0074「煙草を吸いたがってますで。0075どうしましょ」
0076「好きなようにさせなはれ」
0077 平蔵は手放しですすり泣きながら言う。0078そばに火鉢があるにもかかわらず、0079竹原は火打石で煙草に火をつけて、0080鬼三郎の口にくわえさす。
0081「本性をあらわしたのは結構なが、0082どうやってこの四つ足を追い出したらよいのや」
0083 中村が不安げに平蔵をつついた。0084嬉し泣きばかりしておられぬ。0085平蔵があわてて涙を払った。
0086「うーむ、0087それが大問題やて」
0088「わしが鎮魂しちゃるわ。0089いくら先生でも、0090かかってはるのが四つ足なら何とかなる」
0091と、0092審神に自信のある村上が申し出た。
0093 結局、0094それより方法がない。0095井戸端で身を潔めた村上が、0096審神者(さにわ)の座についた。0097木下と竹原が援護のつもりで村上の後に坐る。
0098 やおら鬼三郎は発動して、0099とび上がった。
0100「ひ、0101ひ、0102ひ、0103坤の金神……金神……」
0104「嘘をつけ、0105坤の金神さまが四つ這いで飯を食うか。0106白状せい」
0107「小松林……小松林命であるぞよ」
0108「小松林とは嘘っ八。0109まことは小松林の眷属のこ、0110こ、0111こ、0112こんこん狐であろう。0113この体から出て失せい」と、0114村上が颯爽(さっそう)霊縛(れいばく)の形をとる。
0115「くるしい、0116くるしい……」
0117「ほんまのこと言え」
0118「ほんまは天神山に住む古狸……あずき飯が好物であるぞよ」
0119「よくも長いこと、0120会長の肉体にかかって苦しめくさったな。0121さあ、0122すぐに立ちのけ」
0123「この肉体が好き、0124好き。0125もう二、0126三日、0127別れを惜しませてくれ」
0128「そしたらすぐに出るか」
0129「出る。0130先に綾部に帰ってくれたら、0131きっと四魂揃うた元の上田鬼三郎を返すわい」
0132 村上は、0133流れ落ちる汗をぶるっと振って、0134中村を見た。
0135「それなら『四つ足はもうかからぬ。0136上田鬼三郎の肉体は返上する』と言う、0137詫び証文を書かせろ」
0138「書く書く」と鬼三郎が悲鳴を上げる。
0139 すぐに硯箱が運ばれる。0140竹原が墨をする。0141鬼三郎は筆を口にくわえ、0142四つ這いのまま、0143漢字ばかりを書きつらねた。0144漢文を読める者は誰もいない。
0145「四つ足はやっぱり外国文字書きよるで。0146けど間違いないやろ」
0147「よし、0148以後、0149改心せいよ」と、0150中村が厳かに宣した。
0151 さいは発動が去った鬼三郎の顔や手足を拭い、0152寝巻に着がえさせて、0153甲斐甲斐しく寝床に押しこむ。
0154 彼らは落ち着きをとり戻した。0155食膳はみるかげもなく荒らされていた。0156牛肉と精乳は食い残されているが、0157彼らは食うわけにいかぬ。
0158「いや、0159お気の毒に。0160食べる物のうなったけど、0161どうしましょ。0162乳ならたんとおすけど……」と、0163さいが本当に気の毒そうに言った。
0164「かまわんといとくれなはれ。0165お茶もろたらよろし」と、0166平蔵は手を振った。0167鬼三郎の憑霊を追い出さんために長年苦労を重ねてきたことを思えば、0168一夜の空腹ぐらい物の数ではなかった。
0169「ちょっとまたやり過ぎたわい……」
0170 ふっ、0171ふっと湧き上がる笑いを噛み殺すうち、0172鬼三郎の鼾は本物に移っていった。
0173 畳針を呑んで自殺をはかったことなど誰一人知らぬことながら、0174澄の蘇生の喜びは、0175翌日の夕方も続いていた。0176そこへ園部から蓑笠隊が意気揚々と帰って来た。0177世間の空気に触れて心ならずも穢れた身魂を清めようと、0178井戸端で裸の五人男が禊する。
0179 着物をつける間も惜しそうに、0180木下慶太郎が若々しい声を張り上げた。
0181「お澄さん、0182喜んどくなはれ。0183先生は二、0184三日で帰って来てですで」
0185「小松林の悪神を、0186詫び証文とって追放しましたで」と、0187村上も負けずに叫ぶ。
0188 五人の夕食を整えていた澄が、0189井戸端へ驚いた顔を出した。
0190「先生が……ほんまに詫び証文を……」
0191 中村が重々しくうなずく。
0192「ほんまや。0193お澄さん、0194もうすぐ坤の金神さまのかかりなさる日本魂の先生になって、0195綾の高天原に帰って来てですで」
0196 四方平蔵が、0197振り分け荷物の中から油紙に包んだ詫び証文をとり出して、0198頭上にかざす。0199直しても直しても笑み崩れる顔。
0200「これこれ、0201これやで詫び証文は。0202ようようわしらの誠が通ったんじゃな」
0203「わしの審神(さにわ)や、0204お澄さん。0205わしの審神で、0206小松林が四つん這いになりよった。0207きりきり舞いして詫びよった」と、0208鬼の首を竹ベラででもこそげ取った顔つきで、0209村上房太郎が自分の鼻をさし示す。
0210「慢心は大けがの元と言うてあろうがな。0211また牛人の金神がついて涎くらんなんでよ。0212『神も時節にはかなわんぞよ』……その時世(ときよ)時節(じせつ)がめぐって来たんや」と、0213中村がたしなめた。
0214「中村はん、0215その詫び証文には、0216なんて書いたりますんや」と気遣わしげにのり出す澄に、0217平蔵が言った。
0218「やっぱり身魂は争われんもんだっしゃないか。0219外国身魂の小松林やさかい、0220なんと漢字ばかりで書くのやで」
0221「それで……」と、0222澄は追求したがる。
0223 中村がぶすっと言った。
0224「外国文字など目が汚れるさかい、0225よう読まん。0226でも読まんかて分かっとるでよ。0227つまり……『もう二度と先生の体にはかからん。0228先生の体を空にして綾部に返しますゆえ、0229どうか許してくれ』ちゅうようなことや」
0230 そんなはずはない。0231この五人が束になっても逃げ出すようなちょろこい小松林やない。0232漢字が読めんもんやさかい、0233中村はん、0234痩せ我慢はって……しかし、0235もしほんまなら……と、0236一分の期待が澄にもあった。
0237「さあ、0238早う神さまにお礼して、0239教祖さまに御報告しよかいな」と竹原がうながして、0240五人は浮き浮きと二階へ上がる。0241遅い夕食をすます頃、0242東四辻からつめかけた人々を前に、0243またひとくさり身振り手振りで村上房之助小松林攻略の自慢話が披露された。
0244 夜もふけてから、0245詫び証文解読のために外出していた四方と中村が、0246むずかしい顔つきで帰ってきた。
0247「小松林いう奴はどえらい悪たれ神や。0248まただまされましたわな」と、0249口をきくのも嫌というふうに平蔵がふさぎ込んだ。
0250「それで……何でしたんや、0251その証文は」
0252 澄の催促に、0253仕方なく中村が吐き出した。
0254「詫び証文どころか、0255あんたはん、0256よいころかげんなわしらの悪口ですわな。0257まあ読んどくれ。0258間違わんように、0259野崎はんに仮名で書き直してもろて来たんじゃ」
0260 木下慶太郎が受けとって、0261急いで読み上げる。
0262「五ひきのみのむし、0263まがつ神にだまされてなおひのみたまをうばわれ、0264たてかえのときには手もあしも出んことになるぞよ。0265いまのうちにかいしんして、0266おにさぶろうのもおすことにふくじゅうせよ。0267さもなくば、0268小松林もにくたいも綾部にはもどさんぞよ」
0269 一座はしんとなった。0270澄の心は騒がなかった。0271ふき出したいのをこらえて、0272わざと腹立たしげに言った。
0273「ほんまになんちゅうやんちゃな先生やろ。0274五人もの男はんにこれだけ苦労かけさしといて、0275あんまりや。0276綾部に帰らんなら、0277帰らんでよし。0278もうほかしといておくれなはれ」
0279 言っているそばから、0280恋しさがつのった。0281園部までは帰っとるのや。0282会いに行こう、0283朝野を負うてと、0284とび立つように澄は思った。
0285 綾部の松は緑が違う。0286空気の匂いも違う。
0287 半年ぶりで並松の河畔に立って、0288鬼三郎はそう思った。0289松ばかりではない。0290草も、0291木も、0292風も、0293光も、0294小石も特別の肌ざわりなのだ。
0295 虐待に耐えかねて飛び出してはみたものの、0296都会の煙に濁った空気には、0297自然の霊光の影もない。0298思えば、0299いまはもう生まれ故郷の穴太以上に、0300綾部は懐かしい魂の故郷であった。
0301「なんでやろ。0302顔も見とうない苦々しい奴らとの思い出ばかりやんか」と、0303そう水を差してみる。0304それでも綾部への魅力は減りはしない。
0305 宮参りの時いらい見ぬ朝野。0306園部、0307京都、0308大阪と目まぐるしく動きながら、0309瞼にはいつも朝野の成長を負い続けていた。0310想像上の朝野は、0311八ヶ月という実際の年令のわくを越え、0312這い、0313立ち、0314歩み、0315「父ちゃん」とすがりつく愛娘に育っていた。0316けれどその朝野の目鼻立ちは、0317どうあっても思い出せぬ。0318無理にも引き寄せようとすると、0319それは妻澄の黒い瞳、0320ふっくらと赤い唇に代わった。
0321 歩けば五分とかからぬ近くに来ていながら、0322真直ぐ龍門館へは行きにくかった。0323由良川のよどみに映る自分の姿を眺めて、0324さっきから行きつ、0325戻りつである。
0326 はるばると京都まで迎えに来てくれた五人の役員たちを、0327からかって追い返した。0328「綾部になど帰らぬわい」と、0329わざわざ証文まで書いて持たしてやったのだ。0330それは昨日。0331まだ墨も乾かぬその後で、0332のこのこ帰っていくバツの悪さ。
0333 蓑笠隊が園部を発つ時、0334村上房之助がふんぞり返って審神の姿勢をし、0335こうぬかしたものだ。
0336「これ、0337天神山の古狸、0338ほんまに二、0339三日したら、0340先生の肉体を綾部へ戻せよ。0341もし約束を破ってみい。0342昨日みたいに霊縛にかけて七転八倒させちゃる。0343いくら謝っても許さんでよ」
0344()ぬなと言うても、0345ここまで来たら明日にも帰ぬわい。0346お前らへの義理ではないぞ。0347可愛い妻子に魅かされて……じゃわい」と、0348そう言いたいのをこらえるのはつらかった。0349十本の足をそろえて躍るように綾部へと向かう奴らが羨ましかった。
0350 ――これでも一夜はがまんして園部に寝たんやぞ、0351お澄。0352半年ぶりで逢うというのに、0353奴らに首に縄つけられ、0354引きずられて帰ねるわしやと思うかい。0355わしは自分の足で帰んだる。0356颯爽とな。
0357 そう心に叫びつつ、0358また鬼三郎はよどみをのぞく。0359蝶ネクタイに何度目かの手をやる。0360由良川の水鏡にゆれ動く自分の洋服姿に、0361もう一つ不安があるのだ。
0362 生地は最高、0363仕立も最高。0364着手ときたらまさに抜群のよい男や。0365現代の先端を行く紳士として、0366大阪砲兵工廠の三千の聴衆を前に大獅子吼(ししく)0367日ならずして敵さんを帰順せしめた時に着ていたのやで。
0368 その後、0369思い切って冬用のインバネスまで新調した。
0370「この男振りを見たら、0371澄かて見直しよるわい。0372きっとやわい」とつぶやいてみる。0373すすきの穂を折って、0374胸ポケットにかざしたり捨てたり。
0375「何でやろ。0376大阪では堂々と胸を張って濶歩(かっぽ)したのに。0377自信は十分、0378おつりがくるほどやのに、0379女房に見せようと思うだけで足ががくがくする」
0380 またぞろ役員たちが「四つ足身魂」と騒ぎ立てることは知れていた。0381そんなことはどうでもよかった。0382またなんぼでも、0383ごまかす手はある。0384問題は、0385澄に会った時の自分の態度だ。0386初恋の時のように胸がときめく。
0387 気を落ちつけようと、0388娘への初めての贈物にさんざん迷いぬいて買ってきたキューピィの箱のリボンを結び直した。0389妙に歩き方がぎくしゃくするのは、0390靴ずれのせいである。
0391 並松の角を曲がると、0392塩見せいに出くわした。
0393「よう……」
0394 気どって手を上げてやると、0395せいはぽかんと見送った。
0396 龍門館の門口に立った時、0397二階から降りてくる澄の目とぶつかった。0398鬼三郎は照れかくしに挙手の礼をする。0399つい溝口中佐の真似が出たのだ。
0400 どうしたのか、0401妻は押しだまったまま、0402階段の途中にひっかかり、0403顔をおおった。0404しなやかな体が痙攣している。
0405 鬼三郎はあわてた。0406澄が泣き出すなど、0407一度も計算に入れなかったのだ。0408そうやろ、0409無理もない、0410無理もない。0411無理解な役員信者たちの中に残された妻の半年もの苦労は、0412口では尽くせまい。0413お澄、0414泣くほどわしが恋しかったのか。
0415 鬼三郎は靴を脱ぎ捨てた。0416抱きかかえようとする夫の手を振り払って、0417澄は身をよじる。0418涙をこぼしながら、0419苦しげに妻は笑っているのだ。0420笑い声を聞かせまいとしてこらえるのにも、0421限度がある。0422とうとう手のつけられぬ高笑いとなってしまった。
0423「澄、0424どないしたんや。0425何がおかしい」
0426「あんまり笑わさんとくれなはれ。0427そんな妙ちくりんな恰好で、0428かわいそうに……乳屋のちんどん屋しとっちゃったんですかいな」
0429「なんかしてけつかる。0430澄、0431落ちついてくれや。0432これはのう、0433お前は見たこともないやろが、0434インバネスいうて外套や。0435この下の服が背広いうてのう、0436上着とチョッキとズボンで三つ揃いや。0437都会のハイカラな紳士の服装や。0438こら、0439ちゃんと観賞せんかい。0440よう似合うやろが……」
0441「洋服ぐらい知ってますわな。0442王子にいた頃、0443老の坂のトンネルのねきの茶屋にいろんな異人さんが遊びに来ちゃって、0444うちら、0445子をおうてしょっちゅう見に行ったもんですわな。0446足の長い異人さんが着ちゃったら、0447そら恰好よろしが……先生が着ちゃったら……」
0448「わしが着たら何や」
0449「福蛙に袋かぶせたら、0450そんなんになりますやろ……」
0451 澄は奥の間に逃げ込んで笑い伏した。
0452「うーむ。0453さよか……」
0454 鬼三郎は真っ赤になった。0455何かに似ているとは思っていたのだ。0456そう言われれば、0457そう見えんこともない。0458いや、0459由良川の土手から水鏡を見たとき、0460一度は蛙を思い出しかけた。0461心の隅にひっかかってはいたんや。
0462 鉄面皮(てつめんぴ)と思えば羞恥心の強いのも人一倍。0463急いでインバネスのボタンをはずしかけているところへ、0464「あ、0465いた、0466いた……」と、0467中村を先頭に東四辻の住人五、0468六人が駆けつけてきた。0469塩見せいの注進であろう。
0470「小松林の四つ足め、0471覚悟せいよ」
0472 あっという間に、0473鬼三郎にむしゃぶりつく。
0474「おう、0475どうなっと剥いてくれい」
0476 鬼三郎は仁王立ちになって、0477彼らの気のすむままにさせた。0478たちまち越中褌一つの鬼三郎に早変わりする。
0479「会長はん、0480越中でよろしおしたな。0481西洋褌やったら、0482丸裸にされるとこどしたで」と、0483田中善吉がささやく。
0484 澄がいそいそと着物を持ってきて、0485帯をしめてくれた。
0486 彼らに引っぱられて、0487鬼三郎は二階の神前へ上がった。0488天津祝詞を奏上すると、0489自分を取戻したように、0490ほっと楽になった。
0491 昨日、0492園部で別れたばかりの五人男が恐い顔で居並んでいる。0493村上房之助がうらめしげになじった。
0494「会長はん、0495昨日はようもわしらを騙してくれなはったが、0496この神さんのお膝元ではそうはいきまへんで」
0497「今日こそ、0498あの化けもんの外国身魂の洋服をすっくり立替えさしてもろたさかい、0499ちっとは目がさめちゃったやろなあ。0500気分はどうどす」と、0501竹原が試すようにのぞき込む。
0502「裸にされりゃ、0503寒うて目もさめるわい。0504けど、0505赤飯なら、0506また食うてやってもよいぞ」
0507 まだまだや、0508まだ改心できんと言うふうに、0509中村竹吉は首を振った。
0510「艮の金神さまにさかろうて、0511四つ足身魂がどのい目的立てても、0512成功するわけないわいや。0513小松林を思い切り、0514三千世界の親神さまにもたれて御用をなされ」
0515「お前らに神界の経綸(しぐみ)が分かるかい、0516現代人が眉をひそめんなんようなお前らのやり方で、0517世間さまがついてくるとでも思うとるのかい」
0518 四方平蔵が、0519激しく言った。
0520「ついてこんのは世間が間違うとるからでござる。0521間違うた世間にへつろうて、0522『世間さま』ちゅうて尾をふりよるのが、0523小松林のハイカラ神のやり方や。0524艮の金神さまは、0525その世間をすっくり立替えて、0526昔の神代になさる経綸じゃ。0527先生が一日も早く改心なさらねば、0528三千世界が潰れますぞよ。0529さあ、0530すぐに教祖様にお詫びしなされ」
0531 渡り廊下にかかると、0532男たちはいっせいに足音をひそめ、0533猫のように別荘の入り口に膝をつく。
0534 ふくれた顔で入ってきた鬼三郎を見て、0535直は笑い出した。0536銀髪はしばらく見ぬ間に、0537一層輝きを増したようだ。0538笑みを含んだまろやかな声で、0539直は迎えた。
0540「よう帰ってくれなさりました。0541ご苦労さんでございます。0542神さまの言いつけですさかい、0543先生、0544しばらく綾部で辛抱しておくれなされや」
0545 不意に泣き出したい衝動に耐えて、0546鬼三郎はうつむいた。0547澄や朝野だけなら、0548連れ出して役員信者たちの手の届かぬ所へ逃げ出せもしよう。0549だが、0550反撥し、0551争い、0552傷つきながら、0553鬼三郎の根をしっかり綾部につなぎ止めて動かさぬのは、0554この顔、0555この声から溢れ出る憎いばかりの魅力なのだ。
0556 ――けど、0557この人の傍にいたら、0558わしまで爪をぬかれた猫にされちまう。
0559 ふくれた顔のまま、0560鬼三郎は退出した。
0561 朝野を中にして、0562川の字に寝た。0563隣の四畳半には後野市太郎と木下慶太郎が寝ている。0564さっきまで御幣(ごへい)を手に持って部屋の前に立っていたのだ。0565今夜から二人づつ、0566いつも小松林の張り番がつくらしい。
0567「そうや、0568先生に謝らんなんことがあったんや」と、0569澄が起き直った。
0570「なんじゃい」
0571「この頃は先生にしたらたいしたことやないかも知らんと思えてきましたんやけど、0572うち、0573死ぬほど心配しましたで。0574綾部の立替えの型や言うて、0575先生がいろいろ書いちゃった物、0576えっとありましたやろ。0577あれ、0578ぜーんぶ燃やしました。0579押入れ見ちゃったら分かります。0580さっぱり空ですわな」
0581「たいしたことやない、0582やと……澄……」
0583 鬼三郎はとび起きて、0584押入れをあけた。
0585「その代わり先生、0586神という字は切り抜いて、0587みかん箱に四杯分も大事にとってありますわな。0588役員さんが、0589掛軸まで集めてきちゃって、0590何ヵ月もかかって切り抜いたんですわな」
0591 押入れの上段に乗ると、0592鬼三郎は天井に首を突っこんだ。
0593「そんなとこのぞいても、0594手おくれやで。0595そこの書き物はうちが探し出して、0596後はきれいに掃除しときましたで……」
0597 手も足も力を失って、0598鬼三郎は押入れから滑り落ち、0599へなへなと坐りこんだ。0600高熊山を下りて以来、0601五年がかりで書きためた五百六十余冊。
0602「どうせ燃やされるんなら、0603あんなに苦労して、0604夜も寝んと書いて阿呆らしおしたなあ」
0605 これが死ぬほど心配したという妻の言い草か。0606腹中が煮えくりかえるばかり熱してきて、0607ぎ、0608ぎぎいと髪の毛が逆立つ予感がした。
0609 ――怒れ、0610小松林。
0611 気が遠くなる思いで、0612鬼三郎が絶叫した。0613澄がとびついてきた。0614跳ね上がろうとする夫の足にからみついて引き倒し、0615澄は馬乗りになった。
0616「止めなはれ。0617朝野が起きますわな」
0618 ――畜生、0619うーむ。
0620 鬼三郎は力んだ。0621口惜しさに男泣きしながら起きようとするが、0622背に乗った小柄な澄が磐石(ばんじゃく)のように重くて動けぬ。
0623 すーと下腹の力が抜け、0624代わりに、0625ふっふっと腹が波打った。0626それは笑いの泡となって、0627口の中から転がり出る。0628小松林命の託宣だ。
0629「ははは……参る奴があるかい。0630焼かれたら、0631また書けばよいわい。0632何べんでも書く。0633書き残す。0634ちょろこいことじゃ」
0635「勝手なこと言うてや。0636わしの苦労を、0637肉体を持たん小松林が知るもんか」と、0638鬼三郎は腹立たしい。0639笑いがまたはじけてきた。
0640「お前が書いたと思うから腹が立つ。0641書き直してやるのも、0642わしじゃよ」
0643 鬼三郎は首うなだれた。0644怒りが波をひくように静まっていた。
0645 小松林の託宣を聞いていた澄が、0646のんびりという。
0647「ほんまどすなあ。0648またひまができたら、0649なんぼでも書いちゃったらよろしいわな。0650先生、0651何しとってんですいな。0652もう寝まひょかいな」
0653 やがて耳元で、0654澄のあくびをかみ殺す音がした。
0655 明け方、0656(かわや)へ立った。0657枕を蹴っとばしてやっても目ざめぬぐらい、0658木下も後野も眠りこけている。
0659 お釣をさけるために尻を振らねばならぬほどいつもは水っぽい厠なのに、0660なぜか真綿の上に落としたように手応えはなかった。0661妙な……と思って、0662壺の中をのぞきこんだ。0663夜明けの薄明りだが、0664夜目の効く鬼三郎は、0665浮いている肌色の丸みを見とめて、0666ぎょっとした。0667赤ん坊かと錯覚したのだ。0668だがよく見ると、0669朝野の土産に持ち帰ったキューピィ人形だ。
0670 ……そうか。0671キューピィを出して見せた時、0672朝野はむつかしい顔で睨んどったが、0673さては奴らが早速とり上げて、0674立替えをやらかしおったな。0675ローマの愛の神キューピットやというこの人形、0676西洋の産にはちがいない。0677だが、0678あの真綿の感覚は……。0679ああ、0680やりやがった。
0681 はだしで外に出て、0682庭先の物干竿をとると、0683汲取口を開けた。0684竿の先にひっかけて息をつめる。0685インバネス、0686背広、0687ズボン、0688チョッキ、0689靴下、0690ネクタイ、0691シャツ……靴は底に沈んでか見えぬ。
0692 拾い上げたずっしり重い廃棄物を、0693取りこみ忘れた朝野のおむつ何枚かで包み、0694それを抱えて由良川へ走る。0695凍りつきそうな浅い流れに投げ込み、0696ええい、0697くそと足で踏んだ。0698幾度も返しては、0699踏み洗った。
0700 川底にひたして重石をし、0701ひとまず帰ることにした。0702一週間もさらせば臭気は抜けるだろうか。
0703「お澄や、0704柴刈りに行こけい」と、0705目覚めの床で鬼三郎が誘った。
0706「行きまひょ」と澄が元気よくはね起きる。
0707 手早く朝の片付けをすまし、0708貧しい弁当をつくる。0709他の人たちの昼食の支度は四方与平の妻とみに頼んだ。
0710 澄が朝野をおんぶして表に出ると、0711頬かむりの鬼三郎が荷車を引いて目立たぬように待っている。0712せっかくの夫婦水入らずに、0713二人の見張りがついてきたんでは、0714さっぱりだ。0715連れ立って、0716逃げるように朝露にぬれた野路を行く。
0717 須知山の下の新道に荷車を置き、0718その蔭に木枯しをさけ、0719むしろを敷いて、0720ねんねこにくるんだ朝野を寝かせた。
0721 陽ざしがまぶしくて顔をしかめる朝野。0722鬼三郎がおしめをひろげて車の柄に掛け、0723陽ざしをさえぎってやる。
0724 朝野が安らかな寝息を立て始めるのを待って、0725夫妻は山に入った。
0726「おい、0727昼までにどれだけ刈るか、0728わしと腕比べする自信あるけ」
0729「へえ、0730うちは七つ八つから柴刈りして、0731『十五、0732六の子の働きする』言われたぐらいですさかい、0733めったに負けしまへんで」
0734「よーし、0735女房に負けたとあっては男の名が立たん。0736朝野、0737よう見とれよ」
0738 調子に乗って鬼三郎が雑木を刈りだす。0739澄も鎌をふるって、0740ざっざっとなぎ倒していく。0741他には人気のない晩秋の奥山に紅葉が乱れ散った。
0742 麦藁帽子の同じうず巻きばかりと取り組む指先のこまかい内職仕事に、0743澄は疲れ切っていたのだ。0744久しぶりに男八兵衛の昔にかえった。0745西田元吉の手になる鎌の切れ味も胸がすく。0746思うさま自然の中に力を尽くし、0747体を動かす楽しさに、0748数時間、0749澄は没頭した。
0750「ほーい、0751止めえ。0752お日さん、0753頭のてっぺんやでえ」
0754「はーい、0755何ぼできちゃったあ」
0756「まず見てくれやーい」
0757 声だけ聞こえて、0758姿は見えぬ。0759澄はくすりと笑った。0760日頃、0761蒲団かぶって何やら書き物に熱中したり、0762四角い字ばかり読んでいる男だ。0763今のうち威張っとってやけど、0764あとでしょんぼりしてん気の毒やなあと、0765澄は思う。0766目で数えただけでも、0767澄の柴は十束を越えているのだ。
0768 荷車の脇をのぞいて朝野の寝息を確かめてから夫の傍へ行き、0769あっと澄は目をみはった。0770そこら一面、0771赤土の山肌がむき出るばかりに刈り込まれ、0772広々と空が開けているではないか。
0773 斜面の真中にぽつんと一つ刈り残された緑の木。0774その木の下に、0775鬼三郎は寝ころんでいた。
0776「お澄、0777山茶花(さざんか)やぞ」
0778 厚い緑の葉の中にかすかな紅をときまぜた白い花びら。0779葉を枯らした雑木林の中に、0780人知れずひらく花のいとおしさが、0781また夫の心をとりこにしたらしい。
0782「まわりみんな伐ってしもたさけ、0783この山茶花、0784なんやここに残しとくの、0785かなんなあ」
0786「ほんまに淋しそうどすなあ。0787けど、0788やっぱり山の木は育ったところが好きなんと違うやろか」
0789 それとなく澄は牽制する。
0790「うーん、0791中村が……あいつ、0792気違いやさけ、0793庭に植えたらまた引き抜きくさるやろのう」
0794 庭に好きな草花さえ植えられぬ夫が気の毒。0795澄はわざと明るい声で話をそらした。
0796「けど先生、0797どえらい刈り方や。0798これみんな一人でしちゃったん」
0799「あたり前や、0800他に誰がいるかい」
0801 空地の片隅にきちんと積み上げた柴は、0802およそ三十束はありそうだ。0803慣れた山男でも、0804一日二十束で一人前という。0805昼前に一日半分の仕事を片付けるなど。
0806 澄は嘆息した。
0807「先生はやっぱり普通やないなあ。0808平蔵はんや中村はんらが見ちゃったら、0809天狗か山の神さんが憑いて手伝うとるとまた騒いでやで」
0810「こらえてくれや。0811狸がついとるいうて、0812高熊山から下りた時も、0813わしは穴太であやうくいぶり殺されるとこやったぞ」
0814 鬼三郎が谷川に下りて水を汲んできた。0815山茶花の下で澄は弁当を広げ、0816朝野に乳を含ませた。0817お粥ばかりでは握り飯一つつくれなかった。0818皮ごとゆでたじゃがいもとかぼちゃの煮付けだけ。0819それを頬ばりながら、0820おいしいと思った。0821夫婦でこんなに心和やかにより添った時があったろうか。
0822「先生は、0823柴刈りだけしとっても食うていける人どすなあ」
0824 澄は新しい尊敬の念をこめて言った。
0825「そらそうや。0826お前と一緒に山男でもして一生暮らせたら、0827どんなに気楽やろのう」
0828「ほんまに、0829気楽でよいでっしゃろなあ」
0830雑魚(じゃこ)とりでも、0831わしは食うていけるぞ。0832何でわしは、0833神さん商売なんぞ始めんなんのやろ」
0834辛気(しんき)なこってすわな」
0835 二人は深い吐息をする。
0836「のう、0837お澄、0838わしの作った童話でも聞かせたろか」
0839「へえ、0840おおきに」と、0841澄が嬉しげにうなずいた。
0842 どういうものか、0843ある日、0844アンコウが細いレーダーをなびかせ、0845ちかちかと発光しながら、0846あるか無しかの目を閉じ、0847重たい口を開いて宣言した。
0848「海が陸になり、0849陸が海となるぞ。0850魚族(うろくず)は三分となるぞ。0851わしは神の声を聞いたのだ」
0852 鋭敏な長いしっぽを振りまわし、0853ぎょろ目の脇についた小耳をぴんと張った糸まきエイが同調する。
0854「わしも確かに聞いたぞ。0855この両耳としっぽで聞いたぞ。0856神さまは間違いないといわれた。0857海底の徹底的大掃除、0858大洗濯が始まるぞ。0859見ろ、0860汚物がどんどん海底に沈んできよる」
0861「そら大変だ。0862みんなに知らせんとえらいことになる。0863このままだと、0864我々が棲めんほど海は汚れちまうんだ。0865おーい。0866みんな神の声を聞け」と、0867旗立てタイの一群が必死で触れまわる。
0868「海はこんなに汚れてしまった。0869大腸菌がうようよしている。0870もっともっと汚れるぞ。0871今にはらわたまで腐ってしまうぞ。0872みんな清らかな住み家を探そう。0873遊び戯れている時ではないぞ」と、0874旗立てタイどもは熱誠こめて仲間たちに誘いかける。
0875 他の魚族は嗤った。
0876「なに、0877これぐらい汚れている方が住み良いわい。0878海底大異変などあるもんか。0879わしはわし、0880この刹那、0881うまいもんたらふく食って女のあとを追いかけまわしていりゃ、0882けっこう楽しいやんか」
0883 アンコウのレーダーは、0884海底大異変の時でもここだけは安全と信じる場所を、0885ついにとらえた。0886ある大岩の窪みの水たまりである。
0887 海底大異変を信ずる彼らは一団となり、0888高波に乗って、0889そこに移住した。
0890 覚悟の上だが、0891そこでの生活は苦しかった。0892水は澄み切っていたが、0893自由にのびのび泳ぐこともならず、0894食物もごく少なく貧しかった。0895けれど後悔しない。0896神さまはやがて、0897選ばれた我らに清らかな大海をとり戻して下さる。
0898 だが思いやりの深い彼らは、0899海の仲間を案じ呼びかけた。
0900「改心して早くここへ来い」
0901 半信半疑で、0902高波に乗って出入りする連中も初めはあった。0903しかしそれも絶えた。0904待っても待っても、0905大異変の兆しがないからだ。
0906 タツノオトシゴが丸めたしっぽをひょいひょいとのばして海面近く浮き上がり、0907胸をそらし、0908口をいっそうとんがらせて空を見上げた。0909何の変哲もない、0910ただの空と汚物の海。0911どうやら大海では、0912他の魚族たちが、0913濁った水の中で、0914おもしろおかしく暮らしているらしい。
0915「わしは、0916奴らを改心させて連れてこよう。0917ここでじっと異変を待つのはごめんだ」と、0918まだ若い糸まきエイが主張した。
0919「いや、0920ここで待とう、0921わしらの汚れたはらわたが清まるまで。0922神さまはそれを待っとってや」
0923 アンコウがその意見に反対する。
0924 口論の末、0925エイが不思議な小耳を張り、0926黒いマントの裾をひるがえして、0927大海へとび出した。0928旗立てタイがただ一匹ついて行った。
0929 窪みの中の小魚たちは、0930あせった。0931今さら恥ずかしくて海に戻れぬ。0932それに長く海から離れているので、0933戻るのは不安であった。
0934「神さま、0935早く大異変を起こしてください。0936そして澄みきった海を私たち生き残りの魚に返して下さい」と、0937今も小魚たちは祈り続ける。
0938「どうや、0939おもろかったか」と、0940鬼三郎は澄の顔を見る。
0941「それでしまいですかいな」
0942「そうや、0943これでしまいや」
0944「大異変が起こるのか起こらんのか、0945どっちじゃいな」
0946 どうやら澄は、0947この寓話(ぐうわ)が大本内部を諷刺(ふうし)していることに気がついていないらしい。0948鬼三郎は唄うように呟いた。
0949「起きて半畳、0950寝て一畳、0951なんぼ食っても腹一杯しか食えやせん。0952あーあ、0953出たろか出たろか」
0954「どこへです」
0955「綾部の外や。0956気ままで広い世間や」
0957「先生は男やもんなあ。0958役員さんらにいじめられて、0959辛抱することありまへん。0960好きなようにしちゃったら……」
0961「朝野をほかしといてか」
0962「どこへ行っちゃっても、0963やっぱり帰って来てやわいな。0964先生、0965淋しがりやもん」
0966 鬼三郎は、0967満腹した朝野を抱きとって、0968山茶花の花びらに小さな鼻を押しつけた。0969朝野は小さなこぶしを開いて、0970無心に花首をむしり取った。
0971「わ、0972無茶しよる。0973わしが傍におらんさけ、0974中村の奴に似てきよったわい」
0975 花びらを口に持っていく朝野の手をおさえて、0976澄が言った。
0977「父さんの顔、0978覚える間もないもんなあ、0979朝野」
0980「ほんまや、0981ほんまや。0982すまん。0983わるい父親やのう」と、0984鬼三郎は妻の膝に頭をのせ、0985遠い空に目を細める。
0986「わしが見とんのは足元やない。0987ずっと遠くや。0988お澄、0989未来やで……」
0990「わかってますわな」
0991 澄は、0992それを、0993素直に心をこめて言えたと思った。
0994 世祢(よね)の綾部退去の決意は強かった。0995西田元吉と相談して、0996鬼三郎は手紙で弟の小竹政一と交渉したあげく、0997園部に移住させることにした。
0998 直が許し、0999役員たちも納得した。
1000 鬼三郎は、1001世祢と君を連れて園部へ向かった。1002世祢から直へ「無事に園部に落ち着いた」との礼状が届いたが、1003綾部へ向かって帰ったという鬼三郎は、1004一向に龍門館にあらわれぬ。
1005 澄はおかしかった。1006(おり)に戻ってくる野獣などあらへん。1007好きなようにしちゃったらよいのや。1008阿呆なことして帰ってくる度に、1009どこかしらふくらみができ、1010ぐんと背丈ののびた感じが分かる。1011帰るところは、1012ここしかないのや。
1013 畳針をのんでから、1014澄は自分の変わりように気づいていた。1015生きるも死ぬも神にまかせた、1016あの時の覚悟が染みついたのか。
1017「あんな阿呆な勝負ごとに、1018取り返しのつかぬ時間潰して」
1019 それが口癖の夫の心も分かってきて、1020澄には北西町への魅力も色あせていた。
1021 朝野を負うて青野の工場へ通う道筋で、1022澄は忘れかけていた音を聞いた。1023いや、1024決して忘れてはいない。1025生まれた時から体に脈打っていた音なのかも知れない。
1026 カラートントン、1027カラートントン……トンカラリン、1028トンカラリン……。
1029 澄は走り出していた。1030東四辻に行くと、1031くもの巣だらけの物置を開け、1032忘れられている古い織機(おりき)をなでる。
1033「祐助はん、1034この(はた)1035誰のもんや」と、1036四方祐助に聞いた。
1037「さあて、1038昔からここに押し込んどったもんらしいでよ」
1039「うち、1040使うてもかまへんやろか」
1041「へえへ、1042捨てられとるもん拾い上げて世に出すのんが、1043大本の教えでっしゃろ。1044お澄さんが使うてくれちゃったら、1045三千世界の宝もんになりますわい」
1046 その日のうちに四方祐助は織機を龍門館へ運び入れた。1047くもの巣は払い去られ清められて、1048なめらかな木肌を見せ、1049階段の下の暗い三畳に据えられる。1050古いながら、1051がっちりした骨組である。
1052 思い切って明日を考えず、1053澄はあるだけの金をはたいて経糸を買った。1054緯糸を買う金などない。1055四方与平の妻とみに頼み、1056経糸を張ってもらった。1057あとは、1058十五歳の頃に私市の奉公先で織った経験で、1059なんとか一人でやれそうだ。1060しかし気は(はや)っても、1061機は経ばかりでは死んだも同然。1062トン、1063カラリと左右にすべり、1064自在に織りなしていく緯糸がなければならぬ。
1065 考えあぐねて数日がたった。
1066 ある夜、1067押入れの奥をかきまわすと、1068古い麻の(かみしも)がみつかった。1069ところどころ虫が喰い破った廃物である。1070澄はランプの灯影に引き寄せて、1071その裃をほぐしていった。1072昼は縁先の陽だまりで、1073背中の朝野に子守唄を唄いつつ。
1074 それは根気のいる仕事であった。1075ほどいた糸は、1076どんな短いのもつないでつないで長くした。1077糸玉はつぶつぶの節だらけながら、1078次第に大きくふくらんで、1079いくつかの毬になった。
1080 トントンカラリン、1081トンカラリン。
1082 龍門館から冴えた機の音が上がったのは、1083すっかり葉の落ちた梢に取りおくれた柿が二つ三つ揺れる冬の初めであった。1084澄は夢中、1085憑かれたように朝も夜も織り上げる。
1086「大望なこと始めたのう。1087お澄や、1088お前はなんでもないことをしとるようなが、1089破れたこの世の裃をほどいてつなぎ合わせ、1090上と下、1091経と緯にしくんで織り直すとは……世のつくね直しの型を澄にさせると神さまは言いなさる。1092大本は経緯の機のしぐみや。1093末で錦の機を織らんならんのが、1094澄の御用やでなあ……」
1095 母直の言葉が、1096カマチを打つ音、1097ヒのすべる音の中に滲んでいく。1098いつか夫の言葉も。
1099 ――わしが見とんのは足元やない。1100ずっと遠くや。1101お澄、1102未来やで……未来やで。
1103 残秋の朝、1104乳色の川霧が、1105八木の山々を深く閉ざしていた。
1106「ごつう苦労かけたけど、1107やっと大望の時が近づいた。1108いよいよお別れやのう」
1109 福島寅之助は控えている妻久に頭を下げた。
1110「本当の苦労はこれからですわな。1111でもあんたなら、1112きっとやり遂げてじゃろ。1113どうぞ機嫌よう上天しなはれ。1114あんたが天で行をしてん間、1115うちは子供を育てながら、1116いつまでもお帰りを待ってますえ。1117見事に行を果し終えちゃって、1118教祖さまに早う安心してもろておくれなはれ」
1119 久は心の底から言い、1120惚れ惚れと夫を見上げた。1121夫がこれほど神々しく見えたことは、1122ついぞなかった。
1123「さあ、1124水盃を……」
1125 夫に促されて、1126久はいそいそと徳利を取上げた。
1127 寅天堰(とらてんいね)の茶店跡を二本の鉄道が貫いている。1128上田鬼三郎は無人の踏切を越え、1129小笹のおい茂る野路に分け入った。
1130 下山の切り立つ崖ぎわに茶店を売って立ち退いた福島寅之助の家がある。1131玄関に入ると、1132二人の小さい娘が押し並んで坐っていた。
1133「どうしたんや。1134父さんはおってかい」
1135 鬼三郎の言葉に、1136下の娘七歳のこうが生真面目に答えた。
1137「今はおってやけど、1138もうじき天へ昇らはる」
1139「天へ……」
1140 鬼三郎の声が思わず高くなった。1141二人の娘はこっくりし、1142十一歳の姉いとが誇らしげに言う。
1143「母さんとのお別れがすんだら、1144うちら、1145父さんの帰りをおとなしゅう待っとるのやで」
1146 幾度も言い聞かされたのだろう、1147妹が姉の言葉にまたこっくりする。1148痛々しく痩せた頬に、1149目ばかり大きい。
1150 襖を開けて顔を出した久が、1151鬼三郎を見て思わず舌打ちした。
1152「あれ、1153今頃こんな所へなしたことだっしゃいな。1154この大切な時に、1155世継の婿が綾の高天原を離れるなんど……」
1156 威丈高(いたけだが)になる久に、1157鬼三郎は頭をかいた。
1158「そう言うて怒られるやろと思とった。1159けど母と妹を園部まで連れてって、1160さて綾部へ帰のう思とったら、1161この足がどない気張っても西へ向きよらん。1162しゃないさけ、1163東向いてここまで来てしもたんや。1164なにかのお仕組みかも知れんのう」
1165 半ばは本当であった。1166綾部へ戻る気もなかったが、1167八木へ立ち寄るつもりなど、1168初めから考えになかったのだ。1169鬼三郎の意志を無視して、1170足が勝手に福島家へ吸い寄せられたのだ。
1171 久の丸顔に、1172愛矯のある笑みが浮かんだ。
1173「そうや、1174会長はんが生き証人や。1175あんた、1176まあお上がり。1177うちらにとって、1178今日はほんまに嬉しい日どすさかい」
1179 御簾(みす)を下ろした神前を背に、1180白装束の寅之助が坐っていた。1181鬼三郎は目をそむけた。
1182 頬もまぶたも、1183のみでけずり取ったほど落ちくぼんでいた。1184人力車夫として長年鍛えぬいたたくましい体が骨と皮にしなびきって、1185別人のように小さく見える。
1186 寅之助の前の盆には、1187焼いた小鯛と徳利と盃が並んでいた。
1188 久は(たか)ぶった口調で鬼三郎に語った。
1189「よいとこに来てくれちゃったなあ。1190今日はうちの人の百日の行の上がりの日なんや。1191丑寅の金神さまの御命令ですわな。1192『水行は一日も欠かさずに三十日間一日一食。1193続けて三十日は生の芋をかじり、1194あとの三十日は水ばかり飲み、1195あとの十日は水一滴飲まず祈念せい』……それを会長はん、1196うちの人はちっとも違えんと、1197百日をつとめ上げたんやさかい、1198見ておみやす。1199『もう地の世界ではこの上の行はない。1200今日から天へ上がりて、1201しばらくは天で修行するがよいぞ』と神さまが言うてんじゃな。1202裏の下山の松原の一番高い松の木に登って待つと、1203黒雲が舞いさがって天のお使いの大蛇さまが迎えにおいでなさるさかい、1204その背にまたがって上天しますのやげな。1205なした結構なことだっしゃろ。1206さあ、1207あんた、1208それまでに子供たちとも水盃交わしとくれなはれ」
1209 久が半歳になる長男国太郎を抱き上げた。
1210 鬼三郎が急いで口をはさむ。
1211「それは結構なこっちゃけど……それで、1212天のお使いが下らはるのは、1213何時頃や」
1214 寅之助がこけた頬に喜色をたたえた。
1215「十二時きっちりや。1216なんや体が軽うなって、1217雲に乗らんでも、1218このままふいふい天へ昇れそうな気分やわい」
1219 久も大きくうなずいた。1220正直一途、1221誠一筋の夫の人柄を誰よりも知っている妻久だから、1222三十一年に丑寅の金神の神がかりを宣してより四年間、1223一言の口答えすらせず、1224信じきって夫のままに従ってきた。1225神が人を選んでかかるならば、1226夫ほど理想的な神の台はないはずであった。1227絶え間なくくり返すむごいばかりの行を、1228神から与えられた試練として、1229夫は耐えぬいてきた。
1230「神に捧げた身が口すぎのための仕事など出来るけい」と、1231夫は現界のいっさいの務めを放棄し、1232神に直面した昼夜である。1233茶店を売って得た金でこの家を建て、1234残りはまだ預金してあったから、1235久はそれを頼りに子供たちを細々と養ってきた。1236四年間も、1237はこべの粥で食いのばしてきた。1238そして夫の命ずるまま、1239髪ふり乱して宣教に走り回った。1240その苦労がようやく(むく)われる。1241心から嬉しかったのだ。
1242 ――馬鹿なと、1243鬼三郎は叫びたい。1244阿呆正直な二人をここまで惑わした憑霊が憎い。1245けれど頑固一徹な夫婦が鬼三郎の忠告を素直に受け入れるはずはない。1246からめ手から攻めるより仕方がなかった。
1247「そう言えば、1248おもろい話を近頃の新聞で読んだで。1249やはり天へ昇る男の話やった」
1250「えっ、1251わしより先に天へ昇った奴があるのけ」と、1252さも心外そうに、1253寅之助が叫んだ。
1254「ところが、1255見事失敗しおった」
1256「そうやろ、1257丑寅の金神さまのお招き受けたんは、1258この地上の難行を残らずやりとげたわしよりほかにあるけい」
1259 ほっとした笑みで、1260寅之助は妻と子を見返った。1261鬼三郎はさりげなく話し出した。
1262「ほんまに阿呆くさい話やで。1263そいつは名古屋の丸山教会の何じゃらいう布教師やげな。1264屋上三丈三尺の高台を作って、1265これから上天する言うて、1266二百人ばかりの信者を集めた。1267信者たちは『天明海(てんめいかい)1268天明海……』と祈りながら、1269今か今かと大奇蹟を待っている。1270時が過ぎていくのに、1271天からの迎えの雲は一向に来よらん。1272いら立った教師は、1273たまりかねて宙を目がけてとび上がった。1274かぐや姫や三保の松原の天女みたいな(あま)羽衣(はごろも)はなし、1275万有引力の法則通り地上にまっさかさまや。1276まあ大腿骨(だいたいこつ)折っただけで生命は助かった。1277本人はそれで良いとして、1278気の毒なんは丸山教の神さんはじめ一般の信者たちや。1279新聞には書き立てられるし、1280よい笑いもんになってしもてのう」
1281 寅之助の表情に不安が走った。1282不自然に強めた語調に虚勢の響きがある。
1283「わしは、1284わしは違うぞ。1285高台作ったり、1286信者集めて見世物になるよな阿呆な真似はするけい」
1287「そうとも。1288寅之助はんはそんなお人やない。1289けど高い所に上がったり、1290雲が迎えに来るとこなどはそっくりや。1291前代見聞の出来事やのに、1292見物人が少ないのはもったいないさけ、1293わしもこの目で確かめて、1294綾部の教祖さんや役員信者たちに報告させてもらわんなん。1295ほんまに良いとこへ来た。1296さて時間は……」
1297 寅之助は無言で立ち上がった。1298二本の足で身を支えるのさえ、1299けだるそうである。1300よろりと骨ばかりの体が揺れる。1301久が素早く支えて言った。
1302「あれ、1303子供たちへ水盃は……」
1304 二人の娘は、1305さっきから上の空で皿の上の小鯛を見つめているのだ。
1306 隣室へ入った寅之助は、1307力なく妻に言った。
1308「小松林の悪神が邪魔しに来た故、1309一時間仕組みをのばすぞよ。1310久殿、1311早く小松林を()なせよ」
1312 鬼三郎は、1313これで立ち寄った甲斐があったと思った。
1314「こら、1315小松林。1316またお仕組みの邪魔をしたな」と血相変えてつめ寄る久に、1317鬼三郎は玄関まで逃げながら、1318小声で忠告した。
1319「なんぼ丑寅の金神さんの命令でも、1320肉体で上天でけるわけがない。1321おおかた霊が天へ上がるんやろから、1322肉体に気いつけて……阿呆正直に松の木へでも登りそうやったら、1323どんなことがあっても止めるんやぞ。1324もうしばらくしたら居眠りが出てくるさけ、1325その間に寅之助はんの霊は天へ昇って行をしやはるのや。1326寅之助はんに、1327一遍に固い物食わしたらあかんぞ。1328まず今夜は重湯や。1329お久はん、1330頼みましたで」
1331 振り返って、1332鬼三郎は下山の頂きの松林を仰いだ。1333変わりない秋晴れの空であった。
1334 心を残しつつ、1335鬼三郎の足は街道を東へ向かった。1336まだ京都の人造精乳修生社は滑り出したばかりで、1337社長の鬼三郎がどっしりといて陣頭指揮せねばならぬ段階であった。1338心ならずも閉じ込められた綾部での一月ばかりの空白を、1339一刻も早くうずめたかった。
1340 寅之助の上天は明日になり、1341明後日になり、1342のびのびとなった。1343そうこうしているうちに、1344艮の方角から黒雲が湧き起こり、1345嵐となった。1346はっとして、1347久は神前の夫を見つめた。1348寅之助は精がつきはてたように居眠っていた。
1349「やっぱり肉体が昇るのやない。1350きっと今、1351福島の霊が上天しちゃったんや」と、1352久は鬼三郎の言葉を思い出して納得した。
1353 翌日、1354寅之助は久を八木の町まで買物に出した。1355妻の不在の間に、1356四、1357五年もかかってせっせと書きためた自分の筆先を庭先に持ち出し、1358石油をかけて火をつけた。1359それでも腹がいえぬ。1360「わしを騙しよった悪神めが」と、1361神前の祠をひっくり返して火に投じた。1362落ちくぼんだ寅之助の髭だらけの頬に、1363無念の涙が光っていた。