霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
目 次設 定
設定
印刷用画面を開く [?]プリント専用のシンプルな画面が開きます。文章の途中から印刷したい場合は、文頭にしたい位置のアンカーをクリックしてから開いて下さい。[×閉じる]
テキストのタイプ [?]ルビを表示させたまま文字列を選択してコピー&ペーストすると、ブラウザによってはルビも一緒にコピーされてしまい、ブログ等に引用するのに手間がかかります。そんな時には「コピー用のテキスト」に変更して下さい。ルビも脚注もない、ベタなテキストが表示され、きれいにコピーできます。[×閉じる]

文字サイズ
フォント

ルビの表示



アンカーの表示 [?]本文中に挿入している3~4桁の数字がアンカーです。原則として句読点ごとに付けており、標準設定では本文の左端に表示させています。クリックするとその位置から表示されます(URLの#の後ろに付ける場合は数字の頭に「a」を付けて下さい)。長いテキストをスクロールさせながら読んでいると、どこまで読んだのか分からなくなってしまう時がありますが、読んでいる位置を知るための目安にして下さい。目障りな場合は「表示しない」設定にして下さい。[×閉じる]


宣伝歌 [?]宣伝歌など七五調の歌は、底本ではたいてい二段組でレイアウトされています。しかしブラウザで読む場合には、二段組だと読みづらいので、標準設定では一段組に変更して(ただし二段目は分かるように一文字下げて)表示しています。お好みよって二段組に変更して下さい。[×閉じる]
脚注 [?][※]や[#]で括られている文字は当サイトで独自に付けた脚注です。まだ少ししか付いていませんが、目障りな場合は「表示しない」設定に変えて下さい。ただし[#]は重要な注記なので表示を消すことは出来ません。[×閉じる]


文字の色
背景の色
ルビの色
傍点の色 [?]底本で傍点(圏点)が付いている文字は、『霊界物語ネット』では太字で表示されますが、その色を変えます。[×閉じる]
外字1の色 [?]この設定は現在使われておりません。[×閉じる]
外字2の色 [?]文字がフォントに存在せず、画像を使っている場合がありますが、その画像の周囲の色を変えます。[×閉じる]

  

表示がおかしくなったらリロードしたり、クッキーを削除してみて下さい。


マーキングパネル
設定パネルで「全てのアンカーを表示」させてアンカーをクリックして下さい。

【引数の設定例】 &mky=a010-a021a034  アンカー010から021と、034を、イエローでマーキング。

          

日露戦争勃発

インフォメーション
題名:08 日露戦争勃発 著者:出口和明
ページ:188 目次メモ:
概要:日露戦争勃発。王仁三郎は将来に備えて本の執筆に精を出す。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-07-04 16:52:43 OBC :B138908c08
0001 明けて明治三十七(一九〇四)年、0002出口直六十九歳、0003王仁三郎三十四歳、0004澄二十二歳。
0005 四時に起きて、0006龍門館(りゅうもんやかた)の若者たちは由良(ゆら)川へ走る。0007大江山より吹く寒風が雪を混じえて降りしきっていた。0008由良川は流してきた材木で一杯だった。0009つないである(いかだ)の上に着物を脱ぎ、0010積もった雪をのけて、0011木と木の間にドボンとつかる。
0012 京都からきたまだ十六歳の新参者の近松光次郎や、0013二十二歳の福本源之助も加わった。0014しびれるような川水に浸ったまま神言を奏上すると、0015ぬれた髪の毛が凍ってごわごわした。
0016 光次郎は近松政吉の息子。0017親の言いなりに綾部に来た。0018福本は十八の年から茶屋遊びを覚えたという放蕩息子。
0019「綾部はえーとこや、0020芸妓もいるし……」と親にだまされ、0021田中善吉に連れてこられた。0022とてもかなわん、0023逃げて帰ろうと幾度も思ったが、0024すると、0025ぐっと首がこわばって動かんようになる。0026そんなことが重なって、0027とうとう(はら)をすえてから、0028もう一年になる。0029我ながらよく我慢したものだ。
0030 由良川の水行を終って龍門館へ帰ると、0031せまい階段を昇って神前に押し並ぶ。0032この頃は先輩後輩の順序がやかましく、0033十二人の役員の下に三十六人衆が決められていて、0034近松や福本はその後にそっと控えた。
0035 すでに水行を終えた直が待っていて、0036お灯明をともし、0037そろって礼拝する。0038それから、0039おつゆの中に小さな餅と菜っ葉の浮んだ神代餅をいただく。
0040 日頃は、0041食事当番が五升炊きの釜に五合の米をほうりこんで水を一杯にして炊く薄粥だから、0042形のあるなめらかな餅の弾力を味わい惜しんで、0043すぐにはのどに落とす者もいなかった。0044かって中村竹吉が弥勒の名にあやかり三十六の餅を一人で平げたという逸話は、0045正月の度に思い出された。0046よくぞ食ったということより、0047三十六も食わせるだけ餅がつけたという意味で。0048その頃はまだ余裕があったのだ。0049今なら、0050できっこない。
0051 食堂の板の間も廊下も鏡みたいにつやつやだった。0052朝夕、0053先輩たちが拭きこんだのだ。
0054「福本さん、0055人間は足元から気をつけんなりませんのやで。0056手のさわるとこから拭いて、0057それから足元を磨きなされ」と直が教える。0058近松や福本ら新参にとって身魂磨きは見当がつかなかったが、0059「板の間が光れば身魂も光る。0060いっしょやで」と先輩たちに言われて、0061夢中で磨くようになっていた。
0062「ありがたや。0063もっと降れ。0064雪は豊年のしるしじゃでよ」
0065 役員たちは、0066雪かきや竹箒(たけぼうき)を持って表へ飛び出す。0067鼻水すすりつつ、0068()まず綾部の町の雪をかく。0069町の人たちは感謝するどころか、0070かき分けられた道を通りながら、0071白い眼で眺めていく。
0072 役員たちは毅然として叫ぶ。
0073「今年こそ大望の年。0074日本とロシアが戦うぞ。0075筆先は、0076一分一厘毛すじの横幅ほども違わんぞよ。0077改心なされよ」
0078 内外の掃除をすませた後、0079この冬は由良川の筏の材木運びに出た。0080お筆先を書く紙と役員が写し取る紙だけでも、0081大量に必要だった。0082大望の年を迎えて張りつめていた。
0083 龍門館では、0084直は別荘で筆先。0085朝食の後片付けをすました澄は、0086土間の西にある四畳半の桐村清兵衛の病室に行く。0087病人くさい匂いが鼻をつく。0088年が年だけに、0089回復は望めなかった。0090温厚な伯父で、0091澄は好きであった。0092源三は再起のための金策に走り回っていて、0093看病どころではなかった。
0094 二十九年の大洪水で死んだ伯母に代わって、0095澄は心をこめて伯父の世話をした。0096松葉を煎じて飲ませてやり、0097やさしく病人の腰を撫でさすった。
0098 廊下から、0099王仁三郎の唄う子守歌が聞えてくる。0100むずかる朝野を背負って、0101行きつ戻りつ、0102口から出まかせの子守歌であろう。
0103〽どこからおいでた朝野さん 高い高い山の空 弥仙の山からあらわれた ねんねんころり
0104 嬢のお母はどこへ行た 山を越えて川越えて 大原越えて綾部行た 綾部の土産に何もろた おひねりさんに肌守り ねんねんころりねんころり……
0105 子守歌は朝野ばかりでなく、0106清兵衛の眠りもさそったのか、0107やがて高鼾をかき出した。0108澄は汚れ物を持って、0109雪のふぶく井戸端へ出る。0110妊娠七ヵ月の身では、0111しゃがんで洗濯するのは苦痛だったが、0112病人と朝野の汚れ物が次々と出るので、0113洗濯に追い立てられていた。
0114 王仁三郎が澄の傍へ寄ってきた。
0115「おい、0116やっと寝たわい」
0117「へえ、0118おおきに……もうちょっとやさかい、0119お願いしますで」
0120 振り向かずに言うと、0121王仁三郎が囁いた。
0122「ええか、0123男の子を産めよ」
0124 また同じことを……澄はこだわらず、0125うなずいた。0126二人目の子が男でも女でも、0127澄はどちらでもよかったけれど、0128夫のためにできれば男の子を産みたい。0129男の子がほしいという夫の願いの中には、0130「今度も女じゃで」と早くも断言する直をへこましてやりたい、0131子供っぽい意地がひそんでもいた。
0132 七畳半の自室に入り、0133座蒲団を並べて朝野を下ろす。0134ねんねこをかけて寝かせ、0135王仁三郎は机に向かった。
0136 昨年の初夏、0137偽電報で綾部へ連れ戻されて以来、0138おとなしく龍門館に蟄居(ちっきょ)していた。0139筆先では、0140王仁三郎は坤の金神の守護になったとされたが、0141それは神界だけの出来事であったらしく、0142日常は一向に悔悛(かいしゅん)の兆しもない。0143水行ぎらいの朝寝坊の行儀わるの漢字好き……役員信者の目には、0144依然として小松林命の悪神の容器としか映らなかった。0145何かにつけて干渉され、0146不自由なことこの上ない。
0147 たまりかねて地方へ宣教に出ようとすれば、0148木下慶太郎、0149後野市太郎、0150村上房之助、0151竹原房太郎らがずらりとならぶ。
0152「会長はん、0153教祖さまにそむいて、0154外へ出て四つ足身魂の教えをどうしてもまき散らすなら、0155わしらの葬式をすましてから出て行っておくれなはれ」
0156 腹をむき出して、0157出刃庖丁を突き立てんとかまえる。0158純情で血気盛んな若者たちのことだから、0159脅しとばかりは言えぬ。0160それでも彼らの目を盗んで地方へとび出し、0161宣教することはできよう。0162しかし彼らはかぎつけ、0163せっかく蒔いた種を、0164貧婪(どんらん)な烏のように片っ端からほじくり返すことは知れていた。
0165 今や王仁三郎の手足となるのは、0166義弟西田元吉と園部町木崎の浅井はなという五十年輩の婦人だけであった。0167西田と浅井は、0168交代に綾部の大槻鹿蔵の家にあらわれた。0169いつも昼の十二時頃に園部を発って、0170深夜に着くことにしている。0171役員等に見られぬためである。
0172 王仁三郎は夜中に抜け出して大槻家に行き、0173彼らに大本の教理を説く。0174さらに、0175虎の巻を与える。0176教えをできるだけやさしくかみ砕いて、0177学のない二人にも分かるように平仮名だけで書いた文である。
0178 西田と浅井はそれを持って未明のうちに綾部を発ち、0179園部に向かう。0180園部を拠点として二手に分かれ、0181王仁三郎に代わって船井、0182北桑田両郡の未開の地を、0183ひそかに布教して歩くのだ。0184しかし役員たちの監視は彼らの上にも届いていて、0185妨害されることもしばしばだという。0186そればかりか、0187王仁三郎が龍門館に蟄居しているのを好機として、0188会長の逆宣伝を振りまいて歩いた。
0189「実地の筆先の通りどしたで。0190『行けば行くほど(いばら)むろ、0191神にそむいて何なとしてみよれ。0192一つもおもわくは立ちはいたさんぞよ。0193アフンとして青い顔して、0194家のすまくらに引っ込んで人に顔もよう会わせず、0195しょげているのを見るがいやさに神がくどう気をつけるぞよ』怖いもんどすな。0196けど暖かくなったら、0197いつまたとび出すやら知れん。0198世の中の悪の(かがみ)の会長の言うことども聞いたら、0199神さまからえっとお叱りを受けんなんさかい、0200くれぐれも気いつけてや」
0201 信者たちは、0202役員の言葉を間に受け、0203王仁三郎が通る後に塩を降りまいたり、0204切り火するほどであった。
0205「教祖はんは(たて)を説かれる。0206会長は、0207教祖はんの話のわかるようにくだいて(よこ)を説くのや」と王仁三郎が言って聞かしても、0208理解できる役員たちではない。0209小松林命の教えをぶち(こわ)し、0210その活動を徹底的に封じることこそお道のためと信じ切っての行動だけに、0211よけい始末が悪い。
0212 王仁三郎は、0213歯を食いしばって無念に耐え、0214著述に打ち込む。0215大本を世界的宗教に発展させるためには、0216筆先の真意を正しく受け止め、0217さらに高熊山で得た(けん)0218(ゆう)0219(しん)三界の見聞と神示を加え、0220体系立った教義の確立をはからねばならぬ。0221その時期はきっとくる。0222いずれ寸暇もないほど多忙になる。0223その時のために、0224今こそ書き溜めておかねばならぬ。
0225 王仁三郎は机に向かってちょっと瞑目し、0226心気を澄ますと、0227筆をとって淀みなく書き始めた。
0228「鐘が鳴るか撞木(しゅもく)が鳴るか、0229鐘と撞木のあいが鳴る。0230神と人民は鐘と撞木の関係でござる。0231鐘と撞木が合体して音が出るので、0232神は鐘、0233人民は撞木にたとえれば、0234神ありての人民、0235人民ありての神でござる。0236その音はつまり神徳でござる。0237その大本とは鐘から出たものでもなし、0238また撞木から出たものでもなし、0239持ちつ持たれつの力でござる。0240神にすがって神徳がないという人は、0241どこかにこの道理からはずれた所があるのでござる。0242神さまの御業ではないから、0243わが身の心をよく考えて、0244恨むことはできぬ。0245心の改心次第でどんな神徳でも与え給うから、0246信仰を怠ってはなりませぬ。0247信仰はまさかの時の柱でござる」
0248 昨年の夏から折りにふれて書き続けている『筆の(しずく)』の一節である。0249西田元吉や、0250浅井はなの宣伝資料にすることが目的で、0251つとめて俗っぽい表現で書く。0252間もなく脱稿に近づいていた。0253再度の焚書(ふんしょ)の厄に会うことを恐れ、0254書いた後から大槻鹿蔵の家に持参して、0255預かってもらっていた。0256大槻夫婦は、0257王仁三郎にとっては貴重な存在であった。0258毒も、0259使いようで薬になることを、0260王仁三郎は知っていた。
0261『筆の雫』が終われば、0262自分の半生の記録から大本入りするまでの経緯(いきさつ)を記した『本教創生記』の執筆にかかる心づもりである。
0263 洗濯を終えた澄が、0264赤くふくれた手を拭きながら、0265哀れっぽい声を出した。
0266「先生、0267忙してかなんさかい、0268今日はもうこらえとくなはれ。0269それに今日はお元日やし……」
0270「あかん。0271学問に盆も正月もあるけい。0272早うここへ坐れ」
0273「機を織りあげてしまいたいんじゃがなあ。0274書初めでも二日からやのに……」とぼやきながら、0275澄はしぶしぶ王仁三郎の横へ坐る。
0276「さあ、0277まず昨日教えたこと、0278書いてみい」
0279「そんなこと言うちゃったかて、0280阿呆やさかい、0281すぐ忘れてしまいますわな」
0282「阿呆? いやいや、0283お澄は阿呆やないぞ。0284磨かれざる玉や。0285自分を阿呆にしといて、0286お澄はてんから覚える気があらへん。0287そこが傷や。0288さあ、0289わしがこの玉を磨いたるさけ書かんかい」
0290 澄は筆を持ち、0291考え考え墨を紙になすりつける。
0292 け、0293ふ、0294こ、0295え、0296て……。
0297 一字書くごとに大きく吐息し、0298いかにもつらそうだ。0299天性学問好き、0300書から離れては生きた心地もせぬぐらいの王仁三郎には、0301澄の苦痛が不思議でさえある。
0302 大本の役員たちは学問を目の仇にしても、0303いろは四十八文字だけは大事にする。0304澄ときたら、0305その仮名文字すら尻ごみする。0306体を使ってくるくる動き回ることは好きだが、0307机の前に坐って文字を書くことはよほど性に会わぬらしい。
0308 もし教祖出口直に学問があったらと、0309王仁三郎はどれほど切実に思ったことか知れぬ。0310王仁三郎から見れば、0311直は自分の手で筆先を書かされながら、0312その字面のみを信じ、0313奥底の真意を理解しようとせぬ。0314「いろは四十八文字でひらく」とあれば漢字は悪と信じ、0315「神力と学力の力競べをいたす」とあれば学問の一切を否定する。
0316 直がそうであるからこそ、0317直の人柄を信じる熱烈な信者たちほど、0318同じ(へい)に陥る。0319それが、0320教団の発展をどれほど阻害しているか知れぬのだ。
0321 だが王仁三郎は思い返す。
0322 なまじ学問があれば、0323今日の教祖出口直は存在しなかったかも知れぬ。0324魂よりも頭で判断しようとするなまじな学問の弊害に染まらず、0325ひたすら純粋に人生を貫いて来たからこそ、0326神の啓示をそのまま受ける台になり得た、0327とも言える。
0328 教祖一代はそれでよい。0329しかし大本二代としての神命を受けた澄の場合、0330それであってはならぬ。0331直の受けた天啓を正しく理解し、0332後の世に正しく伝える使命があるのだ。0333そうでなければ、0334この頑固な迷信教団から脱皮することはできぬ。
0335 王仁三郎は、0336この蟄居の間を利用して、0337澄にまず文字を教え込もうとした。0338いろは四十八文字が終われば、0339次には片仮名、0340そして漢字をと意気込んだが、0341澄の勉強態度では平仮名を教え込むだけで、0342いかに難事業であるかが分かった。
0343 ――けれど、0344ここで投げ出してはおしまいだ。0345平仮名の筆先だけでも読めるようにならねば、0346とても二代教主となる資格はないではないか。
0347「あかん。0348〈し〉のしりをはねるのや。0349これ、0350棒をまっすぐ引かんかい」と王仁三郎は口やかましく叱るが、0351次に書かして見ると、0352もう教えた作法もなにも忘れて好き勝手にのたくる。0353あまりの聞き分けのなさに癇癪をおこしかけて、0354ようやく自分をおさえる。
0355「お前の字ときたら、0356筆先にそっくりの、0357みみずのぬたくり……」
0358 言いかけて絶句した。0359王仁三郎の目は吸い寄せられたまま、0360大きく吐息した。
0361 ――思えば、0362文字とは何だろう。0363意さえ通じれば、0364ことは足りるのだ。0365その上の上手下手とは。
0366 澄の書いたあちこち好き勝手に向いている(おさな)い字。0367無造作にまるまり、0368ふくらみ、0369すいっと横にとびはねて頓着しない字。0370この天真で愛らしい、0371いかにも澄そのままのような。0372文字を型どおりにはめこんで、0373誰でもが書くような通りのよい文字に仕立て直してみたところでどうなろう。0374どう手習いを重ねてみても、0375自分には到達し得ないであろう澄の天真(てんしん)爛漫(らんまん)な字が、0376ふと憎い。
0377「ま、0378何とか読めるさけ、0379みみずでもよいわな。0380お前の好きに書いてよろし……。0381ほんまはお前の字が好きや。0382惚れとんのや」
0383 澄は筆を投げ出した。0384折りよく朝野が泣き出していた。
0385「これで今日はこらえてえな、0386先生。0387朝野が起きたさかい……」
0388 王仁三郎はつられてうなずく。
0389「わあ嬉し。0390おしっこ替えたら、0391おぶって機織りや」
0392 澄はさっと朝野を抱き上げて、0393逃げるように部屋を出て行く。
0394 王仁三郎は筆を取り上げ、0395澄の字を真似て書いてみた。
0396 いつまでも止みそうにない泣き声が気になって、0397王仁三郎は、0398奥の寝室の襖を開けた。0399火の気ひとつない寒い部屋に、0400朝野が裸にむかれたまま泣いている。0401思わず抱き上げて、0402冷たくなった朝野を懐に抱き入れる。
0403「何ちゅう母親やろ。0404おお可愛そうに……風邪ひくやないか」
0405 澄が押入れに首をつっこんで、0406かき回している。
0407「おかしいなあ……洗濯したおむつ、0408どこへしもたやろ。0409先生、0410知っとってやござへんかい」
0411「お前は阿呆じゃ。0412ちゃんと着替えを用意してから裸にせんか」
0413 こう言い聞かすのは、0414二度や三度ではなかった。0415ある夜など、0416朝野の苦しげな泣き声に執筆中の王仁三郎が飛んでいってみれば、0417澄は寝ぼけまなこで、0418
0419「先生、0420どないしても、0421乳飲みまへんのや」
0422 蒲団をめくる。0423何のことだ、0424朝野は逆さまに抱かれ、0425足に乳房をあてがわれて泣きわめいていた。
0426「一人でさえこれや。0427二人目が生れたらどうなるやろ」と、0428王仁三郎は泣きたくなる。
0429 澄はおしめを捜しに二階まで行ったらしい。0430泣きじゃくる朝野のために、0431王仁三郎はまた自作の子守歌を歌い出した。
0432〽お父さんお母さん 詣りましょ 蓑着て笠つけ杖ついて 嬢もかわいい草履(ぞり)はいて金神さんへ徳もらい こおいこいここい来い。
0433 綾部参るなら草履はいてナ 人力、0434馬車には乗らぬようにナ 馬車や人力車(くるま)はまだしもよいがナ 口の車に乗らぬようにナ こおいこいここい来い
0435 日本照る照る露西亜(ろしあ)は曇るナ 支那や朝鮮雨が降るナ こおいこいここい来い恋し恋しと待つ世はこいでナ 末法の世が来て(かど)に立つナ 早う早うと待ちこがれてナ 松の世が来てみな勇むナ こおいこいここい来い
0436 まだ母親にもなりきらんような妻と子のために春まではここにいようと、0437王仁三郎は思った。0438ようやく替えを持ってきた澄に朝野をあずけ、0439気をとり直して王仁三郎は執筆を続ける。
0440「さしぞえの役員は神を信ずること最も深く最も強し。0441おのれ深く信ずるによりて、0442人もまた深く信ぜしむること得るなり。0443自ら正しうして人を正し、0444自ら行うて人これを信ず。0445されどわが眼には彼らの信仰強きだけ、0446一方に偏してその中心点を失いつつあるを憐れみ且つ憂うるものなり。0447彼らは信仰(あつ)きだけ迷いもまた篤し、0448省みざるべからず。0449(まなこ)醒めざるべからず」
0450 山陰の暗い冬は、0451春の居催促(いざいそく)でようやく重たい腰を上げかける。0452梅の(つぼみ)は一輪、0453また一輪とひらき出していた。
0454 それを蹴散らす勢いで、0455号外の鈴の音が綾部中に響き渡った。
0456「露国ガ初メヨリ平和ヲ好愛スルノ誠意ナルモノ、0457(ごう)モ認ムルニ由ナシ。0458露国ハスデニ帝国ノ提議ヲ容レズ、0459韓国ノ安全ハマサニ危急ニ(ひん)シ、0460帝国ノ国利ハマサニ侵迫(しんぱく)セラレムトス。0461事スデニ(ここ)ニ至ル。0462帝国ガ平和ノ交渉ニヨリ求メムトシタル将来ノ保障ハ、0463今日コレヲ旗鼓(きこ)(うち)ニ求ムルノ外ナシ……」
0464 明治三十七(一九〇四)年二月十日、0465日本はロシアに対して宣戦を布告したのだ。
0466 大本には、0467町より早く春が来た。0468役員信者たちの顔は、0469桜が一時に開いたほどの明るさだった。0470世間の嘲笑を浴びながら明治二十五年から叫び続けていた筆先の予言がついに実現した。0471ただただ快哉(かいさい)を叫んではねまわるのも無理はなかった。
0472 王仁三郎の心は沈んでいた。0473日露戦争は、0474来たるべくして来た。0475避け得ぬ歴史的宿命と観念しつつも、0476喜びで迎える気になどなれなかった。0477単純な彼らの喜びが、0478どうにもやりきれぬ思いだ。
0479 王仁三郎の戦争観は、0480すでに脱稿して大槻家に預けた『筆の雫』に、0481「戦争と立替え」の小題を付けて記しておいた通りだ。
0482「艮の金神さまのおかまいなさる松の世のやりかたは、0483兵士もいらぬ、0484戦争(いくさ)もなきように、0485天下太平におさまるようになる。0486軍備や戦争は、0487今の政府が地主や資本家を守るための力にするので、0488世界多数の人民は、0489地主と資本家のために兵にもとられて、0490大事の命まで投げ出して、0491その上に多くの税を取り上げられねばならぬ。0492高みへ土持ちでこんなつまらんことはないから、0493この世の立替えがあるのでござる。
0494 今や世界の国々は、0495軍備のために実に二百五十億(ドル)の国債をおこして、0496その利息だけでも毎日三百万人以上の者が働かねばならぬようになり、0497そればかりか幾百万の達者盛りの若者は、0498絶えず兵に出て人殺しの業を習って、0499いらぬ無益のかんなん苦労をなめねばならず、0500どこの国も達者な者はみな選り抜いて兵に徴収して、0501田畑に耕作する者、0502みな白髪まぜりの老人やら……(中略)……女人子供ばかりであるが、0503実にあわれ至極の世の中ではないか。0504その上、0505万一戦争でも始まりた日には、0506幾億という金をつかい、0507幾万の命を()かして、0508人民は痛い上にも痛い目に会うて、0509国は半つぶれになり、0510いつまでもよりが戻らず、0511残るものは少しばかりの軍人の功名と山子師の銭儲けぐらいである。
0512 アア世界にこれぐらい重い罪があろうか。0513これぐらいな(わざわ)いがあろうか。0514これがさっぱり畜生の世で、0515強い者勝ちの悪魔の世界ではないか。0516こんな世をいつまでもこのままにしておいたら、0517もうこの先は共食いするよりしょうがなくなるから、0518天からの命令で今度二度目の世の立替えであるから、0519中々大謨(たいもう)なことの仕組でござる」
0520 宣戦の詔勅が下った三日目の夕、0521王仁三郎は古事記を読んでいた。0522暗唱するほど読み尽くしていたが、0523読み返す度に何かしら新しい発見のある気がした。0524大本内部が日露戦争で沸き立っている時だけに、0525彼らから離れて一人古典の世界に浸りたかった。
0526「会長はん、0527またまた……このどえらい時になんちゅう本を読んどってやいな」
0528 中村竹吉、0529四方平蔵、0530村上房之助が立っていた。0531とっさのことで本を隠すひまはなかった。
0532「これか……『古事記』いう書物や」
0533「へぇ、0534『乞食』? 情けなや、0535金明霊学会の会長はんが、0536お釈迦さんの真似などせんかてよいわな。0537さあ、0538渡しなはれ」
0539 言い訳したところで無駄と観念して、0540中村に『古事記』を渡す。0541中村の視線はもう一冊の本に注がれる。
0542「そっちの本は何だすいな」
0543「これは『日本書紀』や」
0544「日本のもんなら大事ござへんやろ。0545けど念のため、0546ちょっと見せとくなはれ」
0547 本をひらくや、0548中村は慨嘆する。
0549「あれ、0550日本のもんやと言いながら、0551やっぱり角文字ばかりやござへんかい。0552これも退治しときますわな」
0553 二冊の愛書をさもけがらわしげに廊下に出して、0554三人は王仁三郎の前に坐りこんだ。
0555「会長はん、0556役員信者を代表してわしら三人が申し上げるんじゃさかい、0557そのつもりで聞きなはれ。0558いよいよ大望が始まって、0559これで角文字好きの小松林命はんにも、0560いろは四十八文字のお筆先の尊さがわかったことだっしゃろ」
0561「日露戦争のことなら、0562わしかて予言しとるわい。0563明治三十一年に駿河に行った時、0564長沢雄楯(かつたて)先生の審神者(さにわ)0565わしの神主で鎮魂帰神をしたことは、0566お前らにもとうに話したやろ。0567小松林の神憑りがあって、0568明治三十七年二月の日露戦争を予告した……」
0569「お筆先の方がずっと先じゃでよ。0570小松林がお筆先の予言を盗んだのじゃ」
0571「戦争は三十八年の九月に終わり、0572日本の利益は支那の海岸と樺太の一部……こんな所まで、0573筆先に出とるかい」
0574「小松林のいうことなど、0575何あたろうやい」と、0576中村はあざ笑う。
0577「わしはあたると思う。0578それに中村はん、0579あんたは三十三年から毎年、0580『今年こそ日露戦争で立替えがはじまる。0581目も鼻も開かぬことができる』と騒ぎまわっとったのう。0582そんな予言なら、0583子供でもできる」
0584「それは、0585わしの勝手で言うたわけではござへん。0586お筆先からそういう御内流をいただいたさかいや」
0587「つまり中村はんの内流ちゅうのがスカタンやったか、0588そもそもお筆先がでたらめやったか……」
0589「な、0590な、0591何ぬかすやい。0592小松林の改心が遅れたくせして。0593明治三十三年に悪の鑑の小松林の改心さえできとったら、0594神さまはすぐと立替えなさる。0595三十四年の改心なら、0596三十四年に立替えなさるお仕組みが、0597三千年前から決まってござる。0598自分の改心が遅れて、0599ずるずると世界の人民に迷惑かけておきながら、0600筆先のせいにするとは、0601あんまりやござへんかい」
0602「すると、0603わしの改心もいよいよできたちゅうわけか」
0604「いや、0605今もこの角文字読んどった小松林や。0606しんそこ改心はでき申さぬが、0607神さまはしびれを切らして始めちゃった」
0608「難儀なお人や。0609会長はんの改心が一日遅れたら、0610世界の人民が一日苦しむ。0611ほんまになした極悪の因縁性来(しょうらい)じゃろう」と四方平蔵が嘆く。
0612「けど、0613それも御苦労な悪のお役やげな。0614それを改心させんならんわしらの役も苦労じゃわな」と、0615村上が悲壮に言った。
0616 王仁三郎は、0617ばからしさを通りこして笑い出す。
0618「なるほど、0619なるほど、0620わしはよほど大そうな身魂や。0621善にもせよ悪にもせよ、0622わしの改心しだいで三千世界が動くとはな……」
0623「ともかく、0624筆先の通り戦さが始まったのじゃさかい、0625日本は九分九厘サア叶わぬとこまで行きますわな。0626その最後の一厘で、0627綾部の大本から艮の金神変性男子の霊魂が出口の神と現われて(とど)めをさす。0628三千世界をでんぐり返し、0629天下太平に世を立直して後はみろくの世、0630松の世とあそばすお仕組み……。
0631 このどえらいお仕組みの邪魔をした身魂は、0632万劫末代書き残されて、0633みせしめに根底の国へ落とされんならん。0634立替えが始まったら、0635第一番に気の毒なんはあんたやで。0636わしは会長はんが嫌いやない。0637今は悪のお役でも、0638憎めんさかい(つら)いのや。0639お願いです会長はん、0640わしらが可哀そうや思うて、0641どうか改心しとくれなはれ」
0642 一息に言って、0643四方平蔵は両手をついた。0644白髪の目立ち始めた頭。0645痩せた肩が震えている。
0646 村上は手を組んだ。0647しょうこりもなく顔を真っ赤に力ませて、0648得意の鎮魂で小松林命を追い出すつもりらしい。
0649 中村は顎を上げ、0650燃えるような眼で王仁三郎をにらみつける。
0651 王仁三郎は真顔になった。
0652「頼むさけ、0653わしの言うことも聞き分けてくれ。0654日本がロシアに勝ったところで、0655三千世界の立直しがすぐにできると思うのは、0656筆先の大きな取り違いや。0657筆先には、0658どこにも立替えの時期など明示してないわい。0659三十年や五十年で、0660三千世界の立替え立直しがなにできるけい。0661五十年、0662百年が人間にとっては長いようでも、0663無限絶対無始無終の大神さまからみれば、0664ほんのつかの間や。0665この未完成な人群(じんぐん)万類(ばんるい)の向上完成を常に願われる神さまならば、0666立替え立直しは永遠に続くと思ってもよい。0667生まれたり死んだり、0668生物はそれぞれに立替えられながら、0669子へ孫へとその御用を引き継いでいくのや、0670松の世の理想を仰いでな。
0671 日露戦争ぐらいのことにあまり大きな望みをかけ過ぎると、0672後で後悔せんならんぞ。0673阿呆な宣伝をして回るより、0674ちっとは世間のことも勉強して『大本は気違いの巣窟や、0675迷信家の寄合や』と馬鹿にされんよう、0676お前らこそ眼をさましてくれ」
0677 迷ったような村上の表情も、0678中村の大声に吹きとばされた。
0679「黙りなはれ。0680世間から悪く言われるぐらい、0681なんじゃいな。0682世界中が曇り切って、0683昼日中に提燈持って歩かなならぬ暗がりの世界じゃ。0684そんな世界の人民に良く言われるようなことで、0685誠の教えと言えますかい。0686とことん悪く言われて、0687とことん良くなる仕組みの大本でござるぞ」
0688「えらい議論がはずんだはりますなあ。0689ちょっとお邪魔させてもらいますで」
0690 声をかけて入ってきたのは、0691八木の福島久である。
0692 いきり立っていた中村が顔色をやわらげ、0693笑みを浮かべた。0694四方平蔵が席をあけながら、0695笑顔で迎える。
0696「よう来なはりました。0697いつ来ちゃったんですい、0698ちっとも知りませなんだわ」
0699「今着いて、0700教祖さまに御挨拶してきたとこです。0701会長はん、0702御無沙汰どした」
0703 寒々とした継ぎはぎの着物、0704膝に揃えた荒れた手には、0705貧苦と戦う久の暮らしのきびしさが(にじ)んでいる。
0706 けれど、0707ひっつめ髪に白粉(おしろい)けのない久の頬は上気し、0708眼が誇り高く輝いていた。
0709 こらまた厄介なことになるわいとげんなりしつつ、0710王仁三郎は義姉久に挨拶する。
0711 久は一同を眺め回した。
0712「皆さん、0713お筆先は恐れ入ったものでございますなあ。0714とうとう露国と戦争になったやござへんか。0715お筆先の実地を()のあたりに見てじっとしておれんさかい、0716八木からお喜びに出て来たんですわな。0717それで、0718会長はんの改心は、0719まだできませぬかい」
0720 久に問いかけられて、0721中村は勢いづいた。
0722「なかなかそんな生やさしい小松林やござへん。0723今も皆で手こずっとるとこですわな。0724お久はん、0725頼みます。0726よう言い聞かしてやっておくれなはれ」
0727「寅之助はん、0728元気にしてはるか。0729お久はんはマンガンの選鉱に出とってんやそうなのう。0730大変な修行や。0731マンガン山にはどうも縁がのうて、0732わしも若い頃、0733ずいぶんと山子をはったが……」と王仁三郎は話をそらす。
0734「肝心要めのこの正念場に、0735山子の話どこですかいな。0736会長はん、0737わたしも命をなげうって御奉仕させてもらう覚悟がでけました。0738今日は、0739ゆっくり会長はんにも聞いてもらわんなりまへん」
0740 熱情的な久に理屈でまくし立てられては、0741中村たちを相手にする比ではない。0742王仁三郎は中腰になった。
0743「そうや、0744お久はんには今度の戦争について、0745ぜひ意見を聞かしてもらいたい。0746その前にちょっと失礼して用を足してくるわ」
0747 (かわや)へ行くふりをして抜け出すと尻からげ、0748日の暮れかかった雪道を走り通して、0749北西町の大槻家に逃げこんだ。0750大槻の牛肉店はもう戸を閉めていて、0751横のどぶ板を踏んで、0752勝手口から入る。
0753 いつもの長火鉢の前で、0754(よね)煙管(きせる)に刻みをつめながら笑った。
0755「会長はん、0756また役員さんたちと喧嘩しちゃったんですかいな」
0757「それもそうやが、0758八木からお久はんが来よってのう、0759かなんさかい逃げてきた」
0760 耳の遠い大槻鹿蔵にも聞えるように大声を出すと、0761どてらにくるまった鹿蔵が、0762機嫌よくうなずいた。
0763「そうか、0764そうか。0765久にかかっちゃ、0766あんたもやりきれんやろ。0767あいつが八木に帰るまで、0768ゆっくり泊まっちゃったらよいわな。0769夜飯はまだやろ」
0770「まだや。0771ああ、0772思い出したら腹がく(食)うくう言いだしよった」
0773「舌のとろけるような牛肉でも食おかい。0774米、0775まず酒をつけてくれや」
0776 義妹の龍や澄の食費代まできびしく直に取り立てた鹿蔵なのに、0777王仁三郎とはよほどうまが合うらしい、0778何かにつけて好意を見せたがる。
0779 少しばかり色が変わりかけた牛肉三百(もんめ)ほどと棒葱(ぼうねぎ)で牛鍋を作り、0780裏の離れでぐつぐつ煮ながら食う。0781鹿蔵と米は仲良く差しつ差されつ飲み始めた。0782奈良漬けでも赤くなる下戸(げこ)の王仁三郎はもっぱら肉をつつく。0783龍門館の粗食に馴れた身には、0784こたえられぬほどうまい。
0785「上田はん、0786近々牛肉屋を廃業するつもりじゃ。0787あんたに牛肉を腹いっぱい食ってもらうのも、0788今夜が最後かも知れんでよ」
0789 半煮えの白葱を頬張りながら、0790鹿蔵は淋しそうに言った。0791王仁三郎は、0792黙って肉を頬張る。
0793「わしがお米と牛肉屋を始めた頃は、0794よほど新しい商売やったでよ。0795(たすき)がけで働くお米の赤い手絡(てがら)がよう似合うとった。0796あれから三十年にもなろうか。0797わしもお米も年をとったわな」
0798 そう言えば、0799脂っこい肉を避けて葱ばかりひろうのも年のせいであろう。0800この鹿蔵、0801若い頃には路傍の木につながれていた他人の馬の四つ足をしばり、0802出刃庖丁で一塊(いっかい)の肉をえぐり取って生食したと聞く。0803鹿蔵、0804老いたりだ。
0805 代わりに、0806王仁三郎は健啖(けんたん)な食欲を見せながら、0807
0808「教祖はんも、0809牛肉屋を()めたと聞いたら喜んでやろ」
0810「あの婆さんとは、0811よう喧嘩した。0812『それ見たことか』とあいつらが喜ぶじゃろうと思うと(しゃく)なが、0813上等の肉の色が変わるようではなあ。0814小さな町にきれいな店構えの競争相手が二軒もでけては、0815因縁つけてみてもはじまらん」
0816「それで何をする」
0817「店は人に貸す。0818この離れは博奕(ばくち)場にして、0819テラ銭で食うつもりや。0820丹波鹿はおちぶれても、0821まだまだにらみがきくわい。0822そう簡単に本宮の婆を喜ばすわけにはいかんわな」
0823「本職に専念するか。0824そう言えば、0825伝吉はんから便りがあるか」
0826「おう、0827あいつは元気でやっとるげな。0828(かか)もろたら、0829岐阜にじっくり腰すえくさってなあ」
0830「うちの人も帰ってほしがって何度も手紙をやるのやが、0831ちっとも帰ってこんのですわな。0832もう来月には、0833二人目ができるげなが……」
0834 米も鹿蔵に(しゃく)をしてやりながら、0835淋しげに口元をほころばした。
0836 大槻夫婦の養子伝吉(出口直の三男)は明治三十三年に岐阜に行き、0837アメリカ向けの輸出の縮緬(ちりめん)を織る大きな機屋に勤めている。0838撚糸(ねんし)の係であった。0839間もなく地元の女工、0840浅野みつ代と結婚した。0841機織り唄をうたうみつ代の美しいのどに、0842伝吉が惚れたという。
0843 翌三十四年九月にみつ代は長男出産。0844米の話では、0845二人目の出産も近いらしい。0846六十六歳の鹿蔵と九年もの間狂乱の境にいた米は、0847今老いて安らぎ、0848寄り添っている。0849しかし口での強がりとはうらはらに、0850落莫(らくばく)とした虚しさは隠し切れぬ。
0851 ――伝吉を呼び戻してやろう。
0852 ふっと、0853王仁三郎は思った。
0854「大槻はん、0855会長はんはおってやござへんか」
0856 庭から男の声が聞えた。0857耳の遠い鹿蔵は知らぬ顔だが、0858米はすぐ聞きつけ、0859体を斜にずらして障子を開ける。0860雪をかぶった石燈籠の傍で、0861提燈片手の中村が、0862うそ寒そうに立っていた。
0863 ほろ酔いの米は、0864面白そうに声をかけた。
0865「ほら、0866来ちゃった、0867寒そうに。0868会長はんならまだ御飯の最中じゃさかい、0869どうや中村はん、0870上がって待っとっちゃったら……」
0871 縁先へ寄って肉の匂いをかぐなり、0872中村は鼻をつまみ、0873
0874「会長はん、0875お久はんが待っとってや、0876早よ立ちなはれ」
0877 その態度が米の気にさわった。
0878「金明霊学会の会長はんは牛肉がお好きやけど、0879中村はんもお相伴(しょうばん)しちゃったらどうえ。0880どんぐり団子や芋の葉のお粥なんぞより、0881よっぽどほっこりしますで」
0882 中村はまだ鼻をつまんだまま、0883鹿蔵に向かって声を張り上げた。
0884「大槻はん、0885あんたは教祖さまの総領娘を女房にして、0886結構な御子伝吉はんまでもろときながら、0887会長はんに四つ足食わすやなんて、0888あんまりじゃござへんかい」
0889 鹿蔵は、0890へらへら笑った。
0891「一寸先は闇の世じゃ。0892一日でもよけいにうまいもの食い、0893好きすっぽうする奴が勝ちや。0894お前もちと改心して、0895また偽物売りの古物商でもせいや。0896金儲けて、0897牛肉食うて精つけて、0898芸者でも抱いて寝てみいな、0899この世はこのまま天国やで。0900気違い婆の尻にのって、0901あたら男が雪隠の掃除。0902何が立替えじゃい。0903四つ足も食う、0904人も食う、0905神も食う、0906ちったあ開けた会長さんを見習うたらどうやい」
0907 米も負けじとからかう。
0908「なあ、0909中村はん。0910なんぼ真面目そうな顔しとっちゃっても、0911うちらには通りまへんえ。0912あんたは昔は播磨(はりま)屋の竹はんいうて、0913博奕は打ち、0914女もこしらえ、0915肉もえっと食べたお人やないか。0916しょうもない筆先に呆けとらんと、0917あんた、0918うちの牛肉かついで売りに歩いちゃったらどうえ。0919五円も売ったら、0920一円は歩合(ぶあい)をあげますがな」
0921 中村は蒼白になって怒りをこらえた。
0922「とにかく会長はんを帰しとくれ。0923今は小松林の容器じゃが、0924いずれは大本の御用をしなはる大事な身魂やでよ。0925こんな所におっては、0926身魂が曇って、0927いざの時に役に立たんようになる。0928さあ、0929会長はん、0930何しとってんです」
0931 王仁三郎は気持ちよさそうなゲップをして、0932
0933「いやや。0934どうやら三百匁がとこ牛肉を平らげたが、0935これは小松林はんの分や。0936あと三百匁ほど、0937坤の金神さんにお供えしてから帰ぬわい。0938先に帰って、0939教祖はんやお久はんによろしゅう伝えてくれ」
0940 中村は、0941いまいましげに舌打ちした。
0942「やっぱり身魂の因縁ちゅうもんは、0943どうしようもこうしようもないもんや。0944鬼と大蛇の悪の身魂には、0945やっぱり悪が寄りたがる」
0946 鹿蔵は酔いにまかせて縁先に這い出た。
0947「こら、0948中村。0949わしが鬼か、0950蛇か。0951三文の損もかけたこともないのに、0952お前らに悪神呼ばわりされる筋があるかい」
0953 のび上って中村の頬をなぐりつける。0954なぐられながら、0955中村は逃げなかった。0956鼻血で染まった顔を上げてうそぶいた。
0957「日本魂の生粋の身魂の中村でござる。0958大江山の酒呑童子の露国の身魂が何こわかろやい。0959露国の悪神どもが会長をとりこにしようとも、0960この日本魂の中村が断じて許さんでよ」
0961「やれやれ、0962ここでも日露戦争が勃発しよった。0963事すでに茲に至るか。0964分かった。0965()ぬわい、0966帰ぬわい」
0967 苦笑しつつ、0968王仁三郎は(あぶら)にぬれた唇をぬぐって立ち上がった。