一八九三(明治二六)年五月三〇日(旧四月一五日)座敷牢を出た開祖は、身をおく家もなかった。末女のすみは、一年ばかり前から八木の福島家へ子もりの手伝いにやり、その後、王子の栗山家にいたが、ふたたび福島家にもどっていると聞いて、開祖も八木にでかけ、福島家で、すみとともにすごすこととした。
旧五月に入ると、また帰神状態となって「来春から、からと日本との戦いがあるぞよ」とさけびだした。一年ばかり前から日清戦争のおこることを予言したのである。またあるときには、だるまの霊がかかって「仏になりてこの世の守護をしておりたなれど、神道へ立ちかえる」とのお示しがあった。またこのころ、福島家で時計が止まってどうしてもなおらないので、三女のひさにたのまれて、神さまにお願いすると、時計はひとりでにすぐカチカチと動きだしたという。
開祖は、入牢中の衰弱もようやく回復したので、糸ひきなどして、その収入で衣類をととのえ、すみをつれて九月一三日綾部に帰った。大槻鹿造の宅に泊り、賃仕事などで口すぎをしていたが、ほどなく、また、一〇才のすみを私市の大島万右衛門方に奉公にだすこととした。身軽になった開祖は、ふたたびボロ買いなどのあきないをはじめた。このころから、たのまれて、神に祈願をすると病気がなおり、また、病気になった人が綾部の方をむいて手をあわせ「綾部の金神さん」ととなえると、すぐ平癒するというような、おかげが立つようになった。こうして綾部の近在では、開祖を信ずる人々が、しだいに多くなってきた。神は開祖にたいし「この神は病気なおしの神ではない、しかし今のうちは病気も直してやらんと神をよう分けまい、病人はおがんでやれ、おかげはやる」と告げられた。この年から筆先がではじめた。