一八九四(明治二七)年旧五月八日(新六月一一日)には、「から(唐)へ行ってくれい」との神示があった。唐(中国)がどんなに遠いか開祖にはわからない。「ほのぼのと出て行けば心さびしく思うなよ。力になる人、用意がしてあるぞよ」と筆先が出たので、出て行けば、だれか外国へつれて行ってくれるだろうと思い、わずかの路銀を用意して、ただ一人綾部を出発した。八木に着くと、戸倉の吉五郎の妻ときから、天竺(インド)まででもおともしたいとの申し出があったので、ときの来るのを待つうち日がたっていった。七月一〇日(旧六月八日)ようやく八木を出立、亀岡の金光教会に立ちより、ついで王子で泊り、ときと共に京都にでて天理教河原町分教会をおとずれた。七人の「先生」にあい筆先を見せたが、まもなく、はげしい帰神となり、見分けがつけられないまま宿に引きあげた。ここで筆先が出て「もう帰れ」とのお告げがあった。開祖は、不服であったが、神命のとおり、王子まで引き返した。「出口、唐へ行けと申したが、行くか行かぬか気をひいてみたのじゃ」との神示である。そのあと、保津で人助けをしながら糸引きをして、九月に綾部へ帰った。この年五月、韓国に東学党の乱がおこり、諸国が出兵した。これにたいし、日本も出兵して、七月日満両軍は戦端をひらき、八月一日に日本は清国にたいする宣戦を布告した。このような日清戦争勃発の時期に、開祖に唐行きの神命があったのであり、日清戦争の予言にも、この神命にも、当時の朝鮮における権益をめぐっての、清国にたいする緊張した社会的雰囲気が反映している。
〔写真〕
○天理教会河原町分教会(現京都市河原町二条下ル) p98
○日清戦争はじまる(黄海海戦) p99