僧侶あがりの同僚と激論して、とうとう月給二円の教職を棒にふった喜三郎は、一八八五(明治一八)年、一四才の秋から、隣りの家の斎藤源治という豪農の家に奉公をした。当時の地価割・戸数割村費負担額についてみると、上田吉松の家の負担額七銭四厘(半年分)であったのにたいして、斎藤源治の家は、その六一・四倍にあたる四円五四銭を負担しておる。また、穴太村の「戸別等差帳」をみると、一二三戸を一三組(七四三〇点)に分けているが、斎藤源治一族が上位三組(二二〇〇点、全体の約三〇%)を占め、一二組以下の救助を要する「貧民」は、実に三六戸の多きをかぞえている。上田吉松は一一組に属しているが、貧富の差はそこにもはっきり見出される。その翌年、はからずも、社会にたいする批判精神の最初の爆発ともいうべき事件がおこった。
上田家の屋敷の裏鬼門には、俗に「久兵衛池」という先祖がきずいた潅漑用の池がある。これまでに、この池で溺死したものが村内に幾人かあり、上田家でも代々女が七人も溺死しているので、たたり池ともよばれていた。喜三郎も六才のときあやまって落ち、危いところを祖母に助けられたことがあり、弟の幸吉も溺死しかけたことがあるので、父吉松は思いきって池を埋めてしまおうと決心した。田圃の少なくなった上田家にとっては、もはや用がなくなっていた。しかし、この池から田に水を引いている村人にとっては、池がなくなることは重大な問題であり、いっせいに反対の声をあげ、上田家と村人とは真正面から対立してしまった。
村の有力者たちは、斎藤源治宅に集まって対策を相談した。ちょうどその日、奉公先の源治の家の仕事をすませ、はきものをつくっている喜三郎の耳に、玄関の次の間で、聞こえよがしに、大声で村内有力者たちの協議している声がきこえてきた。きき耳をたてていると、「吉松が池を埋めるというならば、こちらには困らせてやる手段がいくらでもある。元来吉松という奴は、愚直なうえに文盲で貧乏者の子だくさん、年寄りまでいるのだから、地主同盟の上役が、吉松の小作の田地をみなとり上げてしまえば、明日から食うに困って乞食でもするよりほかはないだろう。上田の所有地を実測してみると、二四坪ばかり多くなるから、あの池は村のものだといって、無理に取り上げようではないか。よもや、あの貧乏人が裁判所へ訴えるようなことはしないだろう。わずか一畝足らずの池のために、家屋敷まで捨てるようなことはいたすまい。そのうえ吉松は、村中調べたら方々に金や米の借りがあるだろうから、すこしでも貸しのある者はそろって催促して、一泡ふかすのも面白かろう」などと語り合い、「喜三郎にも暇を出して困らせてやったらよかろう」などと斎藤源治をたきつけていた。
やがて、村人たちは酔っぱらって引きあげたので、喜三郎は、家に帰って善後策をたてようと考えていると、主人の斎藤源治が「ちょっと居間まできてくれぬか」と時分の部屋へ招いた。主人は「お前はいま非常に激昂しているようだが、心を静めて私のいうことを聞いてくれ。村の人はあんなふうに申し合わせているから、お前の父が頑張って抵抗するようなことでは、この先どんなことになるかも知れぬ。そうなるのをみるのは、私もつらいから、家へ帰って両親に得心するように、よく話してやってくれ」という。喜三郎は一言もこたえずに一心に神を念じ、「どうか今回のことについては理非曲直を明らかにして、父母の苦衷をお救いください」と祈った。ようやく決心がついた喜三郎は「こういう悪人どものばっこする村には住みたくない。一家をあげて乞食になろうと餓死しようと、かまってくださるな。私たち親子はあくまでも正義のために戦います」と主人にいい放って暇をとってしまった。家に帰ってみると、両親は思わぬことのなりゆきにひどく心痛していたが、喜三郎は「いまに神さまのお助けをあおぎ、正邪を明らかにしてご安心させますから」となぐさめておいて、その夜のうちに、亀岡に住む伯母の岩崎の家へ行った。いちぶしじゅう話をすると、伯父伯母も非常に憤慨して「よし、そういう次第なら正々堂々と戦え、万一の場合はわれわれが引きうけてやる」といってくれたので、喜三郎は百万の味方をえたような心持で勇んで帰宅した。
翌日久兵衛池の件について、村の金剛寺(臨済宗)の広間で総寄り合いが開かれた。喜三郎は父の代理となって出席し、一〇〇余戸の戸主が集まっているなかで堂々と主張をのべた。小作人たちは口の中で「かわいそうに無理やなあ、非道やなあ」とつぶやくばかりで、有力者のご機嫌を損じないように、だれも反対をとなえなかった。だが喜三郎はあくまでも神助をたのみに、上田家の権利を主張しつづけた。村人もこの勢いには敵しがたく「それでは年々報酬を出すことにして、借りるわけにはゆくまいか」と折れてでた。結局村が毎年玄米一斗五升を出して池を借りることとし、契約書をとりかわして、久兵衛池事件はようやく落着した。のちに、聖師は「余はここに神力の高きを覚ゆるとともに、ますます下流貧賤の人民の境遇と惨憺たる生活を知り、救世的の大決心を定めた……」と『本教創世記』の中でのべている。喜三郎は、この事件をつうじて反抗と社会批判の精神をいよいよ強くした。そのことは、そのとき村人に、喜三郎が「米がほしくて池を埋めようとしたのではない。あなた方が地主という権力をタテに小作人をいじめようとしたからだ。わかってくれたら、それでよい」と説いたと、村の古老が語っていることからも推察できる。やがて喜三郎の心は、社会批判から次第に救世への悲願にむかってゆくのであるが、村人たちは、この事件以来、喜三郎に一目も二目もおくようになったという。
〔写真〕
○当時の「地価割・戸数割村費負担額」帖 p118
○奉公先での喜三郎の部屋(斎藤源治宅の門脇) p119
○久兵衛池 玉の井の池に関して村びとの圧迫つよく窮地におちいる p120