上田家の生活は、そののちも少しも豊かにならず、小作田の一部も人手にわたり、その日の米にも困るような、どん底の生活がつづいた。喜三郎の人間形成のあとをたどってみると、このころから、一八九六(明治二九)年ごろまでの間は、貧窮のなかで、生活を打開しようとする精いっぱいの努力が、たえずたくましい向上心にささえられてくりひろげられていた。
久兵衛池事件後、喜三郎は父の農事を手伝い、かたわら近所の家の使いあるきをしたり、山で薪を刈り、薪や種粉などを京都伏見辺まで荷車ではこび、わずかの賃金を得て家計を助けていた。穴太の田舎から二四キロもある京都へ出るのだから、ひととおりの労苦ではなかった。喜三郎は、よく真夜中の老ノ坂峠道を車を引いて往来したが、雨や雪の日は、かくべつ苦しかったようである。当時の友人の話しによると、本を読みながら、車引きをしたので、よく文句をいわれたともいう。〝何故にわれかくのごとく不遇なる家に生れしかとかこちてもみし〟。これは、のちに聖師が当時を思いおこしてよんでいる歌のひとつである。封建社会の因習が強く根を張っている当時の農村では、小作人の生活は実にみじめなものであった。小作人のせがれとして生まれ、貧苦の中に成長した喜三郎は、差別されている現実を身をもって体験していった。
喜三郎は、幼少のころから青年期まで、いつも反抗の夢をえがいて、無言のはげましを受けとっていたものに、亀岡盆地の要地に位置する亀山城址があった。亀山城は、約三〇〇年の昔「反逆者」の烙印を押された明智光秀が、口丹波の領地を治めるため、いまの亀岡市荒塚町内丸の小高い丘にきずいた居城であった。喜三郎が幼い頃にはまだ天守閣があったが、一三、四才のころにはもう天守閣がなくなり、わずかに、光秀の手植の樹とつたえられている公孫樹の大木と、角やぐら、石垣だけが残っていた。当時を想起して聖師がよんだ歌に、〝いとけなき頃は雲間に天守閣白壁映えしをなつかしみける〟。〝暇あれば亀山城址に忍びゆきて無言の銀杏といつも語れり〟。〝待てしばし昔の城にかへさんと雄たけびしたる若き日の吾〟がある。喜三郎は亀山城が心ない人の手でつぎつぎに破壊されてゆくのが、よほどくやしかったらしく、城内に建てられたほこらに向かって「お前は神さんならなぜ罰をあてんか。しっかりしろ」と大声でどなったことがあるという。
喜三郎は神仏の力を信じたり、うたがったりしていたが、なんとか生活を立てるためには勉強が第一だと考え、昼間の疲れを苦にもせず、金剛寺で開かれていた夜学にかよって、漢籍や経文を習った。また穴太寺では毎月、通夜講があるので、喜三郎は念仏のあと法華経普門品と観音経を解説して、参詣者を感激させた。こういう噂がひろがって、このころ本門仏立講から、ぜひ来てほしいとのさそいがあったという。しかし、喜三郎はかねてから、神道に心をひかれていた。そして、矢島某から『日本書紀』、『日本外史』の個人教授をうけ、ますます、日本古来の神道にたいする関心を深めるようになった。勉学に情熱をもやしていた喜三郎は、仕事の合い間をみては共有林の青柿をとり、その渋をしぼって町で売り、本を買って勉強したりした。
しかし、父は喜三郎のこのはげしい勉強ぶりをよろこばなかった。それは、「孫(喜三郎)にあんまり学問をさせると家を継がなくなる」との祖父の遺言が気になっていたからでもあった。喜三郎が本を読んでいると、「そんな暇があるなら百姓仕事に精をだせ」とか、飯より好きな絵を描いていると、「絵をかいてなんの役に立つ。極道め」としかりつけた。そこで、喜三郎は、父母のいない時を見ては勉強するようになった。
〔写真〕
○喜三郎の勉学 弱ければ踏みつぶさるる世と知りて心の駒をたてなほしたるも p121
○ありし日の亀山城天守閣 p122
○禅宗 金剛寺(応挙寺ともいう) p123