喜三郎は父の死後、わずかの間に前後九回も、土地の侠客を相手に衝突をおこし、無頼漢から恨みを買ってしまった。その九回目の出会いは、一八九八(明治三一)年二月二八日(旧二月八日)の夜におこった。二七才の喜三郎は、大石某の家で開かれた浄瑠璃の温習会に加わり、かみしもをつけて「絵本太功記、尼ヶ崎の段」を語った。この時、かねて、喜三郎が喧嘩の仲裁に入ったために顔がつぶれたと、そのことを遺恨に思っていた宮相撲取りの若錦が、四、五人の子分をつれて、藪垣をおし破ってあばれこんだ。そして喜三郎を高座から曳きずりおろして、近くの桑畑へかつぎこんで袋叩きにした。それを聞いた浄瑠璃仲間で「ウソ勝」と仇名されている男が、二、三人の手下を引きつれて割り込み、暴漢を追い散らして喜三郎を助け出し、精乳館へつれ帰った。これを聞いた弟の由松は、兄の敵だといって、棍棒を持って若錦の処へ出かけたが、反対に打ちすえられてしまった。
喜三郎は、祖母や母にいらぬ心配をかけまいと、郷神社(現、神明社)の前に借りうけてあった小屋(喜楽亭)に傷つけられた身をかくした。翌朝母がそのことを知って、小屋にやってきてくやんでいると、つづいて、当時八四才であった祖母宇能が入ってきて、「お前は最早三〇才に近くもなって、物の道理のわからないはずはあるまい。侠客だとか人助けだとかいって、たまに人を助けても、助けたよりも一〇倍も二〇倍も人に恨まれ、自分の身に災難がかかってくる。お前は人をくじいて弱い善人を助けるのが、男の魂じゃというておるが、鬼神なれば知らぬこと、そんな病弱な身体ではできることではない。今年八四になる年寄や、一人の母や小さい妹のあることを忘れたのか。この世に神はないとか、哲学がどうのと、カラ理屈ばかりいって、神様にもったいないご無礼をしたむくいがいまきたのであろう。昨晩のことは全く神様のお慈悲の鞭なのだから、若錦や他の人を恨んではなりませんぞ。一生の恩人じゃと思って神様にお礼を申しなさい。お前の父は霊界からその行状をみて行く処へもよう行かず、魂は宙に迷うておられるにちがいない。どうか心を入れかえて誠の人間になってくれ」と、痛みをこらえている喜三郎にじゅんじゅんとさとした。さすがの喜三郎もはらにこたえ「改心します。心配をかけてすみません」と心の中でわびた。老いた祖母と母が帰ったあとで、喜三郎は「子供の時から神を信仰しておりながら、最近神の道を忘れ無神論にはしり、父が亡くなればもう心配する親はないと、母や祖母の心配に気づかず、親不孝ばかりしたのは申しわけないことだった。自分に迷いがあり罪がありながら、人の善悪をさばく権利がいったいどこになるだろうか」と、しみじみと今までのことをふり返り、恥ずかしくもまた、恐ろしいような気になって悔悟の念にくれ、おもわず神に手を合わせ、わが身の罪をわびた。そして、自分の本分をつくし、言行一致の模範を世に示さねばならぬと痛感した。
後年、『霊界物語』の記すところによれば、このとき喜三郎はいつしか夢遊状態になり、「吾は空行く鳥なれや、……遙かに高き雲に乗り、下界の人がくさぐさの、喜怒哀楽にとらわれて、身振り足振りするさまを、われは忘れて眺むなり。げに面白の人の世や、されでも余り興に乗り、地上に落つることもがな。御神よ吾と共にあれ」と書き置いて、いずこともなく家を出て行ったという。翌朝気づいたときは、高熊山の岩窟の中で静座していた。また『霊界物語』には、われとわが身がわからないようになっていた時に、洋服をきた男が入ってきて、「自分は神の使である。疑わずついてくるように」と家をつれ出し、そのまま富士山へ連れて行かれたように思ったと記し、さらにその男は木の花咲耶姫命の神使、芙蓉仙人であったとものべている。
〔写真〕
○喜三郎の母・上田よね p142
○喜楽亭あと(郷神社社前の広場) p143