喜三郎は、人里はなれた高熊山の岩窟に静座していたが、ころは旧二月、寒空のもとで襦袢一枚となり、しかも、飲まず食わずの無言の苦行を一週間にわたってつづけた。喜三郎は、この七日間の修業において、神人感合の境地に達し、その精霊は現幽神三界をめぐり、宇宙の真相を体得し、ついに救世の使命を自覚したといわれる。この間の消息は、聖師以外の者はもとよりうかがい知るすべもないが、この修業から二三年後の一九二一(大正一〇)年に、高熊山での体験を基礎として聖師が口述した『霊界物語』には、つぎのように描写されている。(第1巻第3章)
高熊山の修業は一時間神界の修業をさせられると、現界は二時間の比例で修業をさせられた。しかし二時間の現界の修業より、一時間の神界の修業の方が数十倍も苦しかった。現界の修業といっては、寒天にジュバン一枚となって前後一週間水一ぱい飲まず、一食もせず、岩の上に静座して無言でおったことである。そのあいだには降雨もあり、寒風も吹き来たり、夜なかになっても狐狸の声も聞かず、虫の音もなく、ときどき山もくずれんばかりの怪音や、なんとも言えぬいやらしい身の毛の震慄する怪声が耳朶を打つ。さびしいとも、恐ろしいとも、なんとも形容のできぬ光景であった。
『霊界物語』によれば、このような状態のなかにいるとき、かたわらの小笹をかきわけて黒い動物が近づいて来たことがあった。夜眼にそれと分かりかねるが非常に大きな熊のようである。かねがね、この山の主は巨大な熊で、夜中に人を見つけると、八つ裂きにして松の枝に懸けてゆくということが伝えられていた。喜三郎は、今夜こそこの熊に引き裂かれて死ぬかも知れないと鼓動が波うったが、今となっては惟神にまかすよりほかはないと観念し、心を落ちつけることにした。すると、急に今まで恐ろしいと思った熊が、にわかになつかしくなった。そして、世界一切の生物に仁慈の神の生魂が宿っていることが、しみじみと感じられた。このような猛獣でさえさびしい時には力になるのに、まして万物の霊長である人においておやだ。世界の人々を憎んだり怒らしたり、侮ったりして、人をなんとも思わず、日々を暮らして来た自分は何とした罰あたりであったのか、たとえ仇敵悪人であっても神様の霊が宿っている。人は神である。いな人ばかりではない。一さいの動植物は皆吾々のため必要な力であり、たのみの杖であり、神の分身である。人間は一人だけで生活して行くことはできぬ。少しの感情や利害の打算上から、互いに憎みねたみ争うているが、これではいけない。人間は神さまである。人間をおいて力になってくれる神さまがどこにあるのか。神界では神が第一の力でありたよりであるが、現界では人間こそ我らを助ける誠の生きた尊い神である。人間を粗末に取りあつかうことは天地の神明にたいしたてまつり、まことにおそれ多いことだと深く悟ることができたという。
聖師は、霊的修業は現実的修業よりも何層倍も苦しかったのであるとのべている。一週間一さい飲食することができなかったので、のどはかわき空腹になり、岩上に静座していたために膝は折れんばかりであった。ふと松の梢から落ちてきた雨後の一滴を口にし、これこそ甘露かとおいしく味わい、水や空気のありがたさを知り、さらに天地の大恩への感謝を自覚することができたという。
なお、大本で信奉されている三大学則、
一、天地の真象を観察して真神の体を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを見て真神の力を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし
の三ヵ条は、異霊彦命から高熊山修業中に神訓されたものであるとされ、また産土の小幡神社における、深夜の祈願中に神授されたものとも伝えられる。
修業の場となったこの岩窟は、巨岩が露頭し、谷に面して切り立った崖の中腹にあって、喜三郎の幼時には、奥ゆきは相当に深く、入口の上方には四八の小さな宝座があったといわれる。現在では岩窟そのものもかなり埋まり、身をかがめてようやく入れるほどの奥ゆきになった。岩窟の前には、せまい平坦な場所があって、瑞生大祭には、毎年ここでおごそかに祭典が執行されている。
〔写真〕
○高熊山修業の図(中央の人物は喜三郎) p146
○1935(昭和10)年ころの高熊山岩窟 p147
○大本教碑 p148