母や弟たちは、喜三郎の姿がみえなくなったので、どこかへうさばらしに遊びに行ったのか、あるいは亀岡あたりへ散在に行ったのだろうぐらいに思って、はじめは気にもとめていなかった。しかし二日たっても帰って来ないので、牧場の経営にも困り、近所の株内(同族内部)の大騒ぎとなった。そこで、手わけして各方面をさがし、また、占ったりしてもらったが、神籠教会の中井伝教は「水辺に気をつけよ、はやく探さないと生命が危い。発狂の気味がある」といい、宮川の妙霊教会の西田清記は「言い交わした婦人と、東の方へ向けて遠くかけおちしている。しかし一週間目に葉書が来るから安心せよ」という。また、篠村の弘法大師をまつる「立枝の地蔵さん」は「この男は神かくしにあったのだ。悪い天狗に魅せられたのだから生命に別状はないが、法外の大馬鹿者か気ちがいになって、一週間後には帰ってくるから安心せよ」という答えで、さっぱりつかまえどころがなかった。
みんなが案じているところへ、一週間目の三月七日(旧二月一五日)正午前に、喜三郎はひょっこり宮垣内の自宅にもどってきた。家族や親戚の者は愁眉をひらいて「いったいどこへ行っていたのか」と尋ねたが、「神様に連れられて、ちょっと修業に行ってきた」と簡単に答えただけであった。喜三郎はにわかに空腹を感じたらしく、冷たい麦飯を二、三杯かきこむと、こんどは急に眠気をもよおして一昼夜ぐっすりと寝こんでしまった。
翌八日の午後やっと眼がさめ、さっそく産土神社と父の墓へ参ったが、九日になると朝から四肢が硬直状態になってしまった。耳ははっきり聞こえるのに、口もきけず眼も開かず、身動き一つすることもできなかった。感覚はあるが、だれがみても昏睡状態に見えるので、一同は心配して柿花(現亀岡市薭田野町)の吉岡医師をよんだ。医者はもう見込みがないといって帰った。それでは、というので、天理教の明誠教会の斎藤某や、京都の誓願寺の祈祷僧が招かれ、狐つきだろうと祈祷をしたり、題目を唱えたりするさわぎになった。皆の心配が喜三郎にはわかっていても、身体の自由がきかないので、されるままになっているよりほかはなかった。ついには父の墓に参ったのがおかしい、狸がついたのにちがいない、ということになって、唐辛子を青松葉といっしょにくすべて、その煙を鼻の穴にあおぎこもうとした。母のよねは、びっくりして涙をながし、大切な息子がいぶし攻めになるのをとめようとした時、喜三郎は、やっと身体が自由になり、言葉もでるようになった。
〔写真〕
○聖師とその弟妹 左より 幸吉 きみ 由松 聖師 西田元教(ゆきの夫) 政一(小竹玖仁彦) ゆき p151