上田会長をともなっての開祖の冠島・沓島開きは、会長排斥をつづけていた役員たちに、かなりの衝撃をあたえた。かれらは、冠島まいりはできても、沓島開きはきっと中途から引きかえしてくるに相違ないと、たかをくくっていたのである。そこで、老人や若い娘の行けるところへ自分らが行けぬはずはないと力みだし、むりやりに会長に案内をたのんだ。会長はじぶんを攻撃するたくらみのあることを察してはいたが、ことわるのは卑怯だとおもい、神の加護を祈って、八月二二日(旧七月二八日)、中村竹蔵ら二一人で冠島・沓島の参拝にでかけた。出発にあたり、開祖は会長にたいして、今度の参拝はよく神様にお願いして参拝するよう、万一の場合にはと密封した筆先を授けた。舟が冠島に近づいたころ疾風にあい、四艘の小舟は木の葉のようにもてあそばれ、一同は顔色を失ったが、会長は舟舷に立って一同をいましめた。そして日の丸の扇を開いて祈願すると、浪風が静まり、無事冠島へ到着することができた(『玉の礎』)。しかし、ついに沓島にはまいることができなかった。帰路は二艘ずつ舟を組み合わせ、荒浪を乗り切って帰ってきた。しかし、この日は陸上も強風であったので、開祖はその行路を心配して、四方平蔵・四方春三を舞鶴まで迎えにだし、綾部では一同が祈願していた。会長はこのとき鎮魂の神法で風を静めた(『霊界物語』)といっており、役員の中には、御幣が天から降ってくるのをみたといって、改心を誓う者もでてきて、会長攻撃をたくらんでいた事前の計画は失敗に帰した。
一九〇〇(明治三三)年八月二五日(閏八月一日)、会長は穴太から西田元教(一八七二-明治五年八月和歌山県に生まれ、鍛冶職西田の養子となり、会長の妹ゆきと結婚した人で、一九五八-昭和三三年三月大阪で帰幽した。八六才)が危篤であるとの通知をうけ、木下慶太郎をともなって穴太へ帰郷すると、西田は熱病にかかり重態であった。さっそく神前に祈願をすると、商売がたきから呪い釘を打たれていることがわかり、その釘を抜きとると熱がさめ、二ヵ月余にて全快したという。これ以後、西田は信仰の道に入るようになり、会長とともに大本の宣伝に従事することとなった。
会長が綾部に帰ってみると、会長の荷物一さいが荒縄でたばねられ投げだされていた。四方祐助をよんで委細をたずねてみると、役員らが開祖に無断で、会長を追いかえして、四方春三(一八八二-明治一五・二・二二~一九〇〇-明治三三・一一・一三)をあと釜にすえようと、位田の村上新之助の宅で相談していることがわかった。役員らは陰謀が露見したので、善後策をこうじ、四方平蔵に謝罪してもらい、この問題はけりがついたが、依然として、自分が大将となって大本を自由にしようとする野心家や、いわゆる開祖派で、会長をみとめない者たちが一つになった会長排斥をつづけていた。
会長排斥運動の背景には、金光教と一体になった古い信仰を維持しようとする信者層と、大本独自の思想を全面的に展開しようとする立場との争いがあった。大本は表面的には金光教会の一支部として出発し、大本の神は、金光教とその布教師や信者たちの手を通じて世にだされるものであるというのが、上田の大本入り以前における開祖の立場であった。だが金光教側は実際は開祖を利用しただけで、大本の神について少しも理解しておらず、大本の神を世にだそうとしていないことを知った開祖は、前述したように、一八九八(明治三一)年ごろから金光教を離れて、独自な活動を始めなければならないと考えるようになっていた。そこへ登場したのが、神を審神するという上田であった。上田は大本の独自な神を見わけ、世にだす使命をになったのであるから、金光教側の旧信仰と旧い体制を維持しようとする人々が、上田に対立することになったのである。
対立はすでに上田が大本入りした時から存在していたが、それが一つの頂点に達したのが、冠島・沓島開きから帰ったころであった。そしてついに、荷物をまとめて上田会長を追いだそうとするところまでいったのである。上田は、のちに西田の病気を見舞って綾部にもどってきたときのことを追憶して、〝わからずやの金光教の信徒のみゐる綾部をば去らむと思へり〟と詠っている。上田は主要な信者から排撃されて孤立無援の状態であった。しかし開祖の立場は、こうした信者の動向とは違っていた。金光教にたいする批判は、すでに一八九六(明治二九)年ごろよりはじまっていたが、一九〇〇(明治三三)年八月はじめごろからの筆先は、ますますきびしく金光教を批判するようになった。しかし、金光教への批判は、かならずしも金光教の神や教義に向けられたのではなく、その布教師(取次)らに向けられていた。とくにこれまで開祖を苦しめてきた布教師足立をはげしく批判し、同じく杉田や南部も「今は鬼か邪心の心になりておるぞよ」と批判された。同じころの筆先には、「金光教の教は結構なれど取次が慢心致して、金光教の教守りておる者はないゆえ、金光殿は気の毒ざ」(明治33・旧8・10)とのべられている。布教師(取次)が「慢心」をおこし、神をないがしろにして我欲のために布教しているから、真実の神は世にあらわれないのであり、大本の神は三千世界の主宰神であるが、しかし両者は対立するものではなく、むしろ協力すべきであるのに、布教師たちの堕落のために、大本は金光教から分離し独立しなければならないということにもなる。かつては、「金光殿は元金神であるぞよ。手を引き合うて行かねばならぬ広前であるぞよ」(明治30・12・6)とのべて、足立・青木などの金光教布教師の活動に期待した開祖は、金光教そのものはそれでもなお高く評価しながら、その実践を担当する布教師たちに深く絶望して、金光教から全面的に分離しようと決意したのである。この地方に展開していた各宗教にたいする批判は、金光教にたいするのとほぼ同様に、主として取次の堕落に向けられていた。「天理・金光・黒住・妙霊、皆この大望があるゆえに神から先に出したのであれども、後の取次は神の心がわからんから、皆教会に致してしもうて、神の思惑は一つも立たず、口糊の種に神を致して、……教会の布教師よりも平の信者の方に誠があるぞよ」(同・旧8・11)という筆先は、そうした開祖の立場を物語っているし、上田もまた当時の各教会と布教師が、いかに堕落しているかをくり返しのべている。しかし、こういう批判は、他教団に向けられただけではなく、大本の内部にも向けられていた。大本の神が偉大な神であればあるほど、この取次たちも世間普通の取次のようであってはならず、とくに改心した「因縁の身魂」でなければならないのに、みな誠がなく「我」をだして争っている、というのが筆先の立場であった。大本が発展するためには取次たちが改心し、心から神業に奉仕することが必要であるとされた。
開祖からすれば、上田会長こそ、これまでのような金光教の布教師たちとことなって、大本独自の神を世にだしてくれる人物であったから、上田は筆先を説いて聞かせる役であるとされ、上田の霊学は筆先とならべて重視されもしたのである。だから金光教側の上田会長排斥運動において、ただ一人上田会長を守ったのは開祖であったが、開祖の立場は一方的に上田を擁護するだけでなく、上田もその他の人々もともどもに、改心し協力して大本の発展に努力することであった。
会長とその他の人々との対立の背景には、客観的には思想ないし教義上の対立があったが、筆先はそれを改心の問題としてとらえ、会長も役員も苦労と修業が足りないからであるといましめられたのである。
〔写真〕
○冠島の老人島明神 p214
○冠島へ出修したときの記名帳(出口鬼三郎 大の字さかさま 黒丸のなかは㊉になっている) p215