すでにのべたように、出修のはじまりのころには、開祖は、会長を排斥しようとする信者たちの間にあって会長を擁護してきたが、出雲参拝後はしきりに会長を攻撃する筆先を出し、会長もこれに対立して争った。この対立の直接の原因は、公認教問題で、会長が開祖の反対をおしきって稲荷講社の傘下にはいろうとしたところにあったが、対立そのものは公認教問題がひとまずおちついてからも、ますます強まってくる。
開祖の立場からすれば、会長が大本を稲荷講社の下部組織にしようとしているかにみえることは、まったく納得できないことであった。開祖は、はじめ金光教から独立して大本独自の神を世にだすために、稲荷講社に大きな期待をよせ、「駿河の本部でよい」とのべ、筆先でも霊学について「これからは緯のご用は会長にさすが、緯のご用と申すが霊学であるぞよ。この霊学を天照皇大神宮さまから授けなされたのは、本田親徳どのでありたなれど、この霊学ばかりでは、ものが大きすぎて、なにほど霊学にいつまで凝りておりたとて、霊学ばかりではつかまえどころがなくて、開きかけてもへたりてしまうぞよ。艮の金神の筆先は、昔からの因縁がどんなこともわかるなり、筆先と霊学とあわせねば、ものは成就いたさんのざぞよ」(明治34・3・7)とあって、その役割を評価していた。しかし、この立場は出修が進むにつれて、しだいに「この綾部の大本を下に致して、稲荷講社でやろうとはえらい間違いできた」(明治35・旧4・7)と会長を攻撃し、「艮の金神は稲荷講社の下にはなれんから、この方で一派立てるから」(明治35・旧4・6)と会長の改心をせまるなど、稲荷講社をはげしく非難するように変化していった。このような批判の根拠には、いうまでもなく大本の神の独自な偉大さにたいする信仰があったが、他方において思想的にも、日常の信仰生活においても、稲荷講社とはあいいれない面があったからである。ややのちの筆先には「稲荷講社は世のしまいの一番乱れたやり方……じだらくな見苦しきやり方」(明治36・1・9)とのべられているが、世界を根本から立替え立直そうとする大本の教には、ふさわしくないものにみえたのである。
稲荷講社にたいする非難は、会長の日常生活にたいする非難とも結びついていた。勤倹実直の典型のような開祖からすれば、自由奔放な会長の行動は、神に仕えるものにふさわしくないものにみえた。開祖は、大根の赤葉一枚も粗末にもせず、極寒のときも神のご用とあれば火鉢を用いず、座布団さえ敷かぬことがあり、寒中でも水行をしたが、会長の眼からみれば、役員らがくり返しおこなう水行なども、身体を潔めるなら暖い風呂でもよいのであって、改心は心の問題であり、いくら水行によって身体を潔めても、心を潔められるとは限らないということになる。ところが当時の教団にあっては、こうした寒中の水行などがきそっておこなわれていたのであって、それは会長の進取の立場とは相いれなかった。洋服を着るな、靴をはくな、肉食をするな、などという意味の筆先は、西欧文明と資本主義的文明化に対するはげしい批判の即物的な表現であったが、これらも一般信者には文字どおりにうけとられて実践された。そして、それらがすべて素朴に生活のうえに具体化された。こうした状況を回顧して、後年の聖師は〝開教十年綾部本宮の大本は迷信頑愚の集ひなりけり〟〝大勢を知らずにさわぐ忠臣と自称義士とは世を乱すなり〟(歌集『浪の音』)などと追懐しているが、教義の具体的な開明化をめざす会長にとっては、この「迷信」と「頑愚」とは憂うべき問題であった。歌集『浪の音』などにおいて会長は、当時の信者を「迷信家」「頑愚」などの言葉でくり返し特徴づけており、このような迷信性のゆえに教団は発展性と、社会性を欠くと心痛していた。
会長のもっとも初期の著作と考えられる『玉の礎』(明治33・12)には、「せいどをあらため、封建をはいして郡県をたて、……民けんをひとしふしぶっさんをふやし……」その他、文化的に日々改良されてゆくことを支持しており、旧習をわすれない人民は、これらの改良に不平をとなえ、「一令のくだるごと、その害あることをといて、そのくにのりゑきをとなえず、さとらず」と、その「頑愚」を指摘し、むしろその点では政府の開明政策を擁護していた。そこには「開明化」が政府の指導のもとにおこなわれ、民衆はむしろ古いならわしを守ることによって、自分の生活を維持しようとする近代日本の悲惨な現実が反映している。
迷信性の問題は、教義の展開にさいしての前近代性の問題にもかかわるものであった。会長に指導された金明霊学会の理念と、一般信者の信仰との間にはかなりの距離があった。一般信者は筆先を字句どおりそのまま信じたから、かれらは西欧的な文化はもとより学問や文化一般を否定し、神示に根ざして、国学や神道的用語を用いて教義の体系化をはかろうとする会長に反対した。会長は〝天地の誠の道を地の上に布かんと思へば学者も要るなり〟(『浪の音』)と詠んでおり、大本の社会的進出のためには、当時の時代思潮とふれあう、論理的な説得力をもつ教義体系がぜひ必要だと考えたのである。
弥仙山ごもりは、開祖と会長の対立の決定的な局面を示す行動であったから、こののち役員たちは、開祖が弥仙山へこもったのは会長の改心ができぬからだ、変性女子は大本の中でご用してもらわなならんお役とあるから、でてもらうわけにはいかないが、小松林は帰ってもらいたいと、理由のわからぬことをいってますます会長を攻撃するようになった。
筆先には「善と悪とをこしらえて男子(開祖)は縦役で、女子(上田)の役は横役で、横は色々と変わる御役、女子の身魂はこの世はこういう事に乱れているのを実地にして見せたなり」(明治36・旧5・18)とあり、さらに「世に現われて世の立直しをいたす神と、このままで何時までも続かして行こうとする神との戦いであるから、この大本はむつかしいのじゃぞよ。今度は今までに世に出ておりて世を持ち荒した神と力競べをいたすのであるから、今は神界では神と神との大戦争であるぞよ。この綾部の大本は世界に出てくる事を、前に実地の型をして見せてあるから、十分に気をつけて考えておくがよいぞよ」(明治35・旧4・3)とあって、この争いは神と神とのたたかいの型であり、世界の型をしてみせるものとしていた。また「こんどは神と学との力くらべであるから、負けたら従うてやるし、勝ちたらば従わす仕組みであるから、日本と外国の戦いが綾部の大本にはして見せてあるから、男子(開祖)と女子(上田)との戦いで、世界のことが分かる大本であるぞよ」(明治35・旧8・21)とあるように、日本と外国との戦いのかがみが大本のなかにうつり、開祖は神の立場、日本の立場であり、上田会長は学の立場であり、外国の立場であるとした。
開祖と会長が神懸り状態となると、たがいに雄叫びして激しい様相となるが、神懸りがおさまると、いつもの親しい親子の状態にかえるので、役員・信者にはこの争いがなんのことかほとんど理解できなかったのである。
なお筆先にある「変性女子」とは男霊女体、「変性女子」とは女霊男体の意である。