大日本修斎会の本格的活動の開始にともなって、王仁三郎の役割はますます重要となってきた。とくに、開祖からは「今後他出相成らぬ、綾部に居るように」と、きびしく申渡され、会活動にとって、王仁三郎は不可欠の存在となった。王仁三郎の帰綾の必要性は、日時の経過とともに切迫してきた。当時、開祖は、大本が他の教団の下部教会となることについては、当局の干渉や圧迫を避けるためには、やむを得ないこととされていた。したがって、大成教の祭壇は大島の家の階下に設け、大本の祭壇はこれを階上に設けて、大本の神の祭壇が、直接官憲の目にふれないように配慮されていた。
一九〇八(明治四一)年一二月八日には、大成教直轄直霊教会の開教披露式が挙行され、あわせて大本秋季大祭が執行された。当日の参拝者は「百名ばかり」(大本行事日記)と記されている。前(明治四〇)年の秋季大祭には、出口家の家族をあわせてもなお、参拝者がわずか二〇名に満たなかった実情とくらべれば、王仁三郎のはたらきが、いかに多く寄与したかを知ることができる。
王仁三郎は、前にものべたとおり、亀岡から福知山へかけての丹波路では、かなり早くから霊術者としてひろく知られていた。たとえば、園部町に住む奥村某の思い出話が、浅野和三郎の筆になる「出盧」に紹介されているが、それによれば、奥村は浅野に「あの方(王仁三郎)のいう世界統一たらいうホラのようなととは、手前どもは阿呆らしうて聞いておれませんが、しかしあの霊術、だけは確かなものでござります」と語っている。そのように、王仁三郎の霊術に心服しているものが相当にあった。
王仁三郎は、綾部に口丹波に、あるいは京都・大阪にと、道の開拓につとめている忙中にあって信者の指導につとめた。一二月一一日付の書簡によれば、湯浅斎次郎らにたいし、詳細な指示をあたえていることがわかるが、それなどは、その指導ぶりの一端を示すすものである。湯浅は京都府北桑田郡宇津村字下宇津の地主で、材木業を営み、農会長などつとめ、以前は妙霊教会の信者であったが、王仁三郎直筆の教説書をよんで深く感動し、前(明治四〇)年の一一月に入信した人である。それ以来、宣教の面ばかりでなく、経済的にも王仁三郎の有力な支持者となった。その湯浅にたいして、居住地の周山警察署から「辞令、雑誌、供金持来り五日に出頭せよ」との達示があったのである。それについて、対応策を湯浅あての信書の中で次のように記している。
一、祈祷禁厭は本教教規に依りて執行差支なし
一、修斎会辞令は神社宗教以外の学術研究団体なれば是も又差支なし
一、「本教講習」第一回より四回迄は、雑誌でも新聞でも書物でもなし只会員が集りて学術を研究する学科にして、只敬神の道に関したる古今の書より抜萃して、手で書く代りに印刷に附せしのみ、第五回迄完成の上一部の書籍として届出づる都合
一、直霊教会の信徒総代とか献金とかの受領書も、個人の信仰に由りて設立費又は幣吊料として奉納せしものなれば強制的にあらず、任意の奉納なれば差支なし
一、神界の秘は他言すべからず、警官に流言浮説と見做され、社会よりも中傷さるる恐れあれば、是又慎しむ可き事に候
一、何事も警察へは神秘的な事は言はぬがよろし
このように、警祭にたいする回答や態度につき、慎重かつ綿密な指示をしているのである。なお、右のような警察の干渉もあって、「本教講習」は四回まで発行し一二月で廃刊された。
王仁三郎は、大日本修斎会にとって、いまや、もっとも重要な人物となった。そこで、ついに意を決し、一九〇八(明治四一)年一二月の下旬、綾部に帰って教団づくりに専念することとした。
当時の国内外の諸情勢は、まことに容易ならないものがあった。憂国慨世の情おさえがたく、同志と相語らい、国家を安泰ならしめようとする王仁三郎の活動は、帰綾を機として一段と活発化する。「世の立替え立直し」を念願としていた王仁三郎が、日露戦争後の国内外の騒然たる情勢を黙視しうるはずはない。京都の建勲神社に奉仕したのも、また御嶽教にはいって活動したのも、彼のいう「斯道家」と協力して、道義的に国家のためにつくそうとした側面の具体化であった。しかし、当時の神職のほとんどは、「一身一家の名利栄達をはかるより外に一片の報国心を有するなく」(「直霊軍」)堕落頽廃して無気力であった。
御嶽教にうつったのは、「年来主張せる皇道霊学に拠り天下に雄た飛せん」としたのであったが、「腐敗堕落の極に達せる部内数万の教師は、却って正義公道を忌み憚るるが如く」で、「斯る教派に一身を托するも労して功無きのみならず、恰も台風に軽舶を馳せて岩礁点綴の間を進行するが如く、派内の廊清は思ひもよらぬ難事にして、今日の場合、自然の成行に任すの外、道なしと断念し、茲にいよいよ独立独歩、従来唱へ来りし皇道霊学会の主旨により、其組織を改めて云々」(「直霊軍」)とのべているように、彼の大日本修斎会創立の意欲は、まことに意気さかんなものがある。かつて、京都においては、余暇あるごとに、神道、各派等の宗教・教派をたずねて同憂の士を求めたのであるが、ついに、何を得ることもできずに絶望せざるをえなかった。
「現行我国に行はるる神道宗教十三派の多きに達し其盛況は喜ぶべしと雖も、十中の八、九まで殆ど偽善者の団体にして、敬神尊皇愛国、救世安民等所在美名を楯に白日公々然不正不義を敢行し、所謂羊頭を掲げて狗肉を売る山師の巣窟なり」(「直霊軍」)と、憤激した口調で批判しているのをみれば、その態度が那辺にあったかが明らかとなる。しかも、そのうえ彼のこころをいためたのは、そのような既成教派の形骸化をぬって、「外教」すなわちキリスト教が急激なひろがりを示しつつあることであった。王仁三郎がみずから綾部にかえって、真剣に教団の組織化に専念しだした理由のなかには、以上のような「危機感」とそれに対処しようとする熱情がうずまいていた。
なお、湯浅斎次郎にあてた書簡の中には、次のような興味ある記述がみえている。
「拝啓毎々神界之一事に付御尽力の段奉謝候 小職事八木にて袂別以来京都大本庁(註、御嶽教)へ帰山、文学博士井上先生、宮内省掌典長宮地先生等に面会之上、綾部丑寅金神の神勅委敷物語り致侯処、上聞に達する迄少々時機早き感あり、因而云々の子順詳細承り候故、前途神威宇内に振ふ可く実に楽しみ多き事に御座候 大日本修斎会の趣旨は全く神意に合一し猶更結構なりとの教示有之、小職も非常に喜び居り申候 天の時致るを待ち、直霊大本修斉等の会名にて満天下を動かす目的成就眼前にあり、去ル十月十三日の御詔書(註、戊申詔書)は、全く丑寅大金神の去明治二十五年来の教示に適合せりとて、井上先生も非常に驚き居られ、一早く社会へ神示を発表したしと仰せられ候得共、肝心の教長殿(開祖は教長ともよばれていた)より尚早なれば見合せとの神示に付差扣へ申候 今の内に正義の士を糾合して有時の日、天にも代る大功を立てしめんとの神意にて、思へば思ふ程勿体なく言辞に尽し難く候」
これは一九〇八(明治四一)年一一月三日の書簡である。したがってそのときは、すでに、綾部では大日本修斎会がつくられ、着々と準備を進められていたときで、他方、王仁三郎が御嶽教大本庁にまだ籍をおいていたころである。この書簡によっても、王仁三郎の当時の意気ごみを推しはかることができよう。
〔写真〕
○神風会の大演説会広告とその主張 p300
○御嶽教にいても創立の準備を進めていた p301