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「直霊軍」の創刊

インフォメーション
題名:「直霊軍」の創刊 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:301 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195401c2113
 一九〇九(明治四二)年をむかえると、綾部に帰った王仁三郎の直接指導によって、大本の動きはとみに活発となってきた。二月二五日には機関誌「直霊軍」が創刊されている(発行日付は二月一五日、毎月一回一五日発行)。それまでにも機関誌はあったが、それらのほとんどは、まだ雑誌としての体裁をととのえてはいなかった。それにくらべて「直霊軍」ば、B5版八頁の小さなものではあったが、当時としてはかなり充実した機関誌であった。発行所は綾錦社で、その印刷は福知山下柳の小宮活版所でなされている。
 「直霊軍」の名称は、教団づくりがはじめられたころ、「直霊教会」と呼称が用いられていたこと、また教学のうえでは「直霊」は人間にそなわる神性-神心を意味するところから、「直霊軍」の名称が採用されたのであろう。また「軍」という文字をつけたことについては、当時、関西ことに京都・大阪などで救世軍の活躍がかなり宣伝されていたので、そういうところから思いついたのであろう。開祖の教示にもとづき、直霊のみたまによって、邪悪を言向けやわすたたかいの意味もふくまれていた。
 「直霊軍」の第三号からは、印刷所も綾部町南西町「塩見活版印刷所」に移された。編集兼発行人が上田王仁三郎になったのは、第六号、八月二三日発行のときからで、発行所も「直霊社」と改められている。丹波の片田舎でしかない綾部の、それも民家の二階に、ささやかに祭壇を設け、あまりに世間から知られず「世直し」を叫びつづけてきた艮の金神の教が、「直霊軍」の発行によって、当時の各教会では思いもつかなかった活版印刷になって、ひろく人々に呼びかけられたのであるから、立替え立直しを叫び改心を迫るこの文書宣教は、社会の耳目をあつめるのに効果があった。
 王仁三郎が最初に着手したのは、開祖の筆先の中で、とくにそのうちの社会にたいする「予言と警告」を、解説的にだしてゆくことであった。王仁三郎は、「直霊軍」の創刊の辞でつぎのようにのべている。
方今世界の文明は日に月に進歩して、生存競争優勝劣敗の悪弊は各種の方面に起り……生存競争の式器発達すると共に、人心は軽佻浮薄奸智に長け、軍資金の充用は年々歳々増大して、国民は皆多具理に成りませる金の神の出現を待ちつつ、前途の如何に成行くかと煩悶苦慮しつつあるのみ……
 こうした時代に処して、王仁三郎はまず「敬神忠君愛国の志士は来って、速かにこの大予言者の言を聞かれよ」と主張した。大予言者の言とは、いうまでもなく開祖の筆先のことであった。開祖の筆先は、「天の真奈井」と題して、その一部が抜翠され、四回にわたって「直霊軍」に掲載されている。
 なぜ、発表が四回のみしかされなかったのか。その理由としてつたえられていることに、王仁三郎は、筆先のなまのままを発表することに、非常に慎重であったというととがある。筆先は平仮名ばかりでかかれているので、もし読み誤れば、多分に危倹な誤解を生ずることになりかねない。これを読みやすく一、二の文字をなおしたり、漢字をあてたりすれば問題はないのであるが、当時の古い役員や信者の中には、なお、王仁三郎にたいする微妙な反発感情が残っていたし、大神の筆先をなおすことは、神を冒涜する悪神の所業として、はげしく非難されることも予想されたので、むだな内部的あつれきをさけるためでもあったという。さらに配慮された問題に官憲の目があった。筆先には、はげしい言句で、社会の不正矛盾を指摘しているものが多く、時代の悪弊を端的に突いている、かなりきびしい表現が内在していたからである。
 今の日本の人民は、こんな結構な世はないと申しておれど、神から見ればこれくらい悪い世はこの世のもとからないのであるぞよ(明治26)
 人民は世が開けてあまり結構になると、利己主義のやりかたばかり致して、もとの昔の活神の苦労を忘れて、勝手気ままになりて、利己主義(われよし)のやりかたばかり致して、この世を強いもの勝ちの畜生原にしてしもうて、神のいる所もないように致したから、もうこのままにしておいては世界がつぶれて餓鬼と鬼との世になるから、立替えを致さなならんことに、世が迫りてきたのであるぞよ。四つ足の守護神ばかりはばりて、上へあがりて日本の神国を汚してしもうて、この世は真暗闇であるぞよ(明治29・12・2)
 人民の心がさっぱりかえりておるから、善きことは悪く見えるし、悪きこと致すものはかえって今の時節は善く見えるが、さっぱり世がさかさまであるぞよ。今の世界の上に立つ人民は、一つも誠の善きことは致しておらんぞよ。……上に立ちておる人は悪の守護であるから気まま放題すきすっぽう、強いもの勝ちの世でありだなれど、見ておざれよ。これから、これまでのやりかたを根本からかえさしてしもうて、さらつの世のやりかたに致すから、今までに上に立ちておりた人はだいぶ辛うなりてくるから……(明治35・旧7・11)
 このような調子の筆先を、そのまま「直霊軍」に発表することは、当局を刺戟することになる。教団づくりはまだはじまったばかりである。初期の布教は、とくに慎重でなければならない。民間の宗教の公認は、すでに天理教を最後としてその道を閉ざされ、あたらしい宗教や思想にたいしては、ことに監視がきびしくなされた時代である。こうした時代に、「上に立つ人民は誠の善きことは致しておらん」というような意味の文章を発表し、それだから「これまでのやりかたを根本からかえさす」ということを、そのまま公にすることは、容易ならぬことであった。「上に立つ人」といえば、官憲や財閥・地主などをふくめた当時の支配層を指すことは、だれの眼にも明らかなことであった。だが、そのことによって、その主張がまげられたのではない。
 「直霊軍」が発行された理由の一つには、「立替え立直し」を前提として、王仁三郎がもっていた思想をある程度示して社会に警告し、かつ、問うという考えがあった。そのことは、「直霊軍」三号に「如何なる教を信仰すべきか」の主張に見出すことができる。
直霊(なおひ)教は現今行はれつつある宗教の如く人為的ではない。皇祖皇宗の御遺訓を今や忘れんとするの世俗に警告せんとするものにして、所謂神教である。法規上やむをえず宗教部内に加はっているので、決して他の宗教のように信教自由の範囲に放任して置くべきものでなく、我正史に明に載せられたる天神地祇の教示、特に国の元祖国常立尊の御教を伝ふる真理活教であって、日本臣民たる以上は、神社に祭られ玉へる神の教同様に信奉せなければならぬ。我教長は唯々神の命の随に筆を取りて、皇道の大本を講明せられて毫も私心私説を加へず、可惜世に埋没せんとする真教所謂祖宗の遺訓を中外に明らかにし、神威霊徳を宇内に宣揚せん為の神慮に依らせ玉へるものなれば、普通一般の宗教なぞと同一視すべきもので無いことを断言するものである。
 このころは、すでに神宮の制度が確立されていて、神官は政府から任命され、神社神道は諸宗教をこえた「国教」であり、国民はすべて「氏子」として神社信仰のなかにふくみこまれていた。そうした時代に、大本の神を「日本臣民たる以上は、神社に祭られ玉へる神の教同様信奉しなければならぬ」というのは、実に大胆な提唱であった。そして同時に、このなかには、のちの大本の宗教思想の源泉となった「皇道」の主張が、すでに現われていたといえる。
 王仁三郎によれば、さきにも引用したように、世は「優勝劣敗の悪弊」におちいり、「軍資金は年々歳々増大し」国民は経済界の変動や国家の前途にたいして不安動揺しつつある。その原因は、「皇祖皇宗の御遺訓が今や忘れられんと」しておるからである。ゆえに日本及び日本人は皇祖皇宗の御遺訓にかえって、あたらしく出発しなおさなくてはならないというのである。しかも、その道は、我教長(開祖)が「神の命の随に筆を取りて皇道の大本を講明せられて」いると説明し、皇道と筆先の思想とは相一致しているとといた。したがってその皇道の主張はかならずしも、一般に考えられているような、狭い国家主義的な皇道とは相違するところがあったのだが、その相違については、まだこの時点においては言及されていない。
 「直霊軍」第一五号「皇道研究の趣意王仁」によれば、「天下の治乱文明の消長は、一に我国民が古事記の真意義と、我教主の神訓を覚悟すると否とに与て存す。是を以て本会は世に率先して皇道研究会を開き、古事記を四十余年間刻苦研鑽の結果、皇道の上に一大発明せられたる神霊学の開祖故従五位上出羽守本田九郎親徳先生の直授と、我教主の神訓を大方愛国の志士と共に、其蘊奥を究めむと欲す。苟も我天朝の臣民たらむ者、諸を勿緒に附す可けむ乎」とのべられている。王仁三郎のとく皇道には、本田の「直教」をうけているところが少なくないことも見のがせないが、当時の情勢下において、その宣教の方途として、こうした皇道思想を全面におし出して教線をひろげようとする意図のあったことが、「直霊軍」の内容より察知されろのである。
〔写真〕
○家族ぐるみでの造営-王仁三郎(二列目左から5人目)をはじめ役員・信者の家族たち p306

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