直霊軍の軍規が公表されて、いよいよ本格的宣教体制をととのえた大本は、翌一九一六(大正五)年になると、皇道大本と改称した。綾部在住の大本役員・信者は、当時出口家関係の一一人をはじめとして総計八九人にのぼっていたが、これらの人々は大本所有の家屋一三ヵ所に分宿し、食事は三食とも大本の食堂に集まって食事をすることになった。いわゆる「大本家族制度」の実施がそれである。それは一九一六(大正五)年の二月六日のことである。ただし、これ以外の人々、たとえば自宅や借家に住んでいた七世帯の人々などは、起居をともにはしなかった。
しかし、それよりも注目をひくのは、直霊軍の活発な勤きである。
二月九日には、直霊軍の別動隊として白虎隊(少年)・娘子軍(少女)・幼年軍(幼年)を組織することとなり、同月の二〇日には、直霊軍京都分営で白虎隊の旗上式がおこなわれ、指揮三代直日(一三才)・棟梁吉田一が任命された。直日は前年の四月二五日から約一ヵ月、剣道(柳生流)修業のために名古屋の朝倉尚綗宅に滞在し、さらに同年の一一月からは、京都の梅田信之宅から熱心に武徳殿にかよって、剣道にいそしんでいた。直霊軍では、年少の直日みずからが街頭宣伝にも立ち、白虎隊指揮者としても活発にはたらいて、その雄々しい姿が役員・信者をはげました。
一九一六(大正五)年四月五日、王仁三郎は二〇余人をともない、橿原神宮および大和三山の畝傍の社に参拝した。四月一一日には、根本学社から「このみち」が創刊されたが、その後「敷島新報」と「このみち」が合併し、「敷島新報・このみち」となった。
四月二二日には、これまでの「大本教」という名称を「皇道大本」と改称した。「皇道大本」と改称された理由とするところは、つぎの点にある。皇道と神道との間には大きな相違がある。「本教は全然皇道宣布を目的として生れ」たものであり、「皇道の中には政治も教育も実業も宗教も一切包含して」いる。その普及の機関が直霊軍であり、研究の道場が根本学社である。「今後は一意専心に皇国言霊学と皇道の大本を宣布する」(「このみち」2号)とするところにある。このころから、のちに具体化してくる「大正維新」論の前提となる教説が発表されるようになる。そのなかには、いわゆる宗教的な範疇をこえて、政治・教育・実業などに言及する論稿がおおく、おかげ信心的なものは、機関誌のうえから一時影をひそめてゆく。
〔写真〕
○皇道大本の印 p339
○白虎隊・娘子軍 p340
○三代直日 左は谷前貞義 p341