これよりさき、大本に入信した飯森正芳らは、横須賀の浅野の宅を訪れて、大本への入信をすすめていたが、一九一六(大正五)年四月四日には、浅野和三郎・多慶子の夫妻が、横須賀からはじめて綾部へやってきた。浅野は一八七三(明治六)年茨城県に生まれ、一高-東大のコースから海軍機関学校の教官となっていた人である。英文学を専攻し、在職一七年のあいだに同僚といっしょに「英和辞典」の編纂に着手し、英文学方面でも名をなしていた。浅野が宗教的関心をもつようになったのは、一九一五(大正四)年彼が四二才のときに、医者にみせても病名もわからぬ長男の病気が、石井という横須賀の女行者の祈祷によって治癒するという経験をもってからである。この女行者はかなりすぐれた透視の能力をもっていたようである。そうしたときに、飯森正芳と福島ひさとがその女行者をたずねて、飯森と旧知の浅野と会ったのである。まず大本における「鎮魂帰神」の話がなされたが、そのことからだんだんと浅野は大本に興味を感じ、やがて初参綾となったのである。
王仁三郎は四月二八日、浅野夫妻らと綾部を出発、二九日横須賀の浅野の宅につき、海軍機関学校長・木佐木少将夫妻ほか数人に面会し、鎮魂を実施した。五月一日東京池袋の尾寺宅へ出向き、五月三日には横須賀の三浦屋(成川浅子宅)に一泊して、そののちふたたび浅野宅に滞在し、海軍将校や海軍機関学校の教官たちに、宣教とともに鎮魂の実修をした。そして浅野に審神者の資格をあたえた。王仁三郎は八日横須賀を引上げて京都に帰着し、ついで九日から大阪・肝川などに滞留して、五月一七日に帰綾した。
このことが縁となって、浅野和三郎は同年八月、暑中休暇を利用して約一ヵ月綾部に滞在することになる。その滞在期間中に鎮魂帰神による神霊の実在を確認し、開祖の筆先をかなり精密に調べた結果、「世の立替え立直し」の実現を確信するにいたった。一一月二八日には、王仁三郎は村野滝洲をしたがえて、ふたたび横須賀へおもむき、浅野の宅に滞在した。その間に、海軍の将校その他多数の人たちが連日参集している。一二月一〇日、王仁三郎は、さきに綾部移住を決意した浅野夫妻と、その家族あわせて五人らとともに横須賀を出発し、一一日あさ綾部に帰着した。浅野の一家は綾部並松の和知川ほとりに居をかまえることとなった。
同年七月三日には、直霊軍の別動隊として青竜隊が結成され、その規約が定められた。青竜隊は「皇道大本を宇内に宣揚」し、「開祖の神示を宣伝」することを目的とし、二〇才以上三五才までの青年をもって組織することとなった。大将以下少尉まで、さらに準士官をおき、軍隊式の階級をもうけ、少将以上は三五才を超えたものでもよいとしている。
この時期における入信者のなかに、海軍関係の人々が目立って多いことが注意をうながす。まず福中(海軍機関中佐)にはじまり、飯森(同)から浅野和三郎、ついで浅野の実兄である正恭(海軍中将)の入信となり、浅野が綾部に移住すると秋山真之(海軍少将)がまっさきに参綾した。秋山は日露戦争当時の参謀として有名であった。そのほか舞鶴から来訪する海軍将校(佐官・尉官・下士官・兵士等)はほとんど連日におよび、遠くは呉・横須賀あたりからも参綾し、熱心に皇道大本の研究をはじめた。
一九一六(大正五)年には、ひきつづき、三七ヵ所の地方機関が設置されているが、この年あらたに横須賀(神奈川県)、伊予若宮・伊予大洲・伊予中筋(愛媛県)に文部が設けられた。これは、近畿地方以外に設けられた地方機関としてはじめてのものであり、この年ことろみられた横須賀の宣教とともに、今後における地方宣教の展開を示すものとして注目される。
〔写真〕
○このみち第1号 p342
○浅野和三郎 p343
○青竜隊の辞令 p343