当時の教団の文書宣教についてみると、雑誌や新聞などの定期刊行物以外にも、数おおくの書籍が出版されている。手もとに印刷施設をもっていたことがそのことを可能にし、少年奉仕者たちの献身的な奉仕意欲でそれらはささえられていた。
一九一八(大正七)年から一九二〇(大正九)年末までの刊行物は約三種にのぼっている。そのおもなものをあげるとつぎのとおりである。『大本神諭』(天の巻)・「王仁文庫』(第一編~第十編、これには王仁三郎の論文・随筆、また裏の神諭・神歌などが収録されている)・『大本叢書』(七冊)・「亀岡叢書」(第一編~第十四編)などがそれである。『大本叢書』・『亀岡叢書』には王仁三郎の談話および解説を浅野が整理したものや、個人の研究を発表したものなどが収載されている。
そのほかに、『大正維新の真相』・『皇道大本略説』などがあるが、これらは当時おおくの信者に愛読された。前記の諸書は浅野の著作とされているが、そのなかには王仁三郎の解説を整理したものがふくまれている。『出蘆』・『冬寵』は浅野が入信の動機から綾部での五年間の信仰生活を書いたものであり、これは他方面にひろく販布された。さらに個人の著作としては、服部静夫の『大本教祖出口直子伝』・『大本教の批判』・池沢原治郎の『謎の大本教』・谷口正治の『皇道霊学講話』などがあり、それらの目ざすところは、初信者や大本研究者を対象とする啓蒙であった。それ以外には『大本信徒の主張』・『神示の日本魂』・『皇道大本神歌』・『善言美詞』などがある。こうした各種出版にみられるような「教義」や「教説」と、信者による教義研究から生まれた「私論」との区別が、ひろく教内で明確に意識されるようになったのは『霊界物語』の発表以後のことであった。
これらの書籍は、ふつう、修業者がきたときあるいは帰るときに、何冊かを買うのが通例であったが、別途の販売網もできあがっていた。大本の書籍と神具の取次販売を専門にしていた綾部の西本町通りの神戸堂は、一九一九~二〇(大正八~九)年ごろには、一〇人ちかくの店員をおくほどであったし、大阪道頓堀の大鎧閣・東京銀座の新橋堂・同本郷の有朋堂などで大本書籍が販売され、また全国の支部を通じての特約もあったので、その総発行部数は数万ないし一〇万部にものぼったといわれている。
一九一九(大正八)年一〇月に、「綾部新聞」が改題されて週刊「大本時報」となったが、これを機会として雑誌「神霊界」(月二回発行)も、これまでの編集方針をあらためた。そして表の神諭・裏の神諭のほか主として王仁三郎の執筆したもののみが掲載されることとなった。
「大本時報」はタブロイド判八頁だてで、その編集は浅野の指導のもとに、今井梅軒・江上新五郎(無峯)・谷口正治・栗原七蔵(白嶺)らがあたった。「神霊界」は皇道大本の機関誌として、「大本時報」は大日本修斎会の機関紙として発行された。前者は信者の教化のために、後者は対外的な主張の展開と報道のためにそれぞれの重点がおかれ、機関誌紙の機能分担が明確にされていたのである。
同年九月一五日号の「神霊界」は、「大本時報」の創刊についてつぎのように記している。
神霊界の改良と大本時報の発行 神界の風雲急を告ぐると同時に、吾人の責務重且つ大なるを加へ来れり。比際愈々子に唾して起たざる可らざるなり。即ち一先づ活動の第一着手として会員各位大多数の希望を容れ、本誌は神諭及び神諭に準ずべき教主の随筆等、総て神霊に関する記事のみを登載し、其他の記事は別に之を割き、更に大本の徹底したる尊皇愛国主義より観察せる時局問題をも併録し、来る十月五日より大本時報てふ題下に、従来の綾部新聞を拡大して週刊新聞を発刊(従来の綾部新聞は九月二一日ちを終刊とす)すべく決定せり。而して此大本時報は、出版局器械弓箭備はるを待ち、適当なる時期に於て面目を改め日刊新聞と為し、会員各位一般の期待に背かざるを目的とすべし。希くは各位とも此新設せられたる各位の機関紙を活用され、天下国家の為め世道人心の為め健闘努力あらんことを。大日本修斎会編輯局
前々より、設備さえととのえば「適当なる時期に於て面目を改め日刊新聞と」する意向があった。ついにそのときがきた。教団の経済力は明治末年から大正はじめごろへかけての苦しかったころとくらべると、比較にならぬくらい充実してきた。執筆陣もそろってきた。
「神霊界」は一九二〇(大正九)年一月より月三回の旬刊にあらためた。「大本時報」(大正9・1)の「編輯局日誌から」のなかには、次のような記事がある。「我二機関誌紙中、時報は大勢寄って編輯しておるが、神霊界は出口教主輔一人の手で出来るのだ。然も朝から晩まで訪客に取囲まれている。アノ忙がしい間にだ。勿論人間業ばかりではないが、執筆の快速なるは他に比類なく、十有五、六年も操觚を業として居た梅翁でさへ、未だ曽て見たことも聞いたこともない技倆だと、舌をまいて驚嘆しつつある。昨今仄聞する所によれば、大評判の大本百人一首も最早五組ほど出来あがった上に暮の三十一日の夜から元旦の朝にかけて、三百六十六首の道歌が作られたさうだ。」
じじつ役員信者の姓名を読みこんだ短歌は、「百人一首」一〇組におよび、「千人一首」も完成されている。その後にあっても、姓名読込みの短歌や長歌は、「神霊界」に毎号連載された。
「神霊界」の大正九年二月一一日号からは、原文のままの平仮名で、「おふでさき」が連載されていることを付記しておこう。旬刊の「神霊界」は同年一一月から月刊となり、毎号四六倍判で一一〇頁をこえるにいたり、内容はとみに充実してきている。「神霊界」の発行部数(残本を除いた実数)は、大正六年の創刊号以来、翌七年三月号までが毎号一〇〇〇部であり、同年一一月号までが二〇〇〇部であった。とくに一二月の「教祖号」は五〇〇〇部発行されている。その後九年六月号までが四〇〇〇ないし四七〇〇部であった。ところが同年一〇月までは三五〇〇ないし三〇〇〇部となったが、すぐにもち直し、一一月号は五〇〇〇部、一二月号は六五〇〇部、一〇年一月号は一万一〇〇〇部というように発行部数も、宣教の拡大に対応して上昇していった。しかし第一次大本事件勃発の影響によって、二月号から四月号までは六〇〇〇部ないし六五〇〇部となっている。
〔写真〕
○出版局 のち天声社に発展した p471
○出版局販売科の専属売店 綾部市上町 p472
○1919~20─大正8~9年ごろの大本関係の出版書籍一覧 p472
○執筆中の王仁三郎 p474
○大本時報 改題第1号 p475