宣教の活発化とともに、当局は大本にたいする警戒をつよめ、圧迫をしだいにくわえるようになっていった。こうした当局の動向にもっとも大きな影響をおよぼしたと伝えられるものに、一九二〇(大正九)年の八月に刊行された中村古峡著『大本教の解剖』がある。中村は東京警察学校の教官で『変態心理の研究』という著書があるように、かねがね心理学とくに変態心理の研究をおこなっていた。したがってかれは、『大本教の解剖』で大本の教祖や信者たちを変態心理の立場からとらえ、結論的に「宗教性妄想患者の濫書狂を取囲んだパラノイア、妄想性痴呆、迷信者、山師連の集団」ときめつけた。学会・言論界の大本批判はこれのみにとどまらない。たとえば狩野有景は『大本教の正体』(大正9・9・10)をかいて、主として大本教義(神諭)の中に「朝憲紊乱、不敬」の箇所がおおいことを指摘したし、かつて「大本時報」に「一葉落ちて知る天下の秋」などのはげしい宣伝文書を執筆したことのある友清は、反大本的行動にはしり、大本批判の論陣をはった。宗教学者加藤玄智も、『時事新報』の記者に「総じて近来の傾向として殊に欧州大戦後、昔ながらのキリスト教、仏教等の権威が著しく地に落ちた結果、新らしい迷信とでも呼ぶべきものが頭をもたげてくる」と語って、暗に大本を迷信よばわりしたし、京大教授谷本富は『改造』(大正9・8)に「大本、天理も仏教も基教も非科学的、反科学的で一括して迷信である」とのべて宗教を否定し、「要するに言論、思想の自由がなく、運動も常に束縛されているため」に、大本のようなあたらしい迷信が勢力をもつのだと批判した。
こうしたなかで、内在的な批判をなすものもあらわれてきた。一九二〇(大正九)年の八月、「改造」に、文学士石神徳門が「私は大正五年夏、一知己に伴はれ皇道大本の教祖出口直子に面謁するの光栄を得た。大本は其後いつの間にか拡大されてきた。彼等教徒の為す所は、教義解釈につき大いに教祖の態度と間隔を生じている。大本は教祖の純一にかえれ」とのべたのなどがそれであったし、作家の生田長江が、『大本教の解剖』の序文のなかで、「余の迷信観」と題してつぎのように記しているものも、その例である。
迷信とはそもそも何であるか。常識に反したことを信ずるのが迷信であるとすれば、すべての天才的独創に須つところの宗教は悉く皆迷信である。精しくは迷信から出発して迷信でないものの方へ進んでいく。非常識なものからだんだん常識的なものへなっていく。これが一部の人々の目に、宗教の進化と見えるものであり、私共の目には宗教の堕落と見えるものである。私は大本教の厳正批判者として立った中村君が、宗教の進化及び堕落について、なるべく私共と近い考へ方をしておられる事を希望する。
かれは、序文執筆者一一人のなかにあって、他の人々が大本の非常識性をとりあげて迷信・邪教視しているのに、きわだった対照的な意見をのべているのが注意をひく。
こうした数すくない意見をのぞいて、大本への攻撃はますますはげしくなっていった。大正九年七月一八日付の「国民新聞」は英・米両国における心霊運動の紹介記事をかかげ、大本の発展や、このころの心霊科学の勃興など、非常識な迷信として「論破」されなければならないと主張したのをはじめとして、中央・地方をとわず、新聞や雑誌はしきりに大本批判の記事を掲げだした。当時大本を批判した著名な人々をあげると、作家では正宗白鳥・石丸梧平・上司小剣・近松秋江・水守亀之助・秋田雨雀・藤森成吉・波辺霞亭などがあり、歌人では与謝野晶子・西村陽吉、評論家では野村隅畔・石坂養平・三井甲之・松崎天民らがあった。そのほか五十嵐力・沖野岩三郎・尾崎行雄・宮地嘉六・花井卓蔵・堀内文次郎・小林一三なども大本への批判をなした。大本の宣伝が急速に社会の一各階層に浸透していったのに比例して、その反応として、こうした大本攻撃が具体化してきたのである。
だがその批判のすべてが、外面的であったのではない。文芸作家グループの「大本観」のなかに特色あるものがあった。たとえば小山内薫が、「問題の新宗教・大本教の批判」の序文のなかでつぎのようにのべているのなどはその好例である。
私は暗い道に行きくれている旅人である。暗さも暗い。道も分らない。足も疲れている。もう一歩も前に進むことはできない。ふと遠くに明かりが一つぽつつりと見えた。私は躍り上がって喜んだが、私の疲労は余りひどくて、もう一足もその明かりの方へ近づくことができない。どうもその明かりは自分を迎へて呉れているやうな気がする。そこまで行けばきっと一夜の宿りが得られさうな気がする。併し……私は遠くからその明かりを見つめている。その明かりを見つめていると、段々肩の荷が軽くなって来るやうな気がする。疲れた足が段々力を得て来るやうな気がする。私と皇道大本との唯今の関係は、やっとこの辺のところである。私はまだ大本に就いて何も知らないといってよい。私はまだ綾部といふ土地を踏んだ事もない。鎮魂帰神の術を受けた事もない。言霊学の研究に従事した事もない。
私は印刷せられた『大本神諭』(天之巻)─それは一万冊からあるという神諭の一小部分に過ぎない─を読んで驚異したに過ぎないのである。
この驚異が私の精神生活にも肉体生活にも、或る小さな革命をもたらりした事は事実である。併し唯それだけである。私はまだ自分を大本信者と名のる事はできない。名のる資格がないのである……。
「神の申した事は一分一厘違わんぞよ。毛筋の横巾ほどの間違いは無いぞよ。これが違ふたら神はこの世におらんぞよ」神でなくて、どうしてかういふ強い詞が叶けやう。私は先づこれに驚いた。
小山内はさらにこのあと、幾つかの筆先を引用し、「実に旧約聖書に見るやうな恐ろしい予言」であり、しかも「一点否定すべき余地のない真実の詞である」といい、「何年の何月、世界の破壊があるとか、何年の何月、世界の新建設があるといふ、この教の教師たちの詞に対しては─神は肝腎の事は今の今まで申されんからといふ神諭の一節を以て答へたい。……兎にも角にも、私は世の真面目な義人に大本神諭の一読を勧めたい。心を清くして、赤子の心になって、これを一度読めば、必ず霊魂に或る変動を覚えずには置くまい」と結んでいる。
小山内は一九二〇(大正九)年一一月一九日、松竹キネマの活動写真撮影隊とともに参綾し、王仁三郎教主輔をはじめ苑内の風物をつぶさにカメラにおさめ、のち「丹波の綾部」として、東京の明治座でこれを映写したくらいである。
芥川竜之介も「神諭」をよんでいた。浅野が海軍機関学校をやめて間もなく、その後任として英文学の教師となり、浅野が残していった大本関係の文書によって大本を知ったようである。また東京の確信会の幹部であった弁護士平松福三郎の娘と親しい間柄にもあったので、芥川が大本を知る機会はおおかった。
倉田百三が大本をおとずれたのは、まだ無名のころだったが、のち彼が『出家とその弟子』を公にして、有名になってからのちにも、ふたたび大本をたずねている。
これらの文芸作家たちが大本に関心を示したのは、大戦後の社会不安のなかにあって、あたらしい道を見出さんとして苦悩していたこととつながりがある。反面また心霊科学の傾向がさかんとなり、より人間的な、人間に内在する魂の問題から時代に対処しようとした動きも顕著となりつつあって、これらの人々は、大本神諭が魂の安息と現状革新の要望に答えるものとしてこれをうけとめ、神諭に深く感銘して、これに魅力を感じたのである。
文学博士物集高見は「大本教の人と語る」(「大正日日新聞」)のなかで
……大本教をもて一種の宗教のごとく評して、その甚だしきに至りては邪教なり迷信なりと評するものあるは遺憾至極の事なり。宣伝の趣旨をも聞かず、ただ名を聞きて言下に否定するは抑もまた何の故ぞ。敬神尊皇を説くに、鎮魂帰神の法を用ふるを不可とせるか……孝徳天皇の大化元年、天皇群臣を召されて、天下を治むべき道を問はせ給ひし時には、群臣は、先づ神祇を祭りて後にこそ政事は議すべきなれと奏せし故に、天皇はこの日、ただちに尾張美濃の諸国に使を遣はされて神供の物を課せ給ひし事あり。是祭政一致の国体にして神国古来の風儀なり。されば事は異なれども、大本教も、孝徳天皇の政事の前に、先づ神祇を祭らせ給ひし叡慮にならひて、道の宣伝に先立ち、道の主たる神の御上の事より説き聞かせまほしくぞ覚ゆる。こは大本教にかぎりての事にはあらず……他の神道にても道は説けども、神は説かざる如くにて……神は何処に坐すぞと問ひても答ふる事なく、神は日常、何事を為させ給ふぞと問ひても亦答へず、神国には、国名に、神名を負はするは何故ぞと問ひても答へず、八十島祭りは何の故ぞと問ひても亦答へず、進みて人の神魂の帰着より、生霊死霊の集りを問ひ、游魂の浮かれ出づるを問ひ、転生再生の有無を問ひ、神仙、天狗、人妖、狐妖、蟲神、識神の事を問ひても亦みな答へず。此の如くにして唯、神の道を説くは釈迦文、耶蘇の、人間にして神の道を説く者と選ぶ所無きが如し。是れ余の神道家諸氏に対して常に問はんとする所なり。今日、幸に……大本教の説く所を聞きて、平生の疑惑を解かんとして、此の一言を述ぶるなり。人間の万事は悉く神慮より出づ。世界の大戦も人為にはあらず、戦後思想の混乱も「幽界にして期せらるる所あるが如くなれば、人力をもては到底閉塞せしむる事能はざるべし……
とのべているが、かれなどは、大本の教説に同感した一人である。真宗本派本願寺の大谷尊由が「現在の宗教界は殆ど行詰りの状態で……人心の教化はできぬ。由来宗教の革命は六百年毎に行はれている。我日本では、明治維新のころに於て宗教の大革新が行はるべき時期であるにも関はらず、国事多端にして革新の機会を失ったため、宗教界は反対に萎縮してしまった。近来大本教の実現の如きは宗教革新の第一歩であって、決して偶発的なものではない。思想界の混乱と民心の変調期に際して起った宗教だけあって、相当威力を有してをるが、こはその時期をとらえたものである」(「大正日日新聞」)と諮っているのも、その批判が、宗教界の堕落と結合して展開された例である。
当時貴族のなかからも入信する人があらわれ、それらの人々がそれぞれの階層に宣伝したりしたために、大本の話題は上層部へもしだいにゆきわたっていた。
たとえば鶴殿男爵夫人ちか子が入信し、また園生文蔵の手引きで岩下子爵が入信した。この人たちは一九一七(大正六)年四月ごろ最初の参綾をした。ついで久邇宮家の宮務監督であった山田春三(宮中顧問官)も、王仁三郎のみちびきで一九一九(大正八)年に入信した。山田は成婚以前の久邇宮良子妃(現皇后)の養育にあたっていた人である。
なかでも鶴殿ちか子は熱烈な信仰者で、後には大本の宣伝使となった。彼女が始めて参綾したときには、「神霊界」(大正6・6)の大本通信欄に「四月二十三日(旧三月三日)は大本にとりて大いに記念すべき日であった」とかき、「西と東に立別れた仕組の人の現界に於ける結合が行はれた」と、すこぶる暗示的な記事を記しているくらいである。ちか子は醍醐侯爵の娘で、昭憲皇太后の姪にあたる。鶴殿家にとつぎ、大本での通称は大宮守子といったが、その娘は藤田男爵家に入嫁している。
このようにして宮中や宮家の間にも大本神諭がもちこまれることとなり、上層部にも相当の共鳴者がでてくることになったのである。前述の大本批判は、大本の宣教が上層部へも波及するにつれてますますはげしさをくわえ、その結果、上層社会でも大本関係者の追放がおこなわれたという。
〔写真〕
○大本への批判・攻撃ははげしかった 公刊された書籍 p483
○大本を批判・攻撃した雑誌広告 p485
○小山内薫 p486
○芥川竜之介 p487
○明治座で上映された 丹波の綾部 p487
○倉田百三 p488
○しかし大本の主張への共鳴もあった p489
○鶴殿ちか子 p490