大本の講師によるはげしい講演内容と、一般読者をも予想してかかれる新聞の論評や主張との間には、おのずからひらきがあった。ところが前者の論調を支持するおおくの信者にとっては、新聞の論陣は手ぬるいものとうけとられた。立替え立直しが目前にせまっているのに、新聞の論評はなまぬるい、最初の発刊目的に反するものだという不満がおこってきた。立替えの神諭をなまのままで掲載せよ、国民がぐずぐずしていると天変地変でいまにも壊滅するぞと、直截に警告しなくては意義がないなどという要望が、新聞社に寄せられてきた。綾部で開かれた支部長会議でもそうした議論がおこなわれ、亀岡で発行されている「大本新聞」も、大本一色の編集にせよという意見が圧倒的となってきた。こうした立替えせまるといきりたった信者の要望を全面的にうけ入れることは、新聞社としては一般読者をうしなう結果となり、やがては新聞社の経営にも支障をきたすので、新聞社側の人々は信者の説得につとめたけれども、信者は、大正一〇、一一年で世は終末になるのだ、新聞はそれまでの使命だ、経済問題などは全然問題にならないと、かえって熱狂的になるという状態であった。
新聞社はやむなく論調に大本的色彩を濃厚にくわえ、立替えのせまっていることをしばしば警告しだした。すると、はたせるかな一般の購読者がめだって減りはじめ、まず地方支局や通信部の機能が混乱しだした。「大正日日新聞」の地方支局は仙台・東京・金沢・京都・神戸・松江・福岡などにあり、通信部は各県の主要都市四〇数ヵ所に設置されていた。そのなかで地方版を発刊していたのは東京・京都・神戸であった。本紙の内容が大本的色彩を強めていったので、地方版とのつりあいがとれなくなり、したがって地方版発刊の意義がなくなってきたのである。ついで地方の販売網が混乱しだし、新聞販売にみきりをつけて脱落するものもふえてきた。この機会をねらっていた朝日・毎日その他の各新聞は、結束して「大正日日新聞」のきりくずしを企図し、大本が買収するまでの社員で、ひきつづいて新発足した大正日日新聞社にとどまった旧社員の引き抜きにかかり、本社・支局あわせて七〇人もいた旧社員も、やがてわずかに一〇数人を残すだけとなった。それとときを同じうして、官憲が雑誌や新聞の購読調査に名をかりで、暗々裡に「大正日日新聞」の読者にたいするいやがらせをおこなった。そのため四〇数万部を発行していたものが、三ヵ月目には二〇万部に減少し、さらに減少の度をはやめてきた。したがって経営も苦しくなり、浅野社長はついに退陣することとなった。そこで社主出口王仁三郎が社長に就任し全責任を負って、その収拾にあたることとなった。すなわち王仁三郎は、一九二一(大正一〇)年一月一二日から、本社の社長室に起居して、その陣頭指揮にあたった。しかしそのときはすでに新聞社は四面楚歌につつまれており、挽回の見込は容易にはたたなかった。しかもそれから一ヵ月目の二月一二日、出口社長は突然本社から拘引されてしまったのである。(第三編第一章参照)
〔写真〕
○大正日日新聞社東京支社 p505
○本社移転の緊急社告 p506