出口王仁三郎社長が拘引されると、副社長高木鉄男以下の幹部はその後綾部へ引きあげてきた。残留していた旧社員も動揺して、退社しはじめ、地方から奉仕のために学校を中退したり、あるいは休校したりして、新聞の発刊に協力していた少年隊(約四〇人)も帰郷しだした。しかし第一次大本事件の記事は、当局によって掲載禁止にされていたので、新聞は従前通り発行されていた。地方の信者は大本事件に関する真相がわからないために、新聞社に問いあわせが殺到し、またわざわざ本社をおとずれるものもおおくなった。立替えの時期いたる、その時期の切迫を新聞の全面に掲載せよと強く主張していた信者たちは、王仁三郎をはじめとする役員らの大検挙によって大きな衝動をうけ、非常な不安にかられたが、青年信者の社員の力で、「大正日日新聞」は表面上はすこしの動揺の色もみせないで、新聞の刊行が持続されていたから、それらの信者たちもかえって新聞に希望と期待をいだくようになった。だが本社の経営はますます困難となり、社員の脱落もあいついだ。
事件の勃発と同時に、事件に関する情報の拠点が京都であったから、京都支局の編集陣を拡大し、本社から主任として大深ほか二人の記者を特派して、京都地方版を増大し、事件の情報や連絡に備えた。しかし地方の各支局は地方版の発行を週一回としたり、あるいは地方版を廃止した。
一九二一(大正一〇)年の五月一〇日、大本事件に関する記事差し止めが解禁となった。全国の新聞は特大の号外を発行し、「国体を危くする大本教の大陰謀」とか、あるいは「戦慄すべき大陰謀を企てた大本教の正体暴露」とか、「内乱の準備行為として武器弾薬を隠匿し、竹槍十万本を準備した大本教」「錦の御旗、を用意し、露国の過激派と気脈を通じていた大本教」とか「陰謀の発覚を恐れ、十二人生埋めした大本教」等々と、およそ刑法上に極悪犯罪とされている犯罪行為にかこつけて、想像たくましくおりこんでかきたてた。
これにたいして「大正日日新聞」は、当局の不法をなじり、事件を法難としてうけとめて、このときとばかりに全面的な「大本擁護」の論陣をはった。五月一三日号には、「神諭に予宣された大本事件」と題して、つぎのような一文が掲載されている。
「西洋の俚諺に嘲笑と迫害と無しに、世に顕はれたる宗教や主義は嘗て一つもない、と言はれているが、古来新宗教の起るや、其説初に於ては必ず迷信邪教視され、世間より大迫害を受くるを以て常軌としている……大本事件も、信徒は正しく此の種の迫害であると信じているのである。……霊的に見れば紆余曲折を極めたる神の経綸の一コマであるので、従って吾が大本神諭はつとにこのことの来るを予宣して居た。」
そして筆先に記されている「辛の酉の年は変性女子にとりては後にも前にもないような変りた事が出来るから、前に気をつけておくぞよ」(「神霊界」大正8・1・1)の言葉をおおきくかかげて、「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替立直し、凡夫の耳もきくの年」(「神霊界」大正8・2・1)を引用し、すでに神界から仕組まれていた経綸の一端であると主張した。そして各新聞が捏造した記事のひとつひとつに反駁をくわえ、中傷と欺瞞にみちた報道に反撃して各新聞の反省を求めた。そのなかでも、とくに、「逆賊の汚名を返上する」という池沢原次郎の執筆した記事は、一般の人々の注目をひいた。
こうした大本擁護と、中傷記事にたいする反撃の記事は、全国の信者にとっては、大きなささえとなり、抵抗の代弁ともなって、信仰の動揺をくいとめる強力な楯となった。
五月二五日、社長出口王仁三郎は「……雑誌、神霊界掲載記事に関し筆禍を蒙り、意外にも不敬事件の罪名の下に引続き司直の取調を受け居申俣……予て敬神尊皇報国を呼称し来れる本新聞社に依然として関係致候儀は此際遠慮謹慎致度……」と社告して退社した。その結果後任には上滝七五郎が就任したが、しかし「隠謀団、不敬団の新聞」という社会の誤解はぬぐうことができなかった。当局は、「大正日日新聞」が大本の抵抗のとりでであるとみて、さらにあらゆる圧迫をくわえていった。それがために経営はいよいよ困難におちいり、七月二一日にはあらたに高木鉄男が社長となった。そして八月三日には、本社を大阪淀川の川畔にある天満筋四丁目に移転するにいたり、西村光月を編集長とし、岡本霊祥・高見元男・萩原存愛・吉島束彦・三谷先見・大深浩三らが新社屋にたてこもってなお発行を維持した。一一月二四日には、社長に御田村竜吉がついたが、経済的ゆきづまりはいかんともしがたく、一九二二(大正一一)年七月一五日には、ついに床次元内相の弟である床次正広にゆずって、大本との関係をたつにいたった。
地方における販売網は、大本記事解禁後ほとんど壊滅したが、信者はあらゆる困難にたえて神業奉仕のまごころをもって新聞の配布に努力をかたむけた。そのなかでも、東京確信会所属の東大生月足昴・大島豊・小山昇や慶大生嵯峨保二らは、通学のかたわら新聞配達して学業と神業奉仕を両立させていた。そのほか販売部面には苦学生がおおかったが、そののちに新聞界に名をなし参議院議員にもなった前田久吉や、作曲家の服部良一らもいた。綾部では藤津進が、最後まで一枚売りを続行して活動した。
「大正日日新聞」は大本宣教の最高潮のときは、はなばなしい宣教の第一線をになったのであるが、ひとたび大本事件が勃発すると、各新聞の悪罵誹謗とたたかい、信者の代弁者となって不当の弾圧を訴えたのである。だが、ついに刀折れ矢つき、二ヵ年たらずで終幕をむかえた。しかし「大正日日新聞」がまいた種はやがてみのりをあげることになる。そのはたらきは、七十年史の一頁をかざるにふさわしいものがある。
〔写真〕
○大正日日新聞ははげしく抵抗した p507
○発売禁止・記事削除はたびたびであった p508
○移転前の発送部と印刷部 p509
○婦人による新聞配達 p510