一九一九(大正八)年における大本をとりまく。情勢はきわめて深刻なものがあった。京都府警の二回にわたる調査と警告、さらには各方面からの集中的な批判などと、いわば四面楚歌にかこまれたような状況にあった。だが大本は屈しなかった。前にのべたように、そのなかでなおかつ勢力的に教線をのばし、同年の末には台湾布教さえ開始していた。また最初の警告によって、一時後退したかにみえた鎮魂帰神や立替え立直しの宣伝がふたたびさかんとなった。浅野は大正九年二月八日の大本時報で「大正九年となれば、愈々益々立替の神業は露骨になっていく。此節分を境界として、宇宙は再び一大廻転を行ふに違ひない。審判の火の手は近づいた。一切の邪悪は大十年を期して滅されて了ふのだ」と、あいかわらず「大正十年立替え説」を力説しているが、それは当時の大本の動向の一斑を示している。
しかし、ここで注意しておかねばならぬことがある。それは、この時期の宣教内容が、立替えのために社会の争乱や飢饉・疫病や天変地異、さらに日本対世界の大戦がおこり、地球の大掃除があったのち、新世界が出現するといっだ漠然たる予言と警告だけではなく、その主張がいよいよ具体性をおびてきていることである。それには紙切り宣伝をも応用し、立替えのてはじめに『古事記』の黄泉比良坂のたたかい、またキリスト教のいうハルマゲドンのたたかいとして、日本とアメリカの大戦争が眼前にせまっていると強調された。
ところでこの時期に、やがて日本対アメリカの戦争がおこると強調されるようになったのはなぜか。この点は事件とも関連するところがあるので、いささかたちいってその理由をさぐってみよう。
日本が第一次世界大戦に参戦したのは、日英同盟の関係と、この機会に日本の中国における権益を拡大し強化することにあった。その意図は、一九一五(大正四)年一月の対華二一ヵ条要求に露骨に示されている。その内容は、ドイツの山東省における利権を日本にゆずり、さらに同地における鉄道敷設等の権利をも与えること、関東州の租借と満鉄の権利をさらに九九年延長し、南満州および軍部内蒙古での日本人の土地所有・営業・鉱山採掘権をみとめ、吉長鉄道の管理経営を九九年間日本に委任すること、中国の沿岸を他国に譲与または貸与しないこと、また希望条項として中国政府が日本人の政治・軍事顧問をやとい、警察を日華合同にするか日本人警官を任用し、日本からの兵器の供給をうけ、その他あらたな鉄道敷設権を与えることなどであった。これは列強がヨーロッパの戦争でアジアをかえりみる余裕のない間に、中国における日本の独占的地位をきずこうとするものであったから、米・英などから日本の予期しないほどの反響と抗議をよびおこした。また、この要求は中国民衆の間にはげしい排日運動をよびおこし、のちに中国人は、袁世凱政府がこの要求に屈した五月九日を国恥記念日として、国権の回復運動を展開するにいたった。大隅内閣はこの失敗のために退陣し、寺内内閣が成立した。
こうして対華二一ヵ条要求をめぐって、日本と米・英・中国との対立がはげしくなってきた。アメリカは開戦以来中立政策をとってきたが、一九一七(大正六)年にはついに参戦し、そのさい日本の中国進出をけんせいするために中国をさそった。しかし中国革命を圧殺するための西原借款がおこなわれたり、紡績資本が中国へ大規模に進出するなど、日本の中国進出は既成事実となりつつあったので、アメリカも妥協し、同年一一月には、日本の中国における特殊利益や、中国での門戸開放と機会均等を協定した石井・ランシング協定が成立した。しかし、これは中国における権益をめぐる日本とアメリカの対立が解消したことを意味するのではなかった。
一九一九(大正八)年のベルサイユ講和会議がそのことを物語っている。日本の要求は、
一、膠州湾の接収
二、太平洋の赤道以北旧ドイツ領の管理
三、国際連盟規約における人種平等主義
の三点であった。一と二については、大戦中の領土の分割を協定した秘密条約が根拠とされていた。ところが、一の膠州湾の接収は、アメリカに支持された中国の猛烈な反対にあった。日本はその結果、山東半島の経済的利権と青島の居留地を獲得し、そのかわり膠州湾の主権を中国に還付することで日米間の妥協が成立した。けれどもこれ以後英・米との関係は冷却した。そしてまたこの交渉にさいして、中国では五・四運動がおこり、そしてまたこベルサイユ条約反対・反日本帝国主義の声が全土をおおうにいたった。さらに、日露協約以来、中国権益の保持にかんする同盟者であった帝政ロシアの滅亡によって、日本は完全に国際的な孤立におちいっていった。
そして、一九二二(大正一一)年のワシントン会議で、軍縮協定や日本の中国進出を防止しようとした九ヵ国条約および四ヵ国条約が締結され、さらには石井・ランシング協定が破棄されるにおよんで、日本の国際的な孤立はいっそうつよまり、やがて反米・反中国の気勢が盛りあがることになったのである。
このように中国進出をめぐって、日本対米・中国との対立が激化しつつあったから、大本が立替えのではじめとして、日米戦争の予言を強調したのも故なきことではなかったのである。
こうした国際的孤立の解決策として、当時国内では、「我国の自主的活動を中止し、事毎に米人の鼻息を伺いて進退し、島国以外断じて国家活動を中止することが一つ、いま一つは明治大帝以来の国策を改めず、東亜の盟主たる面目を保持し、しかもよく米国との国交を円満ならしむるには、一挙雌雄を決して両者の暗雲を一掃するのみ」という即時開戦論や、「アジアの盟主、帝王」である日本は、「先天的臣隷民族」である中国に「鉄拳をお見舞」して「王者の権威を示せ」という主張が一部において台頭しつつあった。ところが、政府はその露骨な論調にたいしてはこれを黙認するわけにはいかなかった。というのは、他の連合国軍が一九二〇(大正九)年に撤兵したのちにあっても、日本軍シベリア出兵を継続して、世界の疑惑と非難をまねいていたからである。したがって政府としては、露骨すぎる主張は緩和しなければならなかった。その意味では日米即時開戦論の動向は細心の注意を必要とした。
このような国内外の情勢下における政府が、警告を無視したかにみえる大本の大正一〇年立替え説・日米戦争の予言を注目し、そのことによってますます発展しつつある大本をみのがすはずはない。ふたたびなんらかの行政処置をとる必要にせまられつつあったのである。
〔写真〕
○しかし大本時報の論調は一貫してかわらなかった p547