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告発

インフォメーション
題名:告発 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:556 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-02-18 10:40:26 OBC :B195401c3133
 第二の警告がおこなわれたその日より数えて四日後の一九二〇(大正九)年八月二一日に、加藤確治という人物が藤沼に面会をもとめた。彼は南洋方面で事業をやっていた人物であるが、同年六月には、大本をおとずれたことがある。その動機は不明であるけれども、いまをときめいている大本教団内において相当の地位を占めたいために、入信をよそおったのだといわれている。ところが思うようにならないので、教団の悪口を吹聴するようになったらしい。その加藤が藤沼にあって、さきの警告ははなはだ不徹底であり、とりしまりをするよりも大本をとりつぶすべきであると申入れた。藤沼は適当にあしらったらしい。そこで加藤は、個人の力でもつぶさなければならないと考えて上京した。そして九日の間、一身を賭して看破した大本の秘密であると称し、警視庁に建言したりしていたが、九月七日、東京築地の精養軒で大本についての暴露講演をおこなった。その席上には新聞記者のほかに、中村古峡や河口慧海などが出席しており、警察官も陪席していたという(「大朝」大正9・9・8)。その後、一〇月二二日にも再度記者会見をおこなって、「宗教を看板にして社会主義を鼓吹する大本教の真相発表」と題する告発文を発表した。その要点はおよそつぎのとおりである。
一 大本は逆賊の集団である。
二 大本は十一人の白骨をかくしている。それらは大本の木工に従事した信者の青年であるが、秘密の漏洩をおそれてことごとく水責めにして殺したのである。
三 文学士石神徳門氏は数月前に大本へゆくといって他出したが、そのまま行方不明になった。これまた大本が石神氏にある秘密をにぎられたために、ついに殺したものである。
四 大本には穴蔵や秘密室が無数につくってあるが、そのなかで婦人を姦淫したり、大逆を相談したり、○○(紙幣か?)を贋造したりするところである。
五 大本の二代教主、出口ならびに浅野、小牧らの幹部は一種の妖術をもって人身を左右し、天王平の墓地にゆくときは電気の如く地上に足をすいつけられ、身動きのならぬような目にあわして人を脅迫する。
六 大本には武器弾薬が無数に用意してあって、時期をみて一斉に内乱をおこす準備がととのっている。
七 大本には錦旗節刀が用意してあって、大義名分を冒して不軌を謀るの手順をさだめている。
八 出口は平将門以上の大野心を蔵しておって、自ら○○○○の服装をなしてこれを軸物に仕立て、朝夕信者を跪拝敬礼せしめつつある。
 そして加藤は、松谷与二郎弁護士を代理人として、王仁三郎および浅野を不敬罪ならびに内乱罪で告発した(告発文省略)。
 この「告発文」が、治安当局にもおおきな刺激となったことは事実であろう。しかしそれが事件の直接のきっかけになったとは考えられない。すでにみてきたように、事件は社会情勢の面からも宗教政策の面からも、必然的におこらざるをえないのであり、二度にわたる警告は、あきらかにその前兆であった。しかもこの告発がおこなわれた一〇月の下旬には、まだ平沼からの検挙命令は下らないまでも、すでに司法当局は藤沼の報告書を通じて、大本に関するはるかに正確な情報をキャッチしているのである。それは前述の前田警部補の報告にもとづいてつくられた(「大阪朝日」大正10・5・11)。八月五日から二五日までおこなわれた皇道大本夏期講習会に、前田は、検挙を決意している藤沼の「この講演こそ何物かを得らるるに相違ない。一字一句残らず速記して来い」という命令をあたえられて、高芝警部とともに亀岡にゆき、京大生だといって聴講証を手にいれてもぐりこんでいたのである。そして八月二五日には報告書を藤沼に提出した。その内容は、彼の見聞したことが細大もらさずかかれていた。
 皇道大本は、人材が雲の如くにあつまっていて、いま内閣を組織せよといえば即時にできるとか、日本の地下はみな金鉱であるから日本人は皆黄色であるとかの説をなしている。あるいは、八月六~七日の夕立の雲黒くかさなっている空に、直径五尺大の火の魂が縦横に飛行するという説が信者の間に流布され、亀岡城址奇蹟の出現などとさわいでいるが、まことは探照燈であったとか、鎮魂帰神で信者をきちがいにしても講師は邪霊のしわざと称しているとか、信者の間に、警察官がもぐりこんでいるという噂が高くなった等々のことが、ことこまかく記されていた。
 その後王仁三郎の秘書の辞令をあたえられた高芝が表面から大本に出入し、前田はひそかに調査を継続しつつ、九月の末からは「秘密の家」をもうけてそこに起居し、なおの直筆の筆先や、大石凝真素美著の『弥勒出現成就経』・『天地茁貫之極典』といったものから大本出版の書籍を渉猟し、一一月の中旬には、「出版物に現はれたる皇道大本の叛逆思想」と題する、総論と各論を合して約一七〇〇頁の報告書を作製している。このように、藤沼はすでに八月以降、着々と検挙の準備として証拠がためをおこなっていたのである。その結果は、逐一内務省や文部省に報告されていたという。したがって、加藤の告発文は、大本邪教観をひろげるために多少の利用価値はあったであろうが、それよりもはるかに信頼度のたかいとおもわれる材料を、当局はみずからの手でととのえていたのであるから、加藤の言動が検挙の直接的な動機になったとは考えられない。
 加藤の告発文とならんで注目すべきものに、貴族院公正会の動きがある。公正会は一九一九(大正八)年五月、郷誠之助の主唱によって結成された貴族院の男爵議員の統一団体である。その公正会が翌年の九月一八日、東京日比谷の幸倶楽部において総会をひらき、思想問題・社会政策、ことに労働組合および争議法を調査することを決議したが、同時に大本教を調査し研究することを決定した※。
※公正会のうごきは、「中外日報」大正九年九月二二日および一二月四日付の記事によって察知される。同記事は「前記五男爵の提案として大本教問題を掲げて猛烈に政府に迫る所あらん」と記している。『議会誌』では、表面上そのうごきを記していない。
 公正会が調査・研究の対象に大本をとりあげた理由は、大本教は国家の立替え立直しをさけび、日米戦争を予言し、綾部が都になるとか、皇室は惟神の御身にして民の尊崇の対象たる宗教的絶対的神であるから、国家の政治は臣民がとるべきであるとか、また現在の日本はほろび、大本教徒が国家再興の衝にあたるといった類の宣伝をしているが、それは「思想上人心に悪影響を及ぼし国家の存立を危くするものと認むる」ということにあった。すなわち、大本の主張は社会主義同様に、国家の安寧秩序を害する危険思想であるという、内務省と同じ見解にたって調査・研究することを決定しているのである。しかも、これはたんなる決議にとどまらず、公正会はじっさいに研究をすすめ、その専任委員に、千秋・南岩倉・今園・佐竹・東郷の五男爵がなり、数回にわたる大本教の心理実験会をもよおしたり、さらに中村古峡をまねいてその意見をきいたりしている。また一一月二九日には、幸倶楽部で委員会を開催し、「大本教の男女一元論」という論題のもとに研究会をもった。
 なぜ公正会は、これほど熱心に大本の研究をつづけたのであろうか。その真の意図はどこにあったのか。結論的にいうならば、公正会の大本研究の目的は、この問題で原内閣を攻撃することにあった。すなわち公正会は第四四議会(一九二〇─大正九年一二月二七日開会)において、大本教を、政府攻撃の有力な材料としようと意図していたのである。
 そのことは、原内閣と憲政会および公正会との関係をみることによって、あるていど理解される。
 デモクラシーの潮流におされてできた原内閣は、実質的な政党内閣として組織された。第四一議会(一九一八─大正七年一二月二五日開会)において、原内閣は研究会と結びつくことによって貴族院を操縦することに成功した。しかし、この内閣が、ブルジョア・デモクラシーを樹立したのではなかった。そのことは、労働運動と普選運動にたいする原内閣の政策にもっとも端的にあらわれている。たとえば第四二議会(一九一九─大正八年一二月二六日開会)において、憲政・国民・実行会の三派は、七万五〇〇〇人の普選大示威で政府を圧迫しつつ、普選案を上提したが、原内閣は、その討議中に衆議院に解散命令を発して、デモクラシーと対決したのである。その後、原内閣は、第四三議会(一九二〇─大正九年七月一日開会)においても憲政会の普選案を否定し、普選運動を抑圧しようとしている。そして憲政会との対立をふかめたのである。
 したがって、一九二〇(大正九)年一二月二七日から開会された第四四議会は、普選法案をめぐる原内閣と憲政会との対決の場であったのである。ところで、公正会は、はじめ原内閣の貴族院操縦の一環として結成されたが、幹部の強引なひきずりにより、むしろ憲政会に接近し、貴族院における反政府派の一翼をなすにいたった。そして、とくに第四四議会では、幸三派に属して政府問責案を提出し、一波乱をまきおこした。そのような公正会が、第四三議会閉会後、社会問題ならびに思想問題の一環として大本の研究に着手したのは、政府問責の材料に大本を利用しようとしたものにほかならなかった。
 第四四議会をのりきらなければならない原内閣にとって、大本教が政府攻撃の材料に使われることを回避するためには、公正会の動向は軽視できないものがあった。また政友会側でも、一九二〇(大正九)年九月二七日、思想問題特別委員会を開き、かねて研究中であった新宗教のとりしまり、国民思想の善導について協議をなし、意見の交換をおこなっている。
 なおそのほかに、大正赤心団のうごきをあげなければならない(「中外日報」大正9・9・26)。大正赤心団は、一九一八(大正七)年七月森健二によって組織された団体である。原内閣の逓相野田卯太郎らに援助され、「国体の尊厳を危くする凡ての思想に対して其撲滅を期す」という綱領をかかげていた。そして普選と労働運動の圧殺をめざす政友会の院外団的な組織として活動していた。その大正赤心団が、大本撲滅運動を展開しはじめたのである。
 大正赤心団は、公正会の大本研究とほぼ時期を同じくする一九二〇(大正九)年九月に、神戸の神港倶楽部で大本教視察報告演説会を開催したが、それを皮切りとして、同月の一六日夜には東京の神田明治会館で、二三日には上野公園でそれぞれ屋外演説会をひらいて、大本の撲滅を主張した。そのかたわら、二〇日には、「大本教祖の墓が桃山御陵に彷彿たる構造にして人心を惑はすものなるのみならず、皇室に対して不敬なり」として、平沼検事総長に大本を告発したのである。
 八月の第二の警告いらいわずか一ヵ月のあいだに、大本にたいする批判はこのように具体的となり、切迫の度をふかめてきたのである。
 また、加藤確治の告発にさきだって、九月二七日から三〇日までの期間にわたって開催された全国警察部長会議では、大本教のとりしまりが主要な議題にのぼっている。二七日の床次内相の訓示につづく二八日の会議では、警保局所管の指示事項中に、大本教とりしまりに関する項があった。藤沼京都府警察部長は、高芝・前田の報告にもとづいて、大本教の布教実況について詳細な報告をおこなった。そのあと川村警保局長は、大本教にたいする監視を要望することもに、とりしまり方法について意見をもとめた。その結果、今後なおその真相を研究せよという意見が多数をしめたようである(「中外日報」大正9・10・1)。つづく二九日の会議では、平沼検事総長は思想・経済問題についてのべたあと、大本に関してつぎのように訓示した(「警察協会雑誌」二四四号)。
先王惟神の道を明にして建国の精神を宣伝するには、吾人の大に力むべき所なり。然るに輓近(ばんきん)往々にして荒唐無稽の言を為し人心を困惑する者あり。世俗異を好み奇を尚ふ者相率いて之を信仰し、相当の学識ある者之に惑溺する者尠からずと聞く。抑々信仰の自由は之を尊重すべく、軽々しく抑圧を加ふべきに非ずと難も、其教旨にして世道人心を害ふの虞ある者は勿論、仮に其教旨に誤なしとするも、其の言ふ所常軌を逸し人を困惑し、随て国交を紊り、安寧秩序を乱すが如きものあらば、今に於て適当の取締を為し、速に反正の功を収めざるべからず。各位は詳に信徒の言動を査察し、苟も法規に触るるものあらば、機宜の処置を講じて毫も仮借する所なく、以て時弊を匡救(きやうきう)せんことを図らざるべからず。
 この警察部長会議において、検挙の方針が決定したかどうかはあきらかでない。二八日の川村警保局長の主宰する会議では、今後なお真相を究明することが、いちおうの結論になったようであるが、平沼の「……苟も法規に触るるものあらば機宜の処置を講じ云々」という訓示には、検挙への姿勢が見出される。大本弾圧については、内務省と司法省の間には微妙な意見の対立があったらしく、検挙を確定するまでには、若干難行したと推測される。が、いずれにしても、この全国警察部長会議が、大本検挙の体制を全国的に準備するうえで、おおきな役割をになったことはまちがいない。
 こうして証拠あつめが、さらに着々とすすめられていった。古賀検事正の指揮のもとに中田梶太・栗田鋤一郎両検事は、前述の「秘密の家」に出入して前田警部補との協力調査をすすめ、その調査も九年の末にはほぼ完了した。その結果にもとづいて中田検事は「出版物に表はれた皇道大本の叛逆思想」などの関係書類をもって上京し、大審院に報告した。
 翌一九二一(大正一〇)年一月一〇日、平沼は検挙の最終命令を発したのである。そして起訴状が作成され、二月一二日の未明に、王仁三郎らを検挙すると同時に、必要な場所を家宅捜査することが決定をみた。ついに第一次大本事件がおこったのである。
〔写真〕
○加藤確治の告発文とその新聞発表 p557
○検挙の準備 大本講習会への専任速記者派遣費320円が予算化されている p559
○高芝にあたえた辞令 p560
○公正会・赤心団の動き p561
○検挙直前の京都府警察部の動き p563
○桃山御陵 京都市外 p564
○大本検挙の直接関係者 左から中田検事 永井書記 前田警部補 栗田検事 高芝警部 p565

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