霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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口述の由来

インフォメーション
題名:口述の由来 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:650 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2022-05-26 18:43:15 OBC :B195401c4112
 『霊界物語』の口述発表がなされた由来は、高熊山における修業と密接なつながりがある。すなわち『霊界物語』と高熊山修業との関係については、つぎのようにのべられている。
本書は瑞月(王仁三郎)が、明治三十一年旧二月九日より同月十五日に至る前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後亦一週間床しばりの修業を命ぜられ、その間に瑞月の霊魂は霊界に遊び、種々と幽界、神界の消息を実見せしめられたる物語であります。すべて霊界にては時間空間を超越し、遠近大小明暗の区別なく、古今東西の霊界の出来ごとは、いずれも平面的に霊眼に映じますので、その糸口を見つけ、なるべく、読者の了解しやすからんことを主眼として口述いたしました(『物語』2巻・序文)。
と記述され、さらに
「舎身活躍」は、瑞月が明治三十一年の五月、再び高熊山に神勅を奉じて二週間の修業を試み、霊眼に映じさせて頂きしことや、過、現、未の現幽神の三界を探険して、神々のご活動を目撃したる大略を口述する考えである(『物語』37巻1章)。
とかかれているように、一八九八(明治三一)年の二度にわたる高熊山修業の体験が、『霊界物語』の内容の基本となっている。そのことについて、つぎのようにものべられている。「明治三十一年以後今日に至るまで、ほとんど二十五年間艱難辛苦を積み、神界の真相の一端をきわめた結果、宇宙真理の一部を霊界物語として発表することとなったのである」(『物語』38巻1章)とあるごとく、高熊山修業を起点とする道の究明や体験がくわわって、『霊界物語』の口述がなされたのである。したがって、「霊界物語そのものは、つまり瑞月の肉身であり、霊魂であり、表現である(『物語』40巻モノログ)とも意味ぶかくのべられているのである。
 それならなぜ、『霊界物語』がもっとはやく公にされなかったのであろうか。その点については、つぎの序文にあきらかである。
この物語は、去る明治三十二年七月より、三十三年の八月にかけて一度筆を執り、これを秘蔵しておき、ただ二、三の熱心なる信者にのみ閲覧を許していました。しかるにこれを読了したる某々らは、ついにいろいろよからぬ考えを起し、妖魅の容器となって帰幽したり、また寄ってたかって五百有余巻の物語を焼き棄ててしまったのであります。それから再び稿を起そうと考えましたが、如何にしても神界からお許しがないので、昨年(大正十年)旧九月十八日まで、口述を始めることが出来なかったのであります(『物語』5巻序文)。
 じっさいに、一八九九~一九〇〇(明治三二~三三)年にわたって執筆された五〇〇有余巻の『霊界物語』は、王仁三郎に反対する当時の役員・信者の手で焼きすてられてしまった。そしてその後の大本内部の情勢は、ふたたび王仁三郎がその執筆をなして発表することをゆるさない雰囲気があった。だが、第一次大本事件の発生を媒介として、大本じたいの立替えがはじまることによって、ついに発表の時運が到来してきたのである。そしてその心づもりは、事件直前よりなされていたとみることが可能である。というのは、『霊界物語』第一巻の第一二章までは、大本事件直前の一九二一(大正一〇)年二月八日までに執筆されており、それが当時の「神霊界」(「回顧録」大正10・2)に、すでに掲載されていだからである。
 なお、事件の第一二回予審調書(大正10・3・26)に附されている王仁三郎の手記「霊界の組織」には、国祖隠退の事情についで、「盤古大神」・「八王大神」などの神名があげられ、国祖再現にいたるまでの概要がのべられていることが注意をひく。それによれば、第一審判決後のとりしらベにたいして、大本の教義や神々の因縁・物語などをさらにくわしくのべるための準備が、事件の進行中からなされており、王仁三郎はその入獄中から、高熊山における霊的体験を回想し、『霊界物語』の大体の構想は、前々よりまとめられつつあったと推定することが、あるいは可能かもしれない。しかしそのいずれにしろ、大本事件の発生が、『霊界物語』を口述され発表される大きな契機となったことはあきらかである。開祖の筆先は、表現の辞句も素朴直截であり、かつ断片的である。したがってその真意は、まま「取違い」をされてきたことがおおかった。そこで、「海潮はそれを説いて聞かせる役」としてのつとめがさだめられていたのである。
 筆先には、「三千世界の立替え立直し」が一貫してはげしく主張されている。しかし、なぜ立替え立直しをしなければならないか、どうして立替え立直しを成就するか、なぜ艮の金神国常立命が太古に隠退し、綾部の大本に再現をみるのか、「元の誠の神」・「世に落ちている神」とか、「世に出ている神」「世を持ち荒した悪神・悪の頭」とか、などの文字がいったいなにを意味するのか、それらについては断片的にのべられているが、世の人々にはなかなか理解し難い。そこでそれらの神々の因縁をつまびらかにし、神代からの神界の経綸を解明し、立替え立直しの意義を明確化してゆくことが、教義の体系化・現代化のために必要となる。また、「われよし」・「つよいものがち」の思潮が世界を悪化せしめたという、その思潮とはどんな思想であるか、「改心」とはどういう情態を意味するものかなどについても、詳細に解明し、体系づけることが不可欠となる。まさにその要請にこたえたものこそが、『霊界物語』なのである。したがって『霊界物語』は、みろく胎蔵の教であることもに、筆先の内義をも解明した教典でもあった。王仁三郎によって『霊界物語』を、〝五十六億七千万の年をへて弥勒胎蔵経を説くなり〟とよみあげられているのも、きわめて理由あることであった。
 そのことは『霊界物語』の内容にもあきらかである。『霊界物語』には宇宙創造から主神の神格・神々の地位因縁と活動・神の世界的経綸・大本出現の由来・神と人との関係・霊界の真相・世界観・人生観・哲学・宗教・政治・経済・思想・教育・芸術などあらゆる問題にふれられている。そして基本的な態度には、神霊の世界が主で現界(物質界)が従であるという「霊主体従」の原則がつらぬかれている。「霊界とは霊妙な世界ということで、顕、幽、神の三界を総称していうのである」(『三鏡』)とある意義にもとづいて、『霊界物語』という題名がつけられたのも、それがみろく胎蔵の教典であったからにほかならない。だが霊界を神霊界のことばかりとうけとるのは尚早である。そこに、現界のこともあわせてふくまれていたことを見逃すべきではないだろう。そのことについては『霊界物語』第一巻の序文に、つぎのようにあきらかにされている。
この霊界物語は、天地剖判より太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦集滅道を説き道法礼節を開示せしものにして、決して現界の事象に対し、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく現界に現はれ来ることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、是に依りて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されん事を希望す。
とある。また『霊界物語』第一〇巻一五章の記述には、
この物語はすべて神人の霊を主とし、その肉体を閑却したる、いわゆる霊界物語であるが、すべて地上の神人は霊より肉へ、肉より霊へと明暗生死、現幽を往来して神業に従事するものであるから、太古の神人が中古にあらわれ、また現代にあらわれ、未来にあらわれ、若がえり若がえりて、永遠に霊すなわち本守護神、すなわちわが本体の生命を無限に持続するものなるが故に、その考えを頭脳においてこの物語を読まれたい。
とのべられている。つまりこの『霊界物語』は、過去・現在・未来に通ずるところの霊界の物語なのである。
 物語のなかには、ときに論説があり、随筆もある。そしてまた詩歌もある。しかし全体の構成が小説風におりなされているのも、構成叙述の体裁として独自のものをもつ。そのため物語にとくところのものは、筆先ほどにはげしくまた単刀直入でもない。通読してゆくうちに慈雨が大地にしみとむように、おのずと各自の魂によみとられるようにしくまれである。筆先の表現が直截であって、そのじつ、その内容には霊的な意義がふかく内蔵されているのにたいして、『霊界物語』の表現は抽象的・比喩的のようで、そのじつ、その内容には、具体的な問題の解明がなされているとみることができよう。
 『霊界物語』が小説的表現を用いたということは、特筆すべきことである。従来の既成宗教教典のような表現形式によらず、したしみやすく、民衆を物語のなかにとけこませつつ道をふましてゆくという、画期的なこころみがなされているのであって、説教によってでなく、道を求める一人一人がみずからさとるようにとこころがけられているのである。それが事件審理中のさなかに、はやくもなされているという点で注目されるばかりでなく、当局のきびしい圧迫下にありながら、それに対応して、あらたな教説の叙述形式がとられたということは、その内容とともに、事件に屈しない大本の姿と、あらたな教線展開への志向とを見出すことができる。
〔写真〕
○霊界物語の発端はすでに発表されていた p652
○表現は平易でしたしみやすい 王仁三郎自筆の原稿 第14編序歌 p655

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