第一次大本事件発生後におけるもっとも注目すべきものは、『霊界物語』の口述とその発表にあった。これは大本における「大本の立替え立直し」を、教義的にあらたに具体化したものであったといってよい。
一九二一(大正一〇)年の一〇月八日(旧九月八日)、王仁三郎にたいし、「明治三十一年旧二月に、神より開示しておいた霊界の消息を発表せよ」との神示があった(『物語』2巻総説)。さらに一〇月一六日には、開祖の神霊から、その発表についてのきびしい督促があった(『物語』8巻総説)という。それから二日のちの一〇月一八日から、『霊界物語』の口述がはじまるのである。当時王仁三郎は、大本事件の中心人物として責付出獄中であった。そして大本は前述のように、事件によって非常な苦境にたっていた最中である。信者は今後大本の運命が、どうなるかについて一抹の不安をいだいていたし、事実教団の内外には想像的な流言がしきりにとりざたされていた。そのうえ口述のなされたときは、あたかも本宮山の神殿が、当局の破却命令によって破壊されつつあったさなかである。まさしくそのような状況下にあって、綾部並松の松雲閣で、神殿破壊の騒音を身近かに聞きながら、王仁三郎による物語の口述が開始されたのである。『霊界物語』の発表が、いかにいそがれ、かつ経綸上において重視されたかをうかがうことができる。
大本においては、本来厳の御魂と瑞の御魂の二大神系があり、そのもとに経緯の神諭が発表されるさだめとなっていた。
「竜宮館には変性男子の神系と変性女子の神系との、二大系統がれき然として区別されている。変性男子は神政出現の予言、警告を発し、千辛万苦、神示を伝達し、水をもって身魂の洗礼をほどこし、救世主の再生、再臨を待っておられた」(『物語』1巻発端)とのべられているように、大本にあっては厳霊と瑞霊との二大教祖によって立教の基本がなりたつとされている。そして厳霊の肉の官であった開祖は、一八九二(明治二五)年から筆先によって、三千世界の立替え立直しの予言警告を発し、一九一八(大正七)年に昇天をむかえたのである。したがって、瑞霊の肉の宮である王仁三郎は、開祖昇天の後にあっては、開祖の神業をもうけつぐとともに、瑞霊の神業を完成するため、厳瑞二霊の神業をあわせて統一的に遂行する伊都能売の神の神業をくりひろげるのである。開祖在世中の王仁三郎のつとめについては、筆先につぎのように示されている。すなわち「出口は三千世界のこと、世界一さいを知らす役なり」(明治34・旧8・5)とか、あるいは「出口は将来のことを知らす役、海潮(王仁三郎)は、それを説いて聞かせて世界を改心させる役じゃぞよ」(明治33・旧12・13)などとのべられていた。つまり開祖は神・幽・顕三界すなわち三千世界の立替え立直しをしらせる役であって、王仁三郎はその由縁を詳細に解説し、人民に理解させて改心させるのが、その使命とされていたのである。したがって筆先の真解者は、大本にあっては、王仁三郎その人であって、他のものが勝手な解釈をすることは許されていなかったのである。けれども王仁三郎は、これまでは、本格的なその発表はおこなっていなかった。もとより瑞霊としての裏の神諭は断続的に発表されてはいたが、それは全体からみればまだわずかであり、すべてについてまとめられたものではなかった。しかも王仁三郎は筆先の真解ということばかりでなく、開祖の期待していた「みろく」の教説についても、まだ発表していなかった。それらが発表される時節が、いよいよ近づいてきたとする認識は、つぎの言葉にもあきらかである。そのことについて『霊界物語』第一巻の発端には、「天地剖判の始めより五十六億七千万年の星霜を経て、いよいよみろく出現のあかつきとなり、みろくの神下生して三界の大革正を成就し、松の世を顕現するため、ことに神柱を建て、苦集滅道を説き、道法礼節を開示し、善をすすめ、悪をこらし至仁至愛の教えをしき、至治太平の天則を啓示し、天意のままの善政を天地に拡充したもう時期に近づいて来たのである」と記されている。みろくの神・救世主神としての教説を開示し、あわせて筆先の真解釈を解説的におこなうために、大本事件という重大時期にさいして、その口述がはじめられたのである。大本の教義を確立し、信仰のありかたを立替え立直す統一的集大成の教典として、ここに『霊界物語』をいよいよ公にされるときをむかえる。
第一巻の口述筆録者は、外山豊二・加藤明子・桜井重雄・谷口正治の四人であったが、第二巻以後については筆録者があらたに増加されてゆく。そして第七二巻にいたるまでの間には、筆録者もつぎつぎとかわって、その数は三五人※にもおよんでいる。そのなかには口述者の自筆もあったが、口述を筆録しだ回数についていえば、もっとも回数のおおかったのは松村真澄である。
※筆録者(第一巻より第七二巻まで─ただし総説・序文・跋文等をのぞく)松村真澄・加藤明子・北村隆光・外山豊二・谷村真友・桜井重雄・井上留五郎・藤津久子・谷口正治・東尾吉雄・河津雄・栗原七蔵・土井靖都・藤原勇造他二〇人。
また口述をおこなった場所は、綾部並松の松雲閣にはじまり、一一ヵ所※においてなされている。
※口述場所(第一巻より第七二巻まで)綾部(松雲閣・竜宮館・錦水亭・月光閣)・亀岡(瑞祥閣)・岩井温泉(晃陽館・駒屋)・伊豆湯ケ島温泉(安藤晴夫方)・皆生漏泉(浜屋旅館)・伊予(山口恒彦邸)・丹後由良(秋田別荘)・天の橋立(なかや旅館掬翠荘)
その口述はどのような状態でなされたのであろうか。口述はほとんど布団のうえに横たわったままでなされ、一冊の参考書もおかずに口述された。それを筆録者が速記法によらないで原稿用紙に筆録し、清書したものを読みあげ、写しあやまりがあれば王仁三郎の指示によって訂正され、口述のまにまに原稿ができあがってゆくのである。各一巻の原稿用紙は、一〇〇字づめで約一二〇〇枚にものぼった。そのはじめは、一巻の口述に一〇日前後がついやされていたが、筆録者の筆の運びがはやくなるにつれて、口述の速度もはやくなり、その後はほとんど三日間で一巻が筆録できるというはやさであった。第四六巻のごときは、わづか二日間でできあがっている。
口述がはじめられるまえには、三〇分間くらいかすかなイビキをかいて、王仁三郎はねむりにつく場合がおおい。やがてねむりよりさめると、ただちに口述がはじめられるのである。ひとたび口がひらかれると、その口述にはまったくよどみがなく、いいなおしもない。口述は朝から夕方にいたり、さらに夜におよぶ場合もしばしばであった。ときにはうちつづく口述のため、非常に疲労して、口述しながら言葉の句切りごとにイビキがでるということもあった。フト気がついて「眠ってしまっていた、どこまで口述したか」と口述者は筆録者にたずね、筆録者が最後の一、二行ほどを読むと、ふたたび口述がはじめられるという状況であった。筆録にくわわった人々は、まことに神わざとふかい感銘をうけたという。
また口述の場面が寒帯地方におよぶと、口述者は夏でもふとんをかけ、ときにはコタツまでいれて口述がつづけられた。また口述が熱帯地方の場面になると、冬でもふとんをはずして、ウチワを用いつつ口述されることもあり、口述中の登場人物になにか苦痛の場面がでてくると、口述者自身もおなじような苦痛をうけた。そのような状況は側近の者がしばしば目撃した。口述がすすんできた後には口述台がつくられて、口述者はそのうえにあがって口述をなされ、ときには羽織・袴をつけて口述される場合もあった。筆録者の談によると、口述はまったく霊感状態のままになされたと思われるときもあり、霊感とともに、過去の霊的体験を自分で整理しながら口述されているときもあり、また人間的意識のままに口述された場合もあったという。
一九二一(大正一〇年)一〇月の後半から年末までに第四巻までが口述され、一九二二(大正一一)年には第五巻より第四六巻までが口述されている。なんと一年間に四二冊のおおきにのぼる。ついで一九二三(大正一二)年には、七月までに第六五巻までの一九冊、一九二四(大正一三)年には第六八巻までの三冊、一九二五(大正一四)年には第七〇巻までの二冊、一九二六(大正一五)年に第七二巻までの二冊の口述がなされた。そして数年間中止されていたが、一九三三(昭和八)年一〇月に霊界物語第七三巻から、特別編として「天祥地瑞」の口述がはじめられ、一九三四(昭和九)年の八月までに、第八一巻までの口述がおこなわれた。
一巻より三六巻までを一輯として四八輯、すなわち一七二八巻をもって『霊界物語』の意がつくされるのであるが、せめて一二〇巻で、その大要をのべることにしたいという口述者の希望(『物語』37巻序文)ではあったけれども、第八一巻(通巻一八六八章)で最終の巻となってしまった。それにしても、『霊界物語」はじつに原稿用紙約一〇万枚(一枚一〇〇字づめ)の大長編物語として具体化したのである。
〔写真〕
○王仁三郎の教示 錦の土産 p643
○口述をはじめたころの王仁三郎 松雲閣 p645
○丹後由良・秋田別荘 p648
○綾部・松雲閣 p648
○天橋立・掬翠荘 p649
○王仁三郎自筆の原稿 霊界物語第2編 p650