第一次大本事件のあたえた影響は、教団内部にもあらわれてくる。それは、知識層の信者のなかから、大本を離脱するものがでてきたことにもうかがわれる。知識層の信者にめだった信仰の動揺が明瞭にあらわれてくる最初の徴候は、一九二一(大正一〇年)七月二九日の「大正日日新聞」に掲載された、浅野和三郎・岸一太らが発起人となって発表した宣言書に見出される。その一端についてはすでに前述したが、その宣言書には
私どもは大本信者として、今正に一大方向転換を行はねばならぬ重大時機に際会して居る事を信ずるものであります。……この際われわれ大本信者として執るべき途は、一時も早く現実の社会に復帰して有用なる社会事業の一端にたづさはり、その平生の主張精神の実現に当る事であらねばならぬと考へられます。われわれ信者は口や筆で信仰を叫び献身犠牲を叫び、勤倹力行を叫びましたが、併し具体化した活字業の上に之を実施した事は一つも無かったのであります。自分自身実行の衝に当らずして、徒に之を他に求めんとしたのは確に真に神を信じ、信仰を説く者の行為ではないと考へられます。私共が罪識短才を顧みず、爰に率先して社会事業経営の第一歩を踏み出さんとするに至った理由は、主として此に存するのであります。
とのべられている。そして彼らは数箇条の経営方針なるものを提示した。それによると、その社会事業経営は、主として大本信者がこれにあたり、利己主義を排して公利公益をはかり、天産自給主義と大家族主義とにもとづいて「実践躬行」をなすというものであった。
いずれにせよ、その主張するところは、信仰のうけとめ方について、根本的にあらためることを意味している。前にものべたように、知識層の信者らの多数も、立替えの日近しとしてひたすらそのときを待望し、その日にそなえるために綾部に移住してきた人々であった。したがって、彼らの一部が現実社会に復帰するというのは、言外に、立替え立直しについての彼等なりの理解を修正し、自己批判したことを表明したものだったのである。浅野らの宣言書に前後して、役員・信者のなかから、あるいは就職・転出したり、または綾部在住のまま実業に従事するものがしだいにでてきた。それらの人々のなかには、もちろん、その後も信仰をもちつづけた者もかなりあったが、浅野和三郎らのいうところの、現実社会にたち帰り社会の一事業にしたがうことは、大本信仰を捨てさるか、もしくは信仰と疎遠になるかのコース以外のなにものでもなかった。
〔写真〕
○み手代 一九二三─大正一二年王仁三郎が自署し拇印をおした竹の杓子 p681
○社会復帰の宣言書とそのこころみ─岩田らの合資会社熱化工業所地鎮祭 p682