谷口正治(雅春)は、現在の生長の家の主宰者である。谷口の大本入信は一九一八(大正七)年のことであり、翌年の春に綾部に移住した。大本時代の谷口は、きわめて特異な存在をとり、とくに「大本の聖フランシス」と自称して、薄衣に荒縄という生活をおくったように、その思想も生活もきわめて異様なものがあった。谷口が大本に興味をいだいたのは、島根県で岡田射雁がだしていた雑誌「慧星」における大本の紹介記事をよんでからであり、とくに鎮魂帰神にふかい関心をもったからである。そのとろ、みずから語っているところによれば、仏教を自分流に解釈して、「三界は唯心の所現」であり、人間のこころ以外に別の存在はないと考えはじめていた。ところが、当時大本の最大の宣伝方法であった鎮魂帰神は、人間にはそれぞれの守護神があり、これが人間の意志を動かすものだ、というように解説されていた。彼はそこに、鎮魂帰神による守護神の実証につよくひかれるものをみいだしたと思われる。
さらに、これを入信の動機として、筆先の立替え立直しの主張にもっともふかい関心をいだいた。この世の弱肉強食や「汚れた社会組織が神によって破壊されるこれが谷口の筆先にもっとも共鳴した点である。「資本主義の工場に生活して、資本家が如何に女工を搾取しているかを現実に見て来ていた私にとっては、この弱肉強食の世界が終りとなるという宣言は胸をうたずにはいなかった」といい、それは「実に旧約聖書の予言者の書のような雄大な宣言」としてうけとったというのも、誇長ではないであろう。そのころの大本では、浅野和三郎を中心としてインテリ層が大本の所説の理論づけをおこなおうとしていたときであったから、谷口はまたたくまに、その文筆の才をみとめられるようになり、文筆面で活躍するようになる。そして一九一九~二〇(大正八~九)年の、かれの文筆活動はめざましいものがあった。彼は浅野の直系として理論活動を展開するのである。
谷口はいう。「天地は審判の火に焼かれている。戦争と飢餓と疫病とは地上に恐るべき勢を以って氾濫している。世界風邪はどうであったか。食糧の欠乏はどうであったか。大火災の頻出はどうであったか。新聞紙は露都の食糧欠乏甚しく……人は人を共食し、人肉秘密にて販売せらると報じている。これでも愈々の時でないといふのか」(『皇道大本の出現と世界の終末』大正8・7─「大本信徒の主張」収録)。
谷口の目にうつった当時の世界は、むごたらしくもまた悲惨なものであり、あたかも、キリスト教にいう最後の審判がやってきたかのようにうけとられた。彼はこのころ、しきりにキリスト再臨論をといたが、それはいまのべたことと関係がある。「最後の審判の惨憺たる状態」を救うキリストはいつ再臨するかという問を提出して、それにつぎのようにこたえている。『聖書』のヨハネ黙示録によると、救世主は世界最後のたたかいとともにやってくる。だからキリスト再臨の時期が世の立替え立直しのときである。ところで『法滅尽経』によると、月光菩薩五二才が重大なる時期を示すが、王仁三郎は、筆先によれば月の大神の霊魂なのだから、王仁三郎五二才のとき、つまり一九二二(大正一一)年こそ立替えのやってくるときだというのである。谷口によれば、王仁三郎こそキリストの再臨であり、教祖なおは王仁三郎出現の先駆者であると結論づけられる(「基督再臨の真相」大正9・10)。したがって、「大本教祖の筆先と、仏説弥勒下生経と基督教の聖書とを相列べて最後の審判の日を研究していた私は、周囲の神懸りたちの昂奮した雰囲気と、自分自身の研究とに巻込まれて、矢つ張り最後の審判の正念場は大正十一年三月三日、五月五日と思へるのであった」ともいうのである(『生命の実相』6巻)。
そして立替えの日がせまり、これを一大事だとわかるもののみが救われる選民なのだ、と彼はといた。こうした谷口の考えは、当時の大本のなかでもきわめて独特のものであった。だが、その考えもだんだんとぐらついてくる。
立替=基督再臨は、谷口にあっては、どうしてもそうあるべきものであり、またそうあってほしいという願望と、期待の表現にほかならなかった。けれども、ロシア革命や米騒動などの激変がややおさまり、また官憲の目が光ってみると、彼の考えもしだいに動揺してくる。そのめだった変化は、彼のいう立替えをめぐる解釈の変化にもあらわれてくる。「大正日日新聞」の英文欄に、あと数百日以内に立替え立直しがあると主張されているのをみて、彼は、これは正しくないと批判する。そして筆先によれば、「建替えの最後の日は伸縮自在の日限に来るべき」ものであり、その立替えというのは「天上の事」に属し、この世のことではないのだ。それがいつこようと悔いのない生活をしなければならない、と主張している(「最後の審判の予兆」大正10・3)。この段階になると、立替えについてのかつての説を、あっさりとすててしまうというかわりかたであった。
三代教主直日の回想によると、一九二一(大正一〇)年の秋のある日、谷口は王仁三郎をたずねたが、王仁三郎が不在であったため、直日にたいし、大本は一九二一(大正一〇)年に世の立替えがあるといったが、なにもかわったことがない。信者のおおくは家業を放棄し、会社をやめてきているので、いま生活ができなくて困っている。「大本はまちがいであったと天下にあなたの名で謝罪して下さい」と要請したという(「おほもと」昭和33・4)。この「回想録」によっても、谷口をさらせた根本の原因が、立替え説の崩壊にあったことが明瞭となる。やがて谷口は大本をさって、東京にうつり、雑誌の編集をやったり、また浅野の心霊科学研究会の仕事をしたりするようになった。とくに注目されることは、彼がこのころに、後の生長の家の教理の芽をみつけはじめていたことであろう。谷口のあらたな主張は、大本時代とまったく裏腹なものとなり一切を神に帰した立場から、個人の精神が一切の根源だとするところにあった。そして「神を審判く」という文などをかくようになるのである。このようにして、一九二八(昭和三)年に生長の家ができあがる素地が形づくられていった。こうした例にも見出されるように、立替え立直しを天変地異や世の終末として理解し、ここに信仰の根を求めた人々は、弾圧の到来とともに離反していった。これらの人々の多数は、同時に『霊界物語』にたいする批判者でもあり、王仁三郎の指揮に反発していった人々でもあった。それらのうちには、浅野和三郎・岸一太・谷口正治のほかに、浅野正恭・小牧斧助・今井武夫・江上新五郎・岡田熊次郎などがふくまれているが、彼らはほぼ、事件の勃発を契機として一九二四(大正一三)年のころまでに大本を離れていった。
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○谷口が大本の機関誌にかいた論説の一部 p689