一九二四(大正一三)年二月一三日、責付出獄中であった出口王仁三郎は、極秘裡に日本を脱出し、数人の部下とともに蒙古にむかった。
この「入蒙」は張作霜のもとにいた軍閥盧占魁将軍をひきい、洮南を起点として王爺府・公爺府・索倫・札魯特旗・白音太拉などの各地をめぐった約四ヵ月間にわたる、当時としては破天荒の冒険であった。そして「パインタラ遭難」で入蒙の終止符がうたれる。
それは第一次大本事件の勃発からかぞえてちょうど三年目にあたっていた。事件は控訴中であり、『霊界物語』の口述はその大半をおわっており、教団はふたたびたちなおりつつある時期であった。
一九二三(大正一二)年一一月ころからすでに蒙古入りの準備が秘密裡にすすめられていた。
かつて王仁三郎は、一九二一(大正一〇)年の二月一二日、大正日日新聞社社長として社務を総理していたとき、上空に異様の光をはなつ上弦の月と太白星をみた。その日に奇しくも大本事件が勃発したのである。ついで一九二三(大正一二)年一二月、加賀巡教中、日月星が天空に輝く奇瑞そみた。さっそくこの奇瑞をとりいれて日地月星の宇宙紋とし、ただちに紋服に仕立てて着用し、さらに綾部に帰来した後、「宇宙紋章」として五個の徽章を作製させた。
そして一九二四(大正一三)年甲子の節分(二月四日)に、王仁三郎は更始会を創立した。はじめはこの会の会則はつくらずに、ただ神業のために奉仕活躍するもののみをもって会員としたが、さきに作製した宇宙紋章を更始会の会章とさだめ、節分祭に参拝してきたおもな信者にたいして、この徽章を手わたした。
宇宙紋章というのは、円のなかに日・地・月・星をかたどって宇宙をあらわしたものである。また日・地・月は霊・力・体の三元を象徴し、星は火水であり、人をも意味し、また大本をも意味するものであった。この屋が中央に位置せずかたよっているのは、活動の余地をのこしているものだという。更始会の創立や徽章の作製が入蒙のための用意にほかならなかったことは、まもなく信者間にもわかるようになってくる。さらに王仁三郎によって「み手代」数十体が用意され、和紙五九枚に朱肉で両手型をおし、それぞれの氏名を指定してわたすことになる。なおこの節分には、出口宇知丸と三女八重野とをいそいで結婚させ、後事を託するため「錦の土産」(和紙八八枚)を手記して、宇知丸に手わたされている。これらはみな入蒙後の教団のいとなみにたいする配慮であった。その「錦の土産」のなかには
東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁十年の夢今や正に醒めんとす。
と記されている。王仁三郎によってのべられた三年来の夢とはいったいなんであったろうか。それは、東亜および世界の精神的統一にあった。その一端はつぎの漢詩のなかにもうかがわれる。
全身の智勇を推倒して 万里の荒野を開拓す 神竜淵に潜むと難もいずくんぞ池中の物ならんや 天運ここに循環し来り天地に代り鴻業を樹立す ああ北蒙の仙境 山河草木盛装をこらし 歓呼して我神軍の至るを待望す 英雄の心事亦々壮快に非ずや(原文漢詩)
そこには、はるか北蒙の天地をあおいで漢詩に託された王仁三郎の心境が、いきいきと描かれている。「日本一の吉備団子はないけれども、世界一の吉備団子が集って、東亜の天地を餅にしたり、団子にしたりする計画だから随分愉快だ」とも語っていたように、王仁三郎の巨大なひととなりが、なにびとも意図しなかった破天荒な壮挙とむすびついて、詩となったものであり、王仁三郎の面目躍如たるものがある。
〔写真〕
○宇宙紋章 p716
○蒙古平原をゆく王仁三郎 下木局子にて p717