各宗教との提携、つづいて人類愛善会の創立、さらに海外宣伝の活発化とはなやかな活動が展開されるにいたるまでの教団のたち直りは、けっして安易なものであったのではない。第一次弾圧の傷手は教団の活動の前途にいくつかの壁をつくっていた。たとえば横須賀支部などは、事件前には七〇~八〇人ほどいた信者が、三〇人にへってしまっていた。それはこの支部がとくに海軍関係の影響下にあり、長官から大本信仰の厳禁を命令的にいいわたされたためだともいわれている。それほど極端ではないにしても、大本の宣教が、一時停滞せざるをえなかったことはたしかである。
保釈出獄直後の王仁三郎は、この暁闇ともいうべき大勢を挽回するにあたって、
これまで、大本の教の説き方が、時節に応じて変ってきたのも、すべて神界からの都合のことであった。けれども霊界物語が出たからには、もう変ることはない。したがって、霊界物語をしっかり腹におさめて、真の教のタネになってもらひたい。教の真実が説かれぬうちに大本から去った人は気の毒であるが、これも因縁であった。世界から如何なる人が引きよせられてきても、応答のできるまで、霊界物語の真意の判る者ができるのを、神さまは待ってをられる。いまの静かなうちに、霊界物語のおかげを積み、身魂を磨いてもらひたい。今後は霊界物語の拝読と、海外宣伝に力を入れたい(大正13・11)。
とのべ、役員・信者に今後の教団方針の一端が示された。これによっても、教団運営の基本理念が、『霊界物語』の精神におかれていたことを端的に知ることができる。
王仁三郎は、これらの方針や指示を全信者に徹底させるため、すでに前年の一二月から大本瑞祥会長井上留五郎をして、全国の分所や支部を巡回させ、これを詳細に伝達させていた。その内容はおよそつぎのとおりである。
すなわち(1)大本瑞祥会分所・支部の使命を明示したこと。(2)大本神諭の真精神は『霊界物語』によって解明されていること。(3)大神人組織のために『霊界物語』などの神書の拝読、機関誌の通読および聖地参拝などによって、本部と地方機関・信徒との一体化をすすめること。(4)聖師の神徳使命を解説し、二代教主・三代教主の使命を明らかにしたこと。(5)大本信徒の世界的視野の開眼をのぞみ、エスペラントの習得や日本式ローマ字の使用普及の必要な理由をといたこと。(6)ミロク神業の飛躍的進展と神業奉仕のあり方をとき、社会的業務の尊重すべきことを強調したことなどである。
以上の諸点が懇切に解明されていったので、王仁三郎の教説はあまねく信者にゆきわたってゆく。この伝達内容はその後、一九二五(大正一四)年の六月に刊行された『暁の烏』に収録されて、当時大本信者の指標ともいうベき役割をはたしたのである。
とくに『霊界物語』拝読の奨励については、非常に力がいれられ、急速に『霊界物語』の精神も普及していった。
封建社会の身分差別は、日本近代社会のあゆみのなかで、たくみに権力によって再生産されていったが、その故に基本的な生産関係から疎外されていた被差別部落民の解放をもとめる運動が、大正期にはいっそうたかまってきた。一九二二(大正一一)年の三月三日、京都市の岡崎公会堂で創立をみた全国水平社の発会などは、その具体化にほかならない。人類愛善の道をとく大本は、これらのうごきにどのような態度をとったのであろうか。
一九二五(大正一四)年一月一八日、群馬県におこった「世良田事件」について、つぎのごとき見解が発表されたのが注目をひく。
二月八日に、出口宇知丸は綾部のみろく会での席上「神の道は平等愛であって、因習的な差別感があってはならぬ。神諭に『世に落ちているものを世に上げる』『桝かけひきならす』と示されている。大本の教や主張が理解され、人類愛に目覚めるならば、差別感はおこらないはずである。因習や過去のことにとらわれて差別的なあつかいなどすることのないように」ときびしくいましめている。そこには因習として差別問題をとらえようとする態度がみられるが、神のまえには人間はみな平等であり兄弟であるとする思想がうちだされている。
〔写真〕
○神殿の鬼瓦 p795
○暁の烏 p796