みろく大祭後の聖師は、一九二八(昭和三)年の五月から巡教の旅にたった。これもまた現界的活動を積極化せんとする動きのあらわれであった。
〈四国の巡教〉 聖師は岩田久太郎・栗原白嶺ほか二人をともない、五月六日に出発して、神戸から浦戸丸で高知に到着した。高知市の足立卓子邸・香長文部に宿泊し、大歩危・小歩危を自動車でこえて、徳島・神ノ洲・栲機・徳島中央の各分所・支部などを巡教した。しかしその巡教はけっして安易なものではなかった。岩田と栗原は高知で六ヵ所、徳島で四ヵ所講演をしたが、徳島公園滴翠閣での講演会の席上、栗原が「大本神諭の権威」について講演し、日本は大国難に直面している、国民は目をさますべきであるとのべたのが官憲の忌譚にふれ、栗原が徳島警察署によびだされ、署長から注意をうけるということがあった。また一行は香川県の白鳥をへて高松にはいったが、高松市讃岐会館の会場では取締りが予想以上にきびしく、栗原が「現代世相の内観と大本」の演題で大本事件の問題にふれようとすると、警官は講演の中止を命じ、香川県下の講演会はわずか二ヵ所にとどめさせられた。
ついで聖師の一行は愛媛県におもむき、新居浜・今治・道後・ふたな・郡中・大洲などの各地を巡教した。新居浜からは出口宇知麿が一行にくわわり、栗原・岩田とともに同県下では九ヵ所で講演会をひらいた。聖師によって、〝法難史たたりをなして阿波路より洋服和服つきまとふなり〟とよまれているように、警官の監視をつねにうけ、圧迫下の巡教であったにもかかわらず、一般にたいしては大本への認識をあらためさすのにおおいに役だった。
この巡教中にはつぎのようなこともあった。五月一四日、吉野川の川上の坂本河原では、地元の有志や青年団が歓迎の心をこめて阿波随一の大がかりな仕掛花火を用意したが、おりあしく大雨となったので、一同の失望は大きかった。このとき聖師は、〝伊都能売の神にささぐるこの煙火雨をはらせよ水分の神〟 〝大神の御命のままに来し吾に煙火を見せよ産土の神〟の二首をよみ、神に祈って言霊を奏上した。ところがたちまち雨はやみ晴れまがでてきたので、数十発の見事な花火を打ちあげることができた。そのあとまた土砂ぶりの雨となった。一同は声をあげて感歎したという。
聖師は多忙のなかを沿道の支部にもたちより、地方名士・新聞記者などとも面接したが、この間に短冊五〇〇枚・半切一八五枚・半紙画五〇枚が染筆されたほか、明光社の歌句の選もなされた。聖師は旅のさなか「見た物、聞いた物をできるだけ書いておいたならば、信者がこれを読んでくれると、みなと一緒に旅行することになる」といって、車中や船中でも、いつも万年筆を手にして、つぎつぎに歌日記がつづられていった。四国巡教の歌日記は二〇〇〇首にもおよんでいる。これは『二名日記』としてこの年の八月に刊行された。
なお巡教先で支部がつぎつぎに新設されたが、支部を分所に昇格したり、各地で宣伝使を新任・昇任するなど、そうしたこころづかいはその後の巡教においてもつづけられている。
〈東北・北海等の巡教〉 昭和三年の七月一一日に聖師は綾部を出発し、東北への旅路についた。このときの随行者は岩田久太郎・吉原亨ほか三人である。福井県武生の米倉邸・石川県の大聖寺・山代・粟津・御幸・苗代・小松をへて七月一五日に金沢の北国夕刊新聞社に一行は到着した。同社は渡辺・大沢らが経営しており、聖師が社長であったので、全社員一二七人と面接した。なお、ここは人類愛善会北陸分会がおかれていたところである。
ついで一行は加賀・犀川・七尾・瑞澄・中島などの分所・文部および和倉をへて、能登分所の浜中邸に二泊し、七月二〇日には船で富山県の雨晴へむかった。そして太美山・三五・月光宮・新川などの分所・支部をめぐり、新潟県寺泊の藤田邸に五泊し、寺泊支部を分院にした。二八日には佐渡ヶ島にわたった。聖師の『東北日記』(一の巻)によると、佐渡については「霊的妨害の多き嶋なれば、国魂を清め……嶋人を霊的に救はんと今回の渡航を試むるに至れり」とあり、島を巡教して、島ではじめて諸橋家にご神号を奉斎させられた。
新潟・新発田・三宜の分所・支部などにもたちより、七月三一日には山形県にはいった。酒田・月光川・藤ヶ崎・日光川などの分所・文部を巡教し、八月二日には青森について田端邸に四泊した。青森の昭成高等女学校では講堂に大本皇大神が奉斎され、四五〇人の生徒が神前に礼拝した。青森では支部のほかに東北分所が新設された。山形県でも青森県でも寺の住職が聖師に面会をもとめてきて、金品をとどけられたことは異色であった。
その後、聖師の一行は八月五日に北海道にわたり、函館に二泊したが、その第一夜について『東北日記』には「昨夜は国魂神の来訪しげく一睡もせず」と記されている。函館から黒松内・南尻別・狩太・倶知安・小樽・札幌・琴似・旭川・鷹栖などを巡教して士別につき、ここに士別分院が設置された。さらに風連・天塩・名寄・下川など各支部をへて紋別(北光分所)で四泊した。ここに至る途中、チンボクビラと土人の呼ぶ霊山を高倉山と命名し、オシマツクリービラととなえる霊山には角高山と命名した。八月二六日、この日は聖師の五八回の誕生日にあたっていたので、北光分所においてその祭典がおこなわれた。
八月二八日の夜には稚内を出帆し、翌二九日の朝、とおく樺太におもむいて野田支部についた。ついで豊原をへて大泊を九月二日夜に出帆している。樺太では豊原・真縫・好仁に人類愛善会の文部が設置された。なお樺太や北海道では、聖師がかつて大阪の刑務所に収容されていたときに見た夢のとおりの光景が、そのまま実現したとしばしば語っている。
あけて九月三日にふたたび北海道にかえり、瀬戸牛・池田・帯広・根室・千島(国後)というように巡教の旅がつづけられ、千島ではただ一回の座談で千島最初の人類愛善会支部が新設された。さらに、釧路をへて、九月一二日には山部に到着した。山部は北海道の中心部にあたる芦別山のふもとの村である。芦別山は聖師によって、喜界島の宮原山にたいして日本の艮にあたるところであり、艮の金神の分霊がしのばれた因縁の霊山であるとされた。そのゆかりによって山部を北海道の霊場とし、堤喜吉邸に大本北海別院が新設された。山部については、〝北海道の要と神の定めたる山部の国魂美はしきかな〟ともよまれている。山部に四泊ののち、九月一七日には青森へむかい、四〇余日にわたる北海道・樺太の旅がおわった。
九月一八日、聖師は、中国青海省の青海王が亀岡に立寄り青森までわざわざたずねてきたので、浅虫温泉で彼と歓談し、大湊をへて二二日に十和田湖をたずねた。十和田湖については神業につらなるふかい神秘があるが、ここでは、〝山川をどよもしながら十和田湖の主は全く天に昇れり〟とよまれている。ついで岩手県に入り盛岡・花巻・日誌・紫波・稗貫・上郷・宮本をへて一〇月一日に一行は宮城県の仙台に到着した。駅から四〇数台の自動車をつらねて千代分所にはいり、二泊したのち仙台の第二分所にうつった。ここで佐沢広臣が新築した瑞光殿を仙郷別院にし、そこに人類愛善会の東北本部をおいた。九泊したのち、鎌先温泉・塩釜・松島をへて、大塩・広淵・田尻・富永・川渡の各地をめぐり、一〇月一九日にふたたび山形県にはいった。山形・高原・村山・天竜・蓮台・西村山・大谷の白田邸・大沼・赤湯・置賜・漆山・米沢などにたちより、福島県白河、栃木県の東山分院、浦和の志賀和多利邸をへて東京に入り、豊玉・荏原・大森の岡田茂吉邸などに宿泊して、ようやく一一月七日に綾部に帰着した。このたびの『歌日記』はつぎつぎに『東北日記』(全八巻)として刊行されている。
四ヵ月にわたるこの巡教の旅によって新設された支部や、分所に昇格された支部は多い。のみならず各地で政界人・軍人・官吏・教育家など各方面の人々の訪問をうけ、とくに新聞記者の来訪はめだって多かった。その取材では著名人としてあつかい、政治・経済・思想・宗教などに関し聖師の意見を聞いたものや、怪物王仁三郎という興味から入蒙その他アジアの将来などに関したものもあり、それらは数回にわたって新聞に連載された。この巡教が大本の啓蒙と宣伝に寄与するところが多大であったことはいうまでもない。
随行した岩田と吉原は、旅行中いたるところで講演会をひらき、その講演もまた反響をよびおこした。そのうちで宮城県では、県視学の中鉢玄策の尽力により大河原小学校で校長・訓導ら六〇人に、また山形県赤湯公会堂では陸軍大学の将校・学生ら三〇〇人に「日本人の使命」・「救世主の証」などについて講演している。
聖師の東北巡教中にたまたま汽車にのりあわした東京帝大教授農学博士那須皓が、雑誌「経済往来」(昭和3・10)につぎのような一文をよせているのは興味ぶかい。
ここ酒田から車中大いに異彩を加へる。といふのは大本教主出口王仁三郎氏一行が乗込んだからだ。出口氏の名前は色々の機会に耳にしていたが、親しく氏を見るのはこれが初めてである。薄小豆色の派手な縮緬紋付の羽織を着し、恵比寿様の如く結髪して太いヘヤーネットで之を押へ、手には大いなる金扇を携へて悠然と歩み来る。奇抜な服装は舞台の上の人を見る如き感があるか、氏そのものは老農又は昔の御庄屋さんなどを想起せしめる典型だ。……プラットフォームには同じく長髪土耳古帽の人々が二三十名、赤く十曜の紋を染めだしたる紙の小旗を手にして、ズット立ち並んでゐる。中に一人チョンマゲの老人のあったのを珍らしく眺めた。此の見送りの一行は汽車が動き出すと無言で旗を振った。教主は窓から顔を出し、かの金扇を開いて鷹揚に是を上下した。一町二町、人々は尚旗をふる。教主は身をのり出して扇を動かすのを止めない。一種の劇的光景であった。其の後暫くにして出口氏が頻りに万年筆を走らせつつあつた時、車窓の外の畦道に数名の信者が大本教の旗を振って歓呼してゐる姿が見えた。出口氏はいそいで窓をあけて、今度は手に万年筆を握ったまま、既に小さく遠ざかって仕舞った人々に目礼して居った。東北の山河の中に、純朴なる農民の間に大本教は根を張りつつあるのである。これは私を驚かした。……私は信者が一般に出口氏を、「先生」と呼んで居るのを耳にした。これも教主に対する新らしい呼び方だ。その先生は、やがて羽織も脱ぎ浴衣一枚のくつろいだ姿となって安座し、煙草を吸ったり楽しげに物語ったり又はセツセと書きものをしてゐた。
一一月一六日、天恩郷でひらかれた宣伝使会合の席上、聖師は、「たとひ事実が違ふにした所で、日本の人民の分際として、不敬罪といふ嫌疑を受けたのでありますから、謹慎のため、一日も公衆に向つて説教がましい事はしなかった。大赦の恩典に浴し、晴天白日の身となりましたが、又三年の謹慎が過ぎましたら、お話を到る所でし、演説もするかも知れませぬ」と語っているが、しかし随行の人々にはおおいに獅子吼すべきときだとし、各地で講演会が開催されていったのである。
ついで昭和三年の一二月一五日、聖師は二代教主とともに鳥取県の西伯郡日吉津村の神刕別院の開院式にのぞんだ。日吉津村は松田盛政の努力によって、全村がほとんど大本に入信していたから、村をあげての歓迎ぶりであった。このとき聖師によってこの地の由来がとかれ、「素盞嗚尊が八岐の大蛇を退治したと言はれるのは大山のことであり、この別院のある地がそのとき神庭会議を開いた因縁の地である」と語っている。それから米子分所・松江分所におもむいて、二一日に帰綾した。
聖師の歌に、一九二八(昭和三)年の暮、〝琉球の島より樺太千島まで宣伝の旅楽しかりけり〟 〝今年は十二ヶ月のその間旅行せぬ月一月もなし〟と詠まれているように、巡教の旅がつぎつぎとつづけられていったのである。
〔写真〕
○みろく大祭後、聖師の巡教は四国からはじめられた 大洲 p19
○裏日本を縦走して北海道へ 馬で迎えられた一行 北海道 狩太 p21
○巡教は樺太にまでおよんだ p22
○随行者によって各地で講演会がひらかれた 仙台 p23
○神刕別院 p25