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聖師の巡教と歌碑

インフォメーション
題名:聖師の巡教と歌碑 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:208 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2017-10-03 15:01:28 OBC :B195402c5411
 一九三一(昭和六)年一〇月一日に聖師は二代教主とともに、寿賀麿・岩田久太郎を随行として山形県飽海郡西遊佐村の東北別院開院式にのぞんだ。この別院は松林・農園をあわせて三三〇〇坪あり本館一三〇坪・付属宿舎建坪六四坪余を有していた。聖師によって神殿は松風閣、前庭は金鷄苑、道場は宣明殿と命名された。ついで一〇月五日、一行は北海道山部の北海別院道場びらきの祭典にのぞみ、ここでも別院は鳳明殿、道場は更生殿、庭園は万祥苑と命名された。七日青森分所をへて八日には十和田湖に清遊した。一〇日には盛岡市の竹内邸に入りここを盛岡分院とした。一一日に仙台の仙郷別院をへて一三日は福島県の白河分所に入った。この巡教中、聖師は疲労のためたびたびかるい脳貧血をおこし、二代教主がかわって面会した。その後、浦和分所・東京の紫雲郷別院をへて一七日亀岡に帰着している。一一月二一日、聖師・二代教主は兵庫県抻美の但州別院開院式にのぞんで、本館を鶴遊殿と命名し、翌月一三日には、聖師は高木鉄男・平松福三郎・寿賀麿を随行として四国にわたり、一四日に愛媛県荏原村の伊予別院の開院式にのぞんだ。ついで、松山分所・新居浜分院・清風分所から高松の南海別院・富田分所、さらに高知分所を巡教して二四日に亀岡にかえるという多忙ぶりである。
 一九三二(昭和七)年一月五日、大阪市天王寺区東高津北ノ町に大阪分院が開設されたので、聖師はその開院式に出席した。この地域は、仁徳天皇ゆかりの高津の宮のあったところとつたえる。一七日には北陸巡教のため、岩田・寿賀麿を随行として出発、金沢の金城分院にはいった。この機会に、かつて人類愛善会北陸分会長であった名僧石川舜台を慰霊するために道林寺をたずね、一九日には大聖寺分所に入って、二〇日に小松の愛善堂完成祭にのぞんだ。同月二五日、松江の島根別院に寿賀麿・藤原勇造を随行として巡教した。二六日には地恩郷別院(島根県東村)に入り大本神社の鎮座祭に出席し、神刕別院(鳥取県日吉津村)をへて、三一日に亀岡にかえった。五月五日より静岡県湯ケ島の伊豆別院で入湯静養していた聖師は、七月一日焼津にむかい、綾部より焼津駅についた二代教主や地元信者らとともに焼津神社に参拝し、おわって焼津支部にたちより、二日には浜松分院の開院式にのぞんだ。それより愛知県稲沢町の東海別院・玉野支部・名古屋分所、三重県の桑名分所を巡教し、七日には多度山神社に参拝して亀岡へかえっだ。一一日、聖師・二代教主は大国以都雄・加藤明子を随行として滋賀県小松村の真奈井分院の開院式に出席し、八月九日には、桜井同吉・東尾吉雄を帯同し、福知山郊外の茶臼山および殿山一帯を検分した。これは福知山町が大本の神域にと献納を申しでたためである。
 八月三一日、聖師は二代教主と東上した。しかし九月二日、二代教主は出口竹蔵の昇天のためいそいで綾部へひきかえすことになった。聖師は平松・広瀬義邦を随行として茨城県の古河・下館・長讃(ながさ)・水戸の各支部をへて五日岩間分所に入り、大洗磯神社に参拝、岩間分所を分院とし、苑を瑞雲郷と命名された。ついで江戸崎・竜ケ崎支部・北総分所・取手支部をめぐって一〇日紫雲郷別院についた。聖師の昭和青年会服の着用はこの時の巡教からである。
 あいつぐ巡教で、聖師の活躍はなみたいていではなかった。一〇月一八日、聖師と二代教主は竹田の愛善郷へおもむいた。随行したのは平松・大国・藤原らであり、全町あげての歓迎式があって、一九日には立雲峡を探勝した。ついで鳥取分所に入り分院に昇格、神刕別院・米子分所をへて、二一日島根別院についた。平松・藤原は出雲大社・日御碕神社に代表参拝した。二三日に海潮支部にむかい八雲山に登山した。この八雲山は神話につたえる素盞嗚尊と櫛稲田姫のゆかりの土地である。頂上の宮跡に祭壇をもうけ祭典後この地を神跡として整備するようにとの指図があった。二五日は地恩郷別院に入り、木の花支部・松江分所をへて鳥取県の東伯分所につき、東伯分所を由良分院とし、城の崎支部をへて二八日には但州別院にはいった。そして苑内に平安石を指定し、神美支部を分所とした。
 一一月一五日、聖師は随行の岩田と北陸山代温泉畑屋旅館に宿泊し、北陸別院の予定地を検分した。おわって金沢の金城分院に入り、富山県の福野・富山・山王の各支部をへて二〇日新潟県の寺泊支部につき、ここを分所とした。二一日に東北別院にはいり、秋季大祭につづいて歌碑完成式がおこなわれた。歌碑には、〝北海の旅路遙けしわれは今出羽の大野の雨聴きてをり〟とうたわれてあり、神声歌碑と命名された。
 そのとき聖師は「神代の昔国常立尊は北海道の芦別山に、豊雲野尊は鬼界島の宮原山に御隠退遊ばしたのである……坤の金神が遥々ここまで御出になり、鳥海山にお登りなされ、遠く芦別山の夫神を偲ばれた涙ぐましい縁の深いところで……北海道の歌碑はすでにできあがり、宮原山の歌碑が最近できあがるので、いよいよ両歌碑を結びつけるここの歌碑を開くためにわざわざ出て来た。歌碑の歌は私のよんだ歌でなく神様の歌である」と信者に語っている。
 なお、北海別院の神生歌碑、〝芦別の山はかなしも勇ましも神代ながらの装ひにして〟、鹿児島県大島郡喜界村宮原山の神声歌碑、〝世をおもふ心のふねに棹さして宮原山にはるばるわが来つ〟とあり、この二碑の除幕式には日出麿総統補が聖師の代理としてのぞんでいる。
 二四日青森分院についた。そして新築された神殿は青雲殿、居間は観松閣と命名された。二六日には北海別院に入り要巌歌碑の歌が揮毫された。二九日札幌支部にたちより、三〇日には青森分院までかえり、庭前の巨石に鎮魂して平安石と命名された。一二月一日盛岡分院にて本殿を清新閣、庭を暢神苑と命名し、三日には仙郷別院に入り庭を瑞神苑と名づけた。八日に福島県の郡山支部、九日に白河支部に一泊し、この支部を白河分院とした。これより栃木県の黒磯支部・東山分院、浦和の紫明郷分院をへて紫雲郷別院に到着、一四日には静岡県の志太温泉、一五日に五州ケ岳の別院候補地を検分し、藤枝・浜松支部をへて亀岡へ帰着した。
 一二月二〇日、聖師は岩田を随行として、島根別院における歌碑除幕式に出席した。歌碑は三基で、そのうちの憧憬歌碑には、〝出雲路の旅にし立てば時じくをわが眼引かるる雪の大山〟、風景歌碑には、〝夜見のはま出雲不二ケ峯中の海宍道のうみ照るうましかみの国〟、赤山歌碑には、〝赤山の紅葉にはゆる夕津陽の影黒々と庭をゑがけり〟ときざまれた。憧憬歌碑について聖師は「これは素尊のご意志を体して代詠したもの」と語った。
 一九三三(昭和八)年一月四日聖師は神戸・西宮・梅の宮支部をへて六日大阪分院に入ったが、たびかさなる巡教のためその疲労もきつく、面会を一切ことわって静養につとめ一一日亀岡にかえった。八日、二代教主は宇知麿を同伴し桑名分院の開院式にのぞんだ。
 二月九日、聖師は岩田・高木を随行として静岡県三島町の蓬莱分院開院式に出席し、本館は透明閣、庭園は玉泉苑と命名された。一一日には伊豆別院に入り二二日まで滞在したが、その間に、『エス和作歌辞典』の執筆がなされている。二三日には清水の旧師長沢雄楯をたずね、旧師夫妻と懐旧談に夜を徹した。ついで沼津の創作社を訪問、歌人若山喜志子と歓談して伊豆別院にかえった。三月一日静岡分院に入り、二日には佐倉支部にいたって池宮神社に参拝した。三日佐倉支部を遠州分院に昇格して苑は松風苑と命名され、ついで玉野支部に一泊して対岸の一峯を霊松山と名づけられた。五日に名古屋分所をへて高木一武邸に一泊、ここを向城館と名づけ名古屋金城分院となった。六日には桑名分院にいたり、八日に亀岡に帰着した。一一日、聖師は二代教主とともに、村山政光・岡道昭を随行として和歌山分所に入り、海草・湯浅各支部を巡教し、一四日には比井崎村の紀伊別院、紀井和田・南園各支部、田辺分所をまわり一七日串本支部にいたり、二代教主は潮ノ岬神社へ参拝した。ついで勝浦・新宮・木ノ本各支部をへて熊野の三社を参拝し、帰途田辺分所にたちよって亀岡へかえった。
 四月一五日、聖師は静岡県江尻の長沢邸につき、翌日長沢夫妻らをむかえて天恩郷に帰着した。一九日には聖師は寿賀麿・岩田・加藤を随行として長沢夫妻一行六人と保津川を舟でくだり、大阪を見物後大阪分院に一泊、二〇日に神戸支部に入りここを分所に昇格、ついで竹田別院に到着、二一日には立雲峡の竜神を別院に遷座した。二二日但州別院道場完成式にのぞみこの道場を鶴鳴殿と命名、また歌碑の除幕式がおこなわれた。この更生歌碑には、〝三千歳の田鶴のすごもる出石山尾根のまつ風更生をうたふ〟とよまれている。二三日には神刕別院の歌碑の除幕式にのぞんだ。この白雲歌碑には、〝日野川の水源とほしも大山の尾根に湧き立つ雲につづけり〟ときざまれている。二四日に島根別院につき、翌日出雲大社・日御碕神社に参拝、地恩郷・鳥取分所をへて城崎温泉の安田宅に一泊し、二八日は長沢夫妻を綾部の神苑に案内して亀岡に帰着した。この旅行中作歌はなく、ただ歌日記のみが記されている。また竹田の全宣伝使にたいし各一級を進級させることにした。五月一六日、聖師と二代教主は篠原国彦を随行として島根別院の三六亭完成式にのぞんだ。ついで一七日由良分院の開院式をすませ、法勝寺分所に入り、一九日に亀岡へ帰着した。二二日聖師は東尾を随行として長野県麻績村の信州分院の開院式にのぞみ、岐阜県の多治見分所から東海別院をへて二六日に亀岡に帰着した。
 八月九日、聖師は三回目の台湾巡教のため六女の住ノ江と高橋義衛(五十麿)を同伴し、加藤を随行として出発した。一〇日小倉の筑紫別院にたちより、吉野丸に乗船、一二日基隆別院についた。草山の台湾別院に三泊して一六日には花蓮港支部へつき分所に昇格した。ついで宜蘭支部に立寄り二〇日に台湾別院の歌碑除幕式にのぞんだ。歌碑には、〝蓬莱のしまの要よ草山は山川すがしく生きの極なし〟と歌われており、憧憬歌碑と命名された。さらに台中・南投・二水をまわり二水に分院を設置した。また二水鳳山農園そ愛善農園と命名し果樹の栽培を奨励した。二八日に台湾別院にひきかえして静養、八月三〇日底本では「九月三〇日」になっているが明らかに「八月」の間違いなので修正したに台湾神社へ参拝し台北分所に立寄り基隆別院に入った。四日に大和丸に乗船し六日に門司に上陸、筑紫別院に一泊した。八日には熊本県吉松村の九州別院の歌碑除幕式に出席した。歌碑に、〝言霊の誠を筑紫のしまが根に生かし照さむ惟神吾は〟とある。九日に熊本分所をへて別府分所につき、一〇日に愛媛県高浜に上陸した。一一日には伊予大井支部・新居浜分院をへて、一三日に高松より・岡山県の瀬戸支部へ、一四日には中国別院予定地の万富村を視察し、大阪分院にたちよって亀岡に帰着した。
 一一月六日、聖師は森と加藤を随行として山口県の柳井支部に入り、八日に筑紫別院の歌碑除幕式にのぞんだ。国光歌碑には、〝浪の奥雲の彼方に浮びたるいくしまくまなく朝日は照らふ〟、大道歌碑には、〝千早ふる神の大道を余所にして我日本は治まるべきやは〟とうたわれている。九日には島根別院に到着し、一〇日には八雲山に登山して八雲神社の秋季大祭にのぞみ、おわって歌碑の除幕式がおこなわれた。八雲歌碑には、〝八雲たつ出雲の歌の生れたる須賀の皇居の八重垣の跡〟とあり、歌碑の傍にその記念として小松が植えられた。一二日には但州別院の歌碑除幕式の出席をみる。この巡教中山口県の岡枝支部は分院に、八雲支部は分所にそれぞれ昇格された。
 一九三四(昭和九)年春ごろには聖師は伊豆湯ケ島、また横浜の関東別院に滞在していたが、二月二五日栃木県の東山分院に入り霊泉歌碑の除幕式にのぞんだ。また四月一八日には聖師は二代教主と八木の歌碑除幕式にのぞんだ。四月二四日、聖師・二代教主は谷前清子と梅田やす子を随行として佐世保別院の開院式にのぞんだ。別院の敷地は五〇〇坪で建坪一二〇余坪、聖師の居館は総二階建五二・五坪で聖命閣とよび、別に宿舎二棟、神殿の地下は武術道場であって山県猛彦の設計建築になるものである。本殿は南風殿と命名された。二六日には九州別院に入り春季大祭にのぞんだ。二八日に筑紫別院の春季大祭をおえて五月一日に中国別院の開院式に出席した。この別院は昭和四年別院建設の議がおこってから六年目に完成したものである。五日には東京幡ケ谷の天王山支部田口邸の歌碑除幕式に出席し昭和九年八月二三日は第六四回瑞霊真如聖師生誕祭の第三日目である。この日穴太瑞泉郷で神聖歌碑の除幕式がおこなわれた。神聖歌碑の一は仙台石で、たて三・六メートル、よこ一・四メートル、厚さ二一センチである。碑面には、〝百八十国くまなく大道を照さむと若き日吾は故郷を離りぬ〟〝ふるさとの山野は秋の錦きて吾を照せど父母は世になし〟の二首と下段に、〝足乳根の母も吾身も応挙も生れし清処と思へばなつかし〟とある。神聖歌碑の二は仙台石で、よこ四・四メートル、たて一・八メートル、厚さ二七センチで横長につかわれている。碑面には「新詩」とあって、〝西は半国東は愛宕 南妙見北帝釈の 青山屏風を引廻し 中の穴太で牛を飼ふ〟〝父よ恋しと西山見れば 山はさ霧に包まれて 墓標の松もくもがくれ 晴るるひまなき神の雨〟とよまれ、つぎに「道歌」として、〝動きなき天津日継は天地のひらけしときゆさだまれる道〟〝天の下四方の国々統べたまふ我大君のみ代はとこしへ〟〝大本の神のおしへは人皆の習ひて進むまことのみちなる〟〝大もとの教は内外に開かれて玉鉾の道明けわたりける〟〝かりごもの乱れたる世を治めむと吾はあさ夕皇道を宣る〟〝天ケ下の世人ことごと導かむ神の立てたる明るき皇道に〟〝くさむらの穴太を出ででわれはいま雲井に照れる月を見るかな〟と七首の歌がきざまれていた。
 七月二二日昭和神聖会が発会した。聖師はその地方本部・支部発会式に参列するため東奔西走したが、その間にも巡教はつづけられていた。聖師は、九月三日に北陸別院の開院式に出席した。同別院の建設については仏教側のはげしい圧迫があり、各新聞は宗教の対立紛争として大きく報道した。石川県能美郡御幸村字串の土地二万〇〇八八坪が、同村の大本信者三ツ野間左衛門・中田敬文によって昭和七年七月大本の別院敷地として献納されたのがそのはじまりである。三ツ野は真宗大谷派の有力な門徒であったが、大本に入信し別院敷地を献納したため、同村の住民から村八分にされるまでになった。その敷地には江沼郡月津村の民有地が入りこんでいたが、月津村の月津・月津新・額見の三部落の有志は、土地繁栄のために入りこんだ土地ならびに通路として巾五間(九メートル)、長さ二〇二間(三六三・六メートル)の土地を献納することになった。嵯峨・大沢・島田らが協議のうえ三〇〇〇坪をうけとり、なお不足する八〇〇坪を買収した。おどろいた真宗大谷派は大聖寺で役員会をひらき、真宗本派は総会をひらき大谷派と共同戦線をはって大本別院阻止運動を展開した。大本批判講演会や座談会などか大谷大学の教授をむかえて各所でもよおされたが効果がなく、ついには第一次大本事件当時の元綾部署長遠藤至道をまねいて、大本は邪教であると宣伝させた。一方土地献納を取消させるための圧迫はしつようにくりかえされたが成功せず、このような苦難のなかで別院建設がすすめられたのである。開院式は仏教側監視のなかで盛大に挙行され、歌碑の除幕式も同時におこなわれた。歌碑に、〝かむながらことあげなさず言霊の天照りたすけ生くる神くに〟とよまれているのも印象的である。また道場を明晃殿、聖師居間を松風閣、歌碑を言霊歌碑と命名された。九月五日、古君の能登別院の開院式にのぞみ、あわせて歌碑除幕式がおこなわれた。歌碑は、〝大君のみ代安がれと皇道を宣りつつ吾は古君に来し〟とあったか、これは皇道歌碑とされた。
 聖師は九月一七日新居浜分院の歌碑除幕式に臨席した。二五日には佐世保別院の歌碑除幕式にのぞんだ。歌碑には〝神くにのとはの命を抱へたる佐世保の港はかがよへるかも〟とあり、これを三六歌碑と命名し、二七日には佐賀県有田町の三六(みろく)分院の歌碑除幕式にのぞんだ。〝瑞霊のあとをとどむる永祥山は三葉つつじにいろどられたり〟とありこれを五六七歌碑と名づけた。一一月一日には中国別院の歌碑除幕式に臨席した。歌碑の表面には、〝皇神の誠ひとつの御教を永久にいかさむ吉備のくにはら〟ほか四首、裏面にも七首がきざまれていた。一九日には和歌山県三栖村の南海分院の歌碑除幕式に出席した。歌碑には、〝三熊野の宮にまふでておもふかなわが神くにの生ける歴史を〟とある。ついで二〇日には紀伊別院の歌碑除幕式がおこなわれてこれに出席した。
 一九三五(昭和一〇)年二月二〇日に。聖師は由良分院の歌碑除幕式にのぞんだ。歌碑の歌は、〝八雲立つ出雲の旅の帰り路を開祖と宿りし由良はなつかし〟とあり、ついで二一日地恩郷の静生館歌碑除幕式にのぞむ。その歌碑に、〝吾郷に立帰りたるここちして地恩のあきのながめにしたるも〟とうたわれている。二二日益田分院の開院式にのぞんだ。三月、聖師は四たび台湾にわたった。九日から二六日間にわたり全島をかけめぐって昭和神聖会支部発会式にのぞんだが、その間にも巡教をおこない。高雄支部を分所に、彰化支部を分院に昇格させた。一〇月五日には、関東別院歌碑除幕式にものぞんだ。同月六日には、巡教と歌碑の除幕などに多忙の日々をおくっていた聖師と二代教主は、開島二十年記念のため神島に参拝した。ちょうど五六七人が参拝し、祭典後高砂よりはこんだ若松を神祠にむかって左前に手植した。一一月二日、聖師は中国別院の大祭と道場斧始式に出席して熊山に参拝した。一六日に聖師は北陸別院の秋季大祭にのぞみ、二五日には城南別院の秋季大祭と歌碑除幕式に臨席した。
 以上で聖師・二代教主の巡教ならびに歌碑除幕の旅はおわる。〝月をほめ花を愛づらむ暇もなく布教の道に年さびにけり〟(昭和10・11)と聖師によってよまれているように、教団の発展につとめる聖師の日々は、まったく布教の連続であった。これらの巡教中、いたるところで新聞記者との対話や地方有志・信者だちとの面会、あるいは染筆、座談会などがあり、ことに時局を反映しての意見をきく会合がきわめてさかんであった。なお別院・分院は地方における神業の拠点ともされたもので、聖師の居館の性格をもたされていた。
 聖師の歌碑がたてられたところは全国で三二ヵ所、歌碑は四〇基、きざまれた歌は八八首であるが、そのほか伊予別院の歌碑など数ヵ所建設が予定されていた。
 そのほかに一九二一(大正一〇)年一月に、綾部の熊野神社にたてられた、〝神の子の真心ささげて拡めたる御苑清がしも石の玉垣〟〝苔生して神さび立てるときは木の松にしるけし水無月の宮〟という歌碑がある。綾部の鶴山歌碑と亀岡天恩郷の教碑、懐古歌碑については五編二章にのべてある。なお大分県中山香村の国東歌碑には、日出麿総統補が聖師の代理として除幕式にのぞんでいる。
 歌碑建立の意味については、〝よろづ代の道の礎固めむとわれ国々に歌碑を建つるも〟(昭和8・12)、〝末代の記念と建てし吾が歌碑のおもてに冴ゆる三五の月かげ〟〝五十あまり大石に歌を誌しつつ永久の生命を吾れ保つなり〟〝千引岩に思ひのだけの歌を彫りて千代万代の生命とやせむ〟(昭和10・6)と聖師によってうたわれている。
 また歌碑の建設に関して「歌碑は台石をつけるものではない。台石をつければそれは石碑だ。本来底津岩根からはえている岩に彫りつけるのが歌碑だ。歌碑は地磐を石でかためて其上に石を置き、大地にはえたやうにし、自然石を適当にその周囲に配し芝生を植える。歌碑は自然石で建つべきである」という注意もあたえられている(「真如の光」昭和8・10)。
〔写真〕
○芦別山を西にあおぐ神生歌碑 北海道 山部 p210
○孤島喜界島にたつ神声歌碑 宮原山 p211
○歌碑の除幕式は聖師が臨席して盛大におこなわれた 草山の憧憬歌碑 台湾 p212
○聖師出生の地にたてられた神聖歌碑 亀岡 瑞泉郷 p215
○しつような仏教側の圧迫のなかで建設された北陸別院全景 左端は言霊歌碑 石川県月津 p217
○聖師の巡教はやすみなくつづけられた 信者にかこまれて筆をもつ聖師 p218
○神島開き20周年記念参拝の出口聖師夫妻 聖師には最後の参拝となった p219
   
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