一九三五(昭和一〇)年一二月八日の未明、綾部と亀岡の大本本部は警察官の包囲をうけ、信仰の聖場はついに蹂躪されるところとなった。第二次大本事件がおこったのである。第二次大本事件は、一五年前の第一次大本事件とは比較にならないほどの徹底的な大弾圧であった。事件発生直後、各新聞紙が報道したように、「邪教大本を地上から抹殺する」という内務省の方針を強行したものであって、じっさいにあますところなく破壊されてしまった。
第一次大本事件は、本部の建造物が一、二ヵ所破壊され、出口王仁三郎ほか二人が起訴されたていどで、本部はいぜんとしてそのいとなみをつづけ、教団組織も健在であった(上巻三編)。しかし第二次大本事件では本部が破壊されたばかりでなく、組織もすべて解散せしめられた。出口王仁三郎以下幹部はねこそぎ拘束され、信者数千人が取調べをうけるという、近代宗教史上にも類例をみない大規模な弾圧であった。第一次大本事件の時は、事件のおこる数年前から、京都府警察当局は、大本の出版物や宣伝上の言論にたいして注意をあたえ、綾部の本部を内偵するなど、事件を予測させるようなきざしがしばしばおきていたが、第二次大本事件では、直接弾圧の前兆とみなされるような当局の動きは、当局の極秘的行動のため、大本内部側では深刻に察知されることはなかったようである。
第一次大本事件に関しては、前もって神諭などに予言警告が発表されていたので(上巻五七八ページ以下)、信者は「経綸」としての何らかの事件があるのではないかと予想していた。しかし第二次大本事件については、神諭などの文献によって事件を予想するものはほとんどなかった。ただ昭和一〇年の春ころから一部の人々のあいだに、多少の弾圧はまぬかれえないのではないかといううわさがあった。事実、地方新聞のなかにはその報道が散見されるし、その真偽をただすため信者から本部への問いあわせもあった。とくに六月ごろには、信者で「東京毎夕新聞」の政治部長をつとめていた江口宏は、「大本再弾圧が閣議で決定された」という極秘情報をキャッチしていたということであるし、昭和神聖会総本部の関係者や、「人類愛善新聞」の記者たちが、関係当局者と折衝したとき、昭和神聖会の運動にたいする当局者の批判的な言葉のなかから、かすかではあるが弾圧への気配を感じとっていたものもあった。しかもそれは昭和神聖会の運動にたいするものであり、まさか、「皇道大本」が徹底的に抹消されるほどの大弾圧がおきるとは予想してはいなかった。
第一次大本事件は、すでに発表された神諭のなかに文字の不敬にわたるものがあるとする弾圧であったが、第二次大本事件は、国家革新という政治的な側面と、神観を中心とした宗教的側面が複雑にからみあっていた。
昭和一〇年二月、穴太の瑞泉郷において神聖神社の鎮座祭がおこなわれたとき、大吹雪のなかで、聖師は参拝の会員にたいし、「この大吹雪は神聖運動にたずさわるものにつき、一つの暗示と警告とである」として、会員の重大な覚悟をうながしたが、それが、弾圧を暗示したものであるとうけとるよりも、今後の神聖運動が困難になるていどに会員らはかんがえていたのである。こえて三月、聖師が台湾における昭和神聖会の発会式にのぞんだとき、台中で土着の宗教が、フーチの形式でだした神聖運動を讃した詩の一節に、「意外の風吹き一角より崩る」というのがあった。これは公表されなかったが、特派宣伝使によって内地にもつたえられ、一部の人達に不安をあたえる材料とはなった。だが、それもとるにたらぬものとして、いつとなく信者・会員の念頭から消えていった。
台湾からかえった聖師は、それ以来各地から要望があるにかかわらず亀岡からうごかなくなった。九月下旬、聖師は幹部・職員にたいし、長髪のものは長髪を、ひげをのばしているものはひげをそりおとせと命じだり突然のことであったが、一同はすなおに命に服した。「剃髯列席の男子十四人、すでに髯あるもの一人もなし」と『高木日記』にはしるされている。そのころ昭和神聖会統管部で参謀会議がひらかれた。二、三の参謀から、東京よりの情報をそんたくすると、神聖運動に弾圧的なけはいがあるので当分運動を慎重にし、経過をみる必要があるとの提言もなされていたが、聖師は「それを恐れて運動を中止することはできない」とした。しかしそれからの聖師の日課は、映画・神劇・歌祭り・神苑の整備などに専念をみるようになり、神聖運動には直接関与することはすくなかった。一〇月六日、神島の開島二十年記念参拝があったが、この時聖師によって「神島参拝は今年で最後かもしれない」ともらされた。しかし信者にはそれが何を意味するかは十分に理解されなかった。
一一月八日、皇道大本・昭和青年会・昭和坤生会を代表して、各主会・地方本部に特派宣伝使を派遣することになった。本部と地方の連絡を迅速にし、本部の意図の徹底をはかるためであった。そこで琵琶湖を境に東と西にわけ、東へは井上留五郎・神本泰昭、西へは大国以都雄・大谷敬祐が派遣された。このとき聖師の「特派はこれで最後である」という言葉がつたえられたが、その理由については説明がされなかった。すでに聖師の胸中にはなにか期するものがあったのかもしれない。一二月四日島根別院の大祭に出発する前日の真夜中、聖師がひそかに月宮殿にはいり、ご神体をとりだして、他の石ととりかえておいたことを側近の内崎照代がうかがいみたといわれているが、それは厳秘にされて、他へはもらされなかった。ただ一般の信者がいぶかしく感じたことがある。それは一〇月の中ごろ、突然聖師の厳命として、亀岡在住信者は一世帯から必ず一人以上、大祥殿の朝夕の礼拝にでるようにと伝達されたことであった。この礼拝は聖師みずからによって先達がつとめられた。これまでそうした慣例がなかっただけに在住信者は意外の感をふかくし、そこからいろいろの憶測もうまれていた。
大本内部における事件の予感・前兆ともいうべき動向はだいたい以上のようなものであった。しかし聖師の「誰もついてくることのできぬところへ行く」という言葉は側近の人々にもらされていたという。そのような言葉も、神の守りのある大本の経綸・神業というつよい信仰によって、信者・会員の疑惑や不安はうち消されていた。
〔写真〕
○抑圧は権力が民衆を抑圧する常套手段であった 警視庁新選組 p313
○大本事件は国家権力による政治的弾圧の典型であった 唐沢俊樹から工藤恒四郞への書簡 昭和10年 p314