一九三七(昭和一二)年一二月一二日、京都地方裁判所では、第二次大本事件の裁判長として、京都地方裁判所刑事部長に約五〇日前大阪控訴院から着任した庄司直治を任命した。原告官としては上席検事の小野謙三に決定し、公判の陣容をととのえた。
昭和一三年三月四日と一六日には、庄司裁判長、陪席判事の大西和夫・黒坂一男、小野検事らと弁護人たちとの会合があり、被告人を五班にかけて、第一班の公判準備手続きを五月一六日から始めることにした。
かねて弁護人たちの間で問題にされていた予審調書記載内容の真偽をたしかめるため、弁護人は全員そろって五月二日、勾留中の伊佐男に面接し、ついで、王仁三郎(四月二二日接見禁止を解除)をはじめ、被告数人に面談したが、異口同音に警察の暴行、予審における不法な取調べ状況をうったえたので、弁護人たちも義憤を感じ、事件の真相をあきらかにしようと決意するにいたった。ついで弁護人の会合がひらかれ、林弁護人から「この事件を無罪とおもわない者は弁護を辞退してもらいたい」との主張がなされた。しかしだれ一人として異議をとなえるものはなく、無罪を確信して弁護に立つこととなった。そしてひきつづき各被告人についての担当弁護人を決定し、王仁三郎の弁護には弁護人全員があたることになった。
これに前後して田代弁護人は勾留中の被告人の一人一人に面会し、「裁判は真実闡明の為の戦場だ。恐るゝ事はない。勇気を以て黒白を争ひ給へ。白は白、黒は黒と堂々と主張し給へ。卑屈な気持で、白でもない黒でもないといふやうな曖昧な答弁は一切無用だ。白でもない黒でもない灰色の様な事を云へば、裁判所は黒だと見る。飽く迄、正々堂々と所信を訴へ給へ」(『出口貞四郎第二回上申書』)と激励した。被告人が自信をとりもどし、公判にのぞむ気がまえをととのえたことは多言するまでもない。
公判準備手続きは五月一六日午前、第一班として出口伊佐男からはじまった。ついで井上留五郎・高木・大深・東尾・中村純一の順で一九日までつづけられた。かねて伊佐男は弁護人にたいし、「公判廷には、父や母や最高幹部よりも私を最初に出してもらひたい。まず私の予審調書の作成されたいきさつから陳述したい」と申入れていたのが、配慮されたのである。
公判廷には裁判長・陪席判事・立会検事をけじめとし、弁護人全貝が参加した。伊佐男は裁判長の訊問にたいし、大本教義その他について簡明にこたえた。さらに警察および予審廷における取調べの状況をのべ、事実に相違した予審調書がつくられるにいたった理由をあきらかにした。被告人は単独で法廷に立ったが、どの被告人もみな同様の陳述をなした。立ち会った弁護人たちは事件の核心にふれて、弁護にたいする決意をいよいよつよくかためた。
準備公判では林弁護人の提案により、貴族院速記課の岡田源次、斎田夙麿らに依嘱して速記をとることとした。これは裁判所書記の記録の不備やあやまりをたしかめるうえに適切な措置となったので、速記は公判でもひきつづきおこなわれることになった。
第二班以下の準備公判もつぎつぎにすすめられ、王仁三郎に関しては六月二三日の午前と午後にわたって全弁護人立会のもとにおこなわれた。新聞では出廷途中の王仁三郎の写真をかかげ、大見出しで準備公判についての報道をした。「大阪毎日新聞」(昭和13・6・24)は、「途中構内廊下で待ちうけた写真班のフラツシユの一斉射撃を深編笠で避けなから、六八才の老人とは思へぬしつかりした足どりで、固く閉された調室の中へ消へた。……各事実につき訊問がつづけられ同四時半閉廷したが、王仁三郎はこの長時間にわたる取調べにいさゝかの疲れもみせず、胡麻塩五分刈りの血色のいゝ赭顔に時々虚ろな笑ひ声をあげながら、彼が過去に辿つた栄華の夢のあとを、さすが無量の面持ちで供述した模様である」とつたえている。出口すみの準備公判は翌一九三九(昭和一四)年一月二七日であった。ついで一月三〇日、出口元男をもって被告人全員の準備公判がおわった。
この準備公判において、被告人たちは検挙以来はじめて真実を自由に述べることができた。そして、長い間権力によって抑圧されつづけてきた被告人たちの心に、はじめて前途への光明が見出されたのである。
〔写真〕
○黒坂一男 大西和夫 庄司直治 p515
○毅然たる弁護人の態度は被告人に希望をあたえた 田代弁護人のメモ p516