一九五一(昭和二六)年一一月一日、綾部梅松苑において大本愛善苑と人類愛善会の共同主催で、第二次世界大戦により犠牲者となった世界各国の四〇〇〇万余柱の慰霊祭が厳粛におこなわれた。二代苑主はこの祭典後、「世界中の霊がみな寄って来たので、私は身体がえらくて、えらくてしかたなかった。苦しんでいる霊魂が私に寄ってきたんやな。みたまさんもよろこんだし、遺族の人たちも喜ばれていたようだし、こんなよいことはなかった」と非常によろこばれながら、またくるしそうであった。このころからとみに、苑主に疲労の色がみうけられるようになった。一二月の静岡県吉原市望月邸における苑主歌碑除幕式後は、地方からの要請かあっても出向はみあわされ、染筆などもとりやめられ、ひたすら静養の日々をすごした。
一九五二(昭和二七)年の正月は綾部にあったが、年賀のあいさつは録音で綾部市庁舎から市民に放送されただけで、一般との面会もとりやめとなり、亀岡にかえってからも代表の年賀をうけられるていどであった。これまですこしくらいのかぜや疲労ぐらいでは、朝夕の礼拝の先達をかかされることはなかった。だが一月一〇日からはしばらくやすむことになり、翌一一日には直日夫人とともに綾部へむかった。一二日は開祖聖誕祭に参列し、そして要荘で起居されていたが一四日の朝、喘息の発作がおきた。しかしほどなく平常にもどり、側近のもののすすめで由良医師の診察をうけて、絶対安静が必要とされた。それでも信徒の面会には元気よく応じられるというので、一九日からは、面会は厳重に中止することになった。二〇日、藤本哲雄が京都から深瀬医博を同道して来訪し、心臓喘息と診断した。その後の経過は良好であったが、その後彰徳殿の裏座敷へうつられた。
この年は大本開教六十年の記念にあたる年で、全国の信徒の信仰意欲はもりあがり、二月三日、彰徳殿で執行された節分大祭はすこぶる盛大であった。行事は直日夫人の代行によってとりおこなわれ、苑主は玉串奉奠のみをおこなった。苑主が全国信徒の前に姿をみせられたのは、これが最後となった。
静養中も苑主は、みろく殿建設の進捗に意をもちいた。〝綾のさと竜宮やかたにみろく殿たつ日待たるる首をのばして〟の詠歌にも、その心情がうたわれている。完成の日が待ちきれぬとて、二月二二日には更生車で現場を見まわり、さらに二八日には現場に出て、造営局長の桜井信太郎から工事進行のもようを聞かれた。三月一日のみろく殿用材奉納奉告祭と三日の斧始式には、病をおして臨席され、五日には周囲のものの心配をおしきって、五三日ぶりに亀岡に帰着、出口家の家族だちとひさしぶりによもやまの話がなされた。
その後の苑主は十分な睡眠がとれず、八日には多少の発作がみられたので、浅井医師の手当をうけた。一〇日にふたたび発作がつよくおきたので、上原医師のすすめで、京都府立医大の細田病院長・京都中央市民病院の松永病院長の診断をうけた。狭心症発作のおそれがあるとみたてられたので、容体を憂慮した綾部・亀岡の信徒は、一週間の平癒祈願をはじめた。瑞祥館では臨時の当直を含め、緊急参務会を開催して、上原医師を主治医とし、看護関係者以外のものの面接をかたくことわることにした。一三日には大本愛善苑本部の各部課長・講師を招集して、苑主の経過を詳細に発表し、万全のそなえをした。苑主は苑内の建設作業の騒音に神経をつかわれるので、一五日には瑞祥館の奥の間に病床をうつし、看護は梅田やす・西田たつ・今西俊子・松家みふゆ・金田たつ等にあたらせ、瑞祥館にかよう道の玉砂利には、むしろを敷きつめて、音のせぬようにと配慮された。
〔写真〕
○開教六十年節分大祭で玉串奉奠される二代苑主 左から2人目苑主補 出口直日 綾部 彰徳殿 p923
○みろく殿の工事現場をおとずれ労をねぎらわれる苑主 右は桜井信太郎 p924