二代教主の昇天によって一時とまどいをおぼえた信徒たちも、やがて三代教主の就任をむかえ、開教六十年を契機としてあたらしい時代の教団をもりたてようとの意欲をもえあがらせた。そして大本教則施行にともない(一章二節)、一九五二(昭和二七)年四月一日には、教主によって左記の諸役員が任命された。
総長出口伊佐男、総務出口栄二・森慶三郎(同年五月七日帰幽)・大国以都雄・桜井重雄・土井靖都・出口貞四郎・出口新衛・出口虎雄・西村昂三・土井三郎・弘田卓次・伊藤栄蔵・出口光平・日向良広、参議中野岩太・桜井信太郎・内海健郎・三上三樹・野口如月・高橋喜又・出水湧三、大本社会事業団会長出口光平、審査院長三谷清・同監事広瀬繁太郎。
さらに同日、総務局文書部長に大国以都雄、大本教修所長に出口貞四郎、一六日付で大道場長に土井靖都がそれぞれ任命された。五月二三日には亀岡天恩郷の東光館で、南桑田郡戦没者慰霊祭を大本・人類愛善会の共催でおこない、一七〇〇柱が招魂され、遺族七〇〇余人が参列した。
七月八日、二代教主の百日祭が綾部の彰徳殿でおこなわれた。そのさい総長は、「六十年間の基礎の上に立って、これからいよいよ大本は本格的な御神業の発展が行われると信ずるのであります。また日本と致しましても、長い間の占領が解かれ、自主独立の国となったのでありますが、種々な意味において今年は一大転換の年であり、大本神業から申しますと、これ迄にない一番大きな節になる年であります」と強調し、まず「この百日祭を期し、全員総決起で、二代様の御遺命に応え」、みろく殿の造営と梅花運動の完遂を期するよううったえた。
信徒の倍加については、百日祭で信徒六万六六〇〇人の目標を達成していたが、あらためて、翌昭和二八年三月までに信徒一〇万人の目標がしめされた。そしてこの信徒倍増を基盤に、宣教活動・人類愛善会の平和活動、楽天社の芸術活動、愛善みずほ会の農事活動、大本社会事業団による社会福祉事業のあらゆる面をいかして、社会の真善美化、日本の立直し、世界平和の実現のために積極的活動を展開することがあきらかにされた。同時に、世界にむかって大本が発展してゆく一つの拠点として、東京に力をそそぐことがしめされている。
こうして三代教主のもと「大本」として発足した教団の第一年度には、みろく殿の完成をめざして、造営局の夜を日についての突貫工事がすすめられ、全国信徒の献労・献金がつづけられた。他方信徒一〇万人の目標をめざす梅花運動もたかまりをみせ、八月以降からはあらたに駐在特派宣伝使が派遣されて、全国各地で講演会・研修会・座談会が寸暇をおしんでくりひろげられた。
奄美大島・沖縄は、日本の敗戦によって一九四六(昭和二一)年日本から分離され、アメリカの軍政下におかれていたので、その地域の信徒と本部との連絡は不十分であったが、一九五〇(昭和二五)年には、砂泊兼基がひそかに奄美大島をおとずれて大本の新発足を全信徒に知らせ、翌年の六月には、沖縄の城田得位が亀岡をおとずれて、大本本部との連絡が復活した。さらに宮崎県から崎山喜三が渡島するなどして信仰もしだいにもりあがり、支部数は二二、信徒も約八〇〇人にたっして一九五二(昭和二七)年三月には波之上主会が復活した。この年の九月には地元からの要望で、はじめての駐在特派宣伝使が本部から派遣され、四ヵ月にわたって宣教のため活動し、信仰向上と支部の内容充実につとめた。
梅花運動の成果は、この年の大道場(普通・特別)の修行者数にもうかがうことができる。修行者は五四〇八人をかぞえ、大道場開設以来の記録をしめした。主会では山口・島根・三丹・兵庫・岡山・徳島などがめだち、昭和二一年以来の修行者は総計二万五四六五人となった。一方講座内容も刷新され、教修活動にも力がそそがれた。道場の特別講座(月一回・四日間)では、五月から「大本教法」と「芸術」がくわえられ、七月以降「第一日大本教法(四月までは大本愛善苑信条)・道院と世界紅卍字会、第二日大本の宇宙観・大本神業と芸術・信仰と芸術生活、第三日大本出現の由来・平和精神と愛善運動、第四日大本と信仰生活・宣教諸問題」とあらためられた。大本の教修所では六月に四期生が卒業したが、一〇月からは、本部奉仕者のため、郷内科がもうけられ、週三回の夜間講座がおこなわれた。
この年もおわりにちかずいた一一月一八日には、八分どおり完成したみろく殿で、開教六十年大祭が盛大におこなわれた。祭典につづいて国務大臣林屋亀次郎、衆議院議員芦田均、国際キリスト教大学総長湯浅八郎、石川・兵庫県知事、京都府副知事、京都・金沢市長ら多数の祝電が披露された。一九日には開祖祭・秋季祖霊祭、二〇日には天王平奥都城・総産土熊野神社参拝があり、神社境内には教主によって記念植樹がおこなわれた。一八日から二〇日の三日間にわたっては、大本功労者遺徳顕彰・霊界物語拝読・記念大歌祭・全国支社冠沓句大会・青年雄弁大会をはじめ、奉納仕舞・壱岐神楽舞・郷土芸能大会・祝賀演芸大会・歌唱コンクール・映画の夕・市内商店街の山車の練込みなど、多彩な行事がくりひろげられている。この大祭には、九州・山口の団体参拝があり、約三万の参拝者で綾部市はにぎわった。
翌一九五三(昭和二八)年二月三日の節分大祭のおりには、ほとんど完成した木の香新しいみろく殿へ、彰徳殿からご神体が遷座された。三代教主から、「世のなかがむずかしくなるほど、神のおしぐみの偉大なることをおもい、はらおびをしっかりとしめて、正しい信仰をして、おのおの職業に、おはげみくださいますよう」との、信徒にたいする教主就任後はじめての挨拶があって、立錐の余地もなくあつまった信徒の感激のなかに、おごそかで、さかんな節分大祭が執行された。
この日、出口伊佐男総長は挨拶のなかで、「まことの信仰が身につき、生活化され、働きとなってゆくという信行一致の信仰」を強調し、「まことの力は世を救う」の神業に奉仕するよう指示した。また二日の全国主会長会議においては、「みろくの世建設運動」と称して、向う三ヵ年間、神教宣布をおおきな軸とした宣教活動・芸術活動(五章)・人類愛善運動(三章)・愛善みずほ運動(三節)・社会福祉活動(三節)の総合的梅花運動を、積極的に推進するという基本方針をしめした。同時に海外宣教(四章)もますます積極化してくる。総合的梅花運動を推進するにあたって、四月三日付で宣教部長の更迭がおこなわれ、出口栄二が大本青年会長兼務のままで就任した。同日、伊藤栄蔵は文書部長に、庶務部長は造営部長の出口新衛が兼務することになった。戦後のいちじるしい電波技術の進歩によって、一九五一(昭和二六)年八月からは民間放送が開始されたが、教団は電波宣教へのこころみとして、開局間もないラジオ中国(広島)から、一九五三(昭和二八)年二月より月ニ回、大本講話の放送を広島主会をとおしておこなった。
二代教主によって心血がそそがれ、信徒がひとしく待望していたみろく殿は、ついに一九五三(昭和二八)年四月一六日(旧三月三日)に完成した(四節)。みろく大祭にひきつづき完成奉告祭がおこなわれ、金剛流宗家金剛巌による奉納能や、奉納山車のねりこみなどがあり、綾部市内は祝賀行事にわきたった。当日、国際宗教同志会会長牧野虎次は、「目で見る殿堂の奥には、目で見えぬ精神の存在を認めねばなりませぬ。……廃墟のうちより宏大な殿堂を築き上げたる能力は、すなわち弾圧に屈せなかった確信力の発揮であります。しかし、その確信力は聖師ご夫妻の胸裡に宿るとともに、これに共鳴同情するすべての同人に共通するのであります。……天上の明月はいかなる葉末の白露にも、その影をを宿すように、人類愛善と万教同根の真理は、ついにすベての人々に共通して、『一つの世界』の実現を期するに至らんことを祈るのほかはありません」との挨拶をおこない、大本の発展に期待をよせている。総建坪五八五・三二三坪、総工費四二六二万八六三七円、全国三三主会から五九一八人が献労し、四二七日をついやしての大工事は、当時としては決してなまやさしいものではなかっただけに、弾圧以来一七年ぶりにその雄姿をあおぎみた全信徒の感激には、またひとしおのものがあった。
〔写真〕
○昭和27年5月1日血のメーデー事件がおこった 皇居前広場 p1005
○南桑田郡戦没者慰霊祭 亀岡天恩郷 東光館階上 p1006
○開教60周年を期して教団はさらに神教宣布と日本の立直しに全力をあげた 各地でひらかれた講演会 p1007
○弾圧の廃墟から信徒待望のみろく殿がついに完成した 昭和28年 綾部梅松苑 p1010