みろく殿完成の日、三代教主からは、「形のミロク殿はでき上りましたが、私たち心のなかのミロク殿はまだこれからだと思います」との挨拶があって、信行一致の信仰がつよく要請された。信徒大会では、「今日の吉き日に当り『信行一致』『あれでならこそ』の御諭に応え奉るべく、直日先生の御意図を体して、信者の一人一人、家庭家庭が豊かな心、豊かな生活を営むみろくの世の在り方に精進する」ことを決議し、みろく大祭後は「みろくの世建設運動」に邁進することとなった。運動の推進にあたっては、「真信仰の確立」(祭典の厳修と祖霊復祭の徹底・聖地参拝と道場修行の奨励・教主の御意図の徹底・神書拝読の奨励・信行一致の実践・宣教意欲の昂揚)、「地方宣教体制の強化」(駐在特派制の確立・地方組織力の強化・主会支部事務能力の向上・特別宣教地区たるモデル主会の設定)、「対外宣教の積極的展開」(宣伝対象の適宜重点設定・青年会と婦人会活動の促進・農山漁村宣教の実施・芸術運動の促進・社会福祉運動の促進・海外宣伝の積極化)の宣教基本要項がさだめられ、実施項目がそれぞれ指示された。
地方組織の自主的活動力の培養にはとくに意がそそがれ、全国を九ブロック(北海道・東北・関東・北陸・東海・近畿・中国・四国・九州)にわけ、各ブロックに駐在特派宣伝使を常駐させ、そのもとに本部派遣宣伝使を配し、各主会には専任宣伝使をあらたに配置した。また、各ブロックに一ヵ所、その地域の特長を考慮したモデル主会を設定して、都市宣教(東京)・経済都市宣教(大阪)・農村宣教(山形・山口)・未開地宣教(鹿児島)・地方道場運動(静岡)・渉外運動(広島)・青年運動(三重・香川)・事務体制確立(石川)・健康運動(北海道)などの諸問題に重点をおいた実際の指導がおこなわれた。
各ブロックでは、信徒大会、宣伝使大会、主会長・支部長会議をひらいて趣旨の徹底と意欲の高揚をはかり、教主の巡教(一章)、総長・宣教部長の東奔西走、講師や特派の活躍などを軸にして、みろくの世の建設運動の歯車がおおきく動きはじめたのである。
地方宣教体制の強化とともに、真信仰の確立にも意がそそがれた。一九五二(昭和二七)年からは、神書、その他出版物の刊行も本格的になる。まず、『霊界物語』が旧版の様式で復刊されることになり、四七巻・四八巻(昭和27年)、九巻・十巻(昭和28)が刊行された。ついで瑞月文庫第五編『霊の礎』・『大本神諭(改訂版)』(昭和27)が頒布され、『聖師伝』『出口すみ子歌集』『宣伝使心得』『祝詞釈義』『大本とは』『おかげばなし』などもつぎつぎに出版されて、宣信徒の研修会などが各地でおこなわれた。なお昭和二七年九月には、健康問題をあつかった月刊誌「いわう」が、愛善医療クラブから創刊されている。
文書宣教と併行して、地方では本部道場に準じた三日間の本格的な講座が、くりかえしおこなわれることになった。一九五二(昭和二七)年の一二月からは、東京分苑(東京都文京区駒込東片町一五塚本庄作方)に大本講座が毎月一回定期的に開設されて、総長はじめ本部講師が毎回出講し、北海道・茨城・石川とあいついで地方道場がひらかれた。あたらしい企画として巡回の地方移動道場が東北地方(昭和27・12)・九州地方(昭和28・3)など遠隔の各主会で開講され、種ケ島や壱岐・対島などの離島にも、派遣宣伝使がおくられた。本部では、昭和二八年六月から普通講座に「みろくの世建設運動」「新発足以後の大本」「信仰と健康」、特別講座には「大本の世界観」「信行一致」をくわえて道場講座の内容を充実し、愛善みずほ会との共催で農村宣教研修会などもおこなわれている。
こうした運動の進展にともなって、一九五三(昭和二八)年八月には、支部五四九、信徒七万四〇〇五人、宣伝使三六〇三人となったが、同月、三代教主時代に即応した神業・信仰の躍進的発展を期するための本部の人事異動がおこなわれた。教団運営の能率化を考慮して、総長出口伊佐男のほか、総務は出口栄二・伊藤栄蔵・三谷清・出口光平の四人の少数精鋭主義とし、教団活動の多様化にともなってあらたに副総長がおかれ、出口栄二がこれに推された。また教学院長は出口伊佐男が兼任し、審査院長に斎藤継述が就任した。同時に本部機構の改革がなされて、総務局のもとに梅松苑・天恩郷事務所をおき、梅松苑事務所に祭務部(祭事・霊祭・庶務・史実の四課)、天恩郷事務所に大道場・宣教部(地方宣伝・海外宣伝・青少年・婦人の四課)・楽天社(業務・研究の二課)・財務部(会計・用度の二課)・庶務部(庶務・厚生・造営の三課)の六部門をそれぞれ設置することになった。海外宣教の発展にともなって海外宣伝係は課に昇格し、青年会・婦人会との緊密な連携を配慮して青少年課・婦人課の新設をみた。また宣教部と楽天社でおこなっていた編集業務が天声社へうつされ、内事室・内事相談役があらたにもうけられている。機構改革にともなう人事として、宣教部長・祭務部長に出口栄二、大道場長・内事室長・庶務部長に出口新衛、文書部長・財務部長に伊藤栄蔵、楽天社社長に出口虎雄がそれぞれ発令されたか、その後財務部長に三谷清(昭和28・10)、庶務部長に中倉栄蔵(昭和29・4)が任命された。
東京への進出は、かねてから本部の懸案となっていた。一九五〇(昭和二五)年七月にもうけられた大本東京事務所を大本東京出張所(昭和27・12)とし、昭和二八年一〇月には分室としてギャラリー「瓔珞」が開設されて、東京道場の講座の受講者数も月ごとに上昇をたどって、第九回目の講座では、三日間で延三〇〇人をこえるようになっていた。そこで関東連合会では、東京分苑を拡大して関東別院を建設し、東京を中心とする宣教体制を確立しようとの気運がもりあがってきた。ところが一〇月末、東北巡教の帰途東京に立寄られた三代教主から、「……大本のしっかりした足場が東京にできれば、東北や本部に遠い関東の方がたには都合のよいことだと心がはずみました。それにまえから私の考えていたことですが、大本が丹波の一教団として埋木の現状にあまんじているのがほんとうなら別ですが、神様のおっしゃる通りになるものなら、何といっても地の利を得なければ御神業は進みません。……東京にしっかりした足場をもたないことが、どんなにか神業の発展をおくらしているとおもいます」との考えがしめされ、「関東連合会だけの計画でなく、このさい本部が主体となって、大本としてのいっそうふさわしい施設をつくりたい」と指示された。そこで、一一月一三日には本部に東京本苑建設委員会がもうけられ、一二五〇万円の予算を計上し、関東を中心に全国信徒の献金により、建設事業が着手されることになった。敷地は二、三の候補地のうちから、教主が東京都台東区池ノ端七軒町一番地を選定され、土地一一六・九四坪と木造平屋建居宅二棟四一・七五坪を購入、神床・道場を新築して、一九五四(昭和二九)年三月ニ五日に教主臨席のもとに東京本苑の鎮座祭がおこなわれた。ここに宗教法人「大本東京本苑」が設立され(四月一日公告)、当初の代表役員には出口伊佐男、責任役員には野口茂平(如月)・川崎清春が就任して、総代一〇余人を委嘱した。その後、昭和三一年一月には木造二階建の新館六一坪を新築して神床を遷座し、同年一一月に一一四坪の土地を購入、昭和三五年一一月には二階広間を増改築して、昭和三七年には土地二五三坪、建物三棟延一三四・九八坪に拡充された。
〔写真〕
○挨拶される三代教主出 口直日 綾部 みろく殿 p1011
○開設当初の大本東京本苑 昭和29年 右は新築の道場 p1014