人類愛善会が世界連邦運動に参加し、その有力な推進勢力となってゆく過程で、めざましい発展をしめしたのは、世界連邦都市宣言の拡大であった。これは、地方の議会にはたらきかけ、世界連邦運動の主旨に賛成する人々を増加させて、「世界連邦都市」であることを議決によって宣言するものである。日本における都市宣言の過半は、大本信徒の活動によって推進され、実現したものがおおいのは注目すべき点てある。
一九五〇(昭和二五)年一〇月一三日、前述のように綾部市は、世界連邦都市言言をおこない、日本第一号の世界連邦都市となった。その第二号は大本本部所在地の亀岡町(昭和30・1・1市制)である。亀岡町宣言の議決は一九五二(昭和二七)年一一月一日のことで、広島市で第一回世界連邦アジア会議がひらかれる前々日であった。その後一九五四(昭和二九)年には、原爆の都広島市が第五番目の世界連邦都市宣言をおこない、一九五七(昭和三三年には、京都市が五大都市のトップをきって第四六番目の宣言をした。
一九五五(昭和三〇)年六月九日には、人類愛善会創立三十年の記念日に、綾部市の郡是製絲株式会社の本社講堂で、世界連邦平和都市第一回連絡協議会がひらかれた。この第一回協議会はわが国で最初の都市宣言をした綾部市と、人類愛善会との共催によるものである。当日は綾部・広島・松江・亀岡の四市および団体宣言をした鳥取県開拓者連盟と、なお近く宣言を予定されていた各市町村長・議長のほか、小塩世界連邦建設同盟組織部長・出口人類愛善会会長・大国同事務局長ら約三〇人が出席した。この会議で、世界連邦都市連絡協議会が正式に結成され、初代会長には、長岡綾部市長が選出された。会をとじるにあたり、「地上永遠の平和と人類の幸福を具現化するの道は、一つに世界連邦の実現にあり。よって世界連邦平和都市連絡協議会はこの趣旨を中外に宣揚するとともに、この目的の早急なる実現を期するために、世界連邦への加盟都市を増加すべく、強力なる運動の展開に努力する」との宣言を発表したが、世界連邦都市宣言運動の発展とともに、同協議会の組織も拡大し、またそのなかではたす人類愛善会の役割は、年々おおきいものになった。
一九五七(昭和三二)年には、人類愛善会はさらに、都市宣言運動を拡大して、「都道府県宣言」「職場宣言」「団体宣言」を運動方針にとりあげ、八月の会員大会では、一府県にあらたに一ヵ所以上の都市宣言の実現を決議して運動に拍車をかけた。こうしたもりあがる雰囲気のなかで、この年の五月、第四回協議会は、一一都市・四団体の三六人の代表が参加して、亀岡市の大本本部東光館でひらかれた。第五回協議会は一九五八(昭和三三)年四月、岡山県庁でひらかれ、一県・二九市町村・七団体の正式代表約一〇〇人が参加し、会長に三木行治岡山県知事、副会長に田谷充実石川県知事・薄井一哉尼崎市長が選出された。一九五九(昭和三四)年六月には金沢市の北国講堂で、世界連邦平和都市全国大会が開催された。大会には都市宣言をした自治体の知事・市町村長・議員をはじめ、世界連邦建設同盟・世界連邦日本国会委員会・世界連邦全国婦人連絡協議会・人類愛善会などの関係諸団体の代表・オブザーバーなど約五〇〇人が参加した。また同時に金沢の大本北陸本苑では、世界連邦全国婦人連絡協議会の第三回総会がひらかれ、湯川スミ・赤松常子をはじめ、東京その他各地からの代表・オブザーバー約二五〇人があつまった。北国講堂では、下中弥三郎・湯川スミ・出口伊佐男ほか三人が講師となって、世界連邦大講演会を開催した。その時の聴衆は一〇〇〇人をこえた。大本・人類愛善会が世界連邦都市宣言推進の中心勢力をなしてきたことを反映して、この金沢大会までは、世界連邦平和都市連絡協議会の運営にかんする実務のおおくが、大本信徒の協力によっておこなわれてきた。
翌一九六〇(昭和三五)年五月には、第七回協議会が世界連邦主義者の全国大会として、尼崎市で一〇〇〇余人参加のもとにひらかれた。尼崎大会からは、運営は世界連邦都市連絡協議会事務局(局長宇都宮憲爾)の手ですすめられることになる。第八回は一九六一(昭和三六)年五月に高松市でひらかれ、一三府県・二二七都市代表および関係団体代表をはじめ、人類愛善会四国各県連合会からもくわわり、およそ二〇〇〇人が参集した。
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○綾部亀岡で口火をきった世界連邦都市宣言運動は昭和37年には14府県236市町村におよんだ 北海道 山部 p1116