戦後世界における「熱い戦争」は、一九五三(昭和二八)年における朝鮮戦争の停戦協定成立、翌年のインドシナにおけるフランスとベトナム民主共和国両国間の停戦協定の成立、さらにスターリン死後におけるソビエト連邦の政策転換などによって、いわゆる雪どけの方向が模索されはじめた。だがその平和へのきざしも、一九五四へ昭和二九)年三月一日におこなわれたアメリカのビキニ環礁での水爆実験によって、ふたたび世界の緊張をもたらし、核競争がさかんになった。とりわけ静岡県焼津のマクロ漁船第五福竜丸が、指定の危険区域の外を航行していたにもかかわらず、乗組員二三人が「死の灰」とよばれる放射性降下物をあびたことが、世界の注目をあつめた。第五福竜丸は、同月一四日、焼津港にかえってきた。被害者は、同月一六日東大病院で「原子病」と診断され、そのひとりはついに死亡した。広島・長崎につぐ三度目の原水爆の直接被害に国民はおどろき、かつ、いきどおりを感じた。
しかもビキニの「死の灰」は海水や大気を汚染し、魚類・野菜をはじめ米麦や飲料水などにまで被害がおよび、人畜にも危険をおよぼすことが指摘された。広島・長崎における被爆者が、数年をへてもなお原子病のため、つぎつぎと生命をうばわれ、遺伝の恐怖にさらされている悲惨な犠牲を目のあたりにみている国民にとって、おそるべき水爆の実験は強烈な衝撃となった。
ここに大本・人類愛善会はいちはやく死の灰への抗議にたちあがり、「人類愛善新聞」(4月上旬号)は、神と人道の名において即刻実験と製造の中止を要請した。水爆実験から一ヵ月後の四月五日、綾部のみろく殿に全国からの代表約三〇〇〇人があつまって、原水爆禁止人類愛善会緊急会員大会がひらかれ、つぎの宣言決議を満場一致で採択した。
太平洋上における水爆実験の影響は日本および世界の人心に異常なる衝撃を与え、全人類が世界的危機に直面せしめられたことを深く認識するにいたった。われわれは原子力兵器が世界平和をもたらすものでなく、これが無制限なる発達は人類を破滅に陥らしむるものであることを警告し、世界の平和は世界連邦機構の樹立と、人類愛善の大義に目ざましめる以外に道なきを主張しつづけてきたのであるが、たまたま水爆の実験はこれを証明し、人類の決意を促進せしめた。神の生成化育を汚染破壊する水爆の実験は、いまなお科学技術によって不測の威力を抑制することができず、影響範囲の完全な限界が明確に保障されない以上、実験即人類多数の災害をも予測するに難くない。現在各国が試みんとしている熱原子核反応実験は、崇高な人道の立場より断固中止するとともに、その製造をも禁止すべきである。さらに一切の原子力兵器はこれを破棄し、原子力はあげて平和機構の国際管理に移し、人類を恐怖と破滅より解放し、原子力を人類の福祉増進のために活用すべきことを要望し、人類愛善の精神において左の決議をする。
一、各国は水爆等の製造ならびに実験を即時中止すべきこと。
一、崇高なる人道の精神によって原子力兵器はすべて破棄すべきこと。
一、平和的利用のため原子力の管理を国際平和機関に移すべきこと。
さらに大会は人類愛善会・大本愛善青年会・大本愛善婦人会の三団体が協力して、「水爆実験反対署名運動」を全国的に展開すること、各国首脳に「水爆実験即時中止」のため努力するよう要請文を送ることを決議した。そして四月一〇日には、焼津に大国事務局長を団長とする現地調査団を派遣し、あわせて「人類愛善新聞」水爆問題特集号(4月21日発行)のための現地座談会をおこなった。被爆者を最初に診察した協立焼津病院外科部長大井俊亮をはじめ、静岡県議・焼津市議・同市課長・焼津漁業協同組合役員その他現地の関係者一〇余人が参加した。この特集号は焼津港の表情、原水爆への恐怖と怒り、生活の不安と嘆き、被災漁民留守宅の慰問、街の意見など生々しい声をあつめたものである。
四月一二日、前記の人類愛善会・大本愛善青年会・大本愛善婦人会の三団体は亀岡天恩郷で合同委員会をひらき、四月二五日から五月二五日までの一ヵ月間を「特別運動月間」として、原水爆反対署名運動を全国的に展開することを決定するとともに、全国一〇〇〇余ヵ所の支部および連合会にたいして、原水爆反対署名運動の具体的な指示をあたえた。四月の一七日には、はやくも地元の綾部市議会が「原子力兵器使用中止に関する決議」を全会一致で可決した。一方海外でも、「水爆実験は疑いもなく全世界の平和愛好者にたいする挑戦」として世論がわきおこってきた。
四月二四日には綾部のみろく殿で、署名運動完遂祈願をおこない、原水爆実験禁止大講演会を開催した。聴衆は六〇〇余人におよび、田畑茂二郎京都大学教授の「水爆と日本の立場」、出口伊佐男会長の「水爆の出現と人類」と題する講演がおこなわれた。翌二五日から、特別運動月間がはじまり、署名運動は全国的にひろがっていった。そして「人類愛善新聞」水爆問題特集号は、その進展のなかで全国的にひろく配布され世論の喚起に役だてられた。その後、この運動が、純然たる人道上の立場と宗教的信念にもとづく大衆運動であることが注目され、朝日・毎日・読売・産経のほか北国・中部日本・神戸・京都などの地方有力紙にもつぎつぎと報道された。
大本愛善青年会では中央事務局長広瀬静水をはじめ、青年特派講師数人が巡回宣伝に出発した。一行は青年会乗用車にマイクをすえ、綾部梅松苑をふりだしに亀岡本部・京都市をへて、近畿・東海の各地で五月四日までの間、街頭演説と街頭署名を実施した。巡回宣伝はさらに第二次・第三次と実施されて、社会にあたえた反響もおおきかった。この間、出口栄二大本愛善青年会長は、運動の先頭にたって、その指導と激励にあたった。
他方、大本では緊急役員会をひらいて、被災漁民とその家族を慰問し、各家々に見舞金を送ることを決めて、慰問使を派遣した。
〔写真〕
○4月5日人類愛善会は世界のトップをきって原水禁運動にたち上った 決議を発表する会長 綾部みろく殿 p1135
○4月21日人類愛善新聞に声なき民の声を特集して発行しつよく世論にうったえた p1136