大本・人類愛善会の原水爆反対署名運動は、平和諸団体のトップをきって、大都市・地方都市・農村・職場など、全国津々浦々にくりひろげられていった。特別運動月間中、「人類愛善新聞」に掲載された各地のおもな活動は、つぎのとおりである。
地元亀岡・綾部では、毎回四、五〇人の会員を数班にかけて自転車隊と自動車隊を編成し、マイク、メガホンをそなえて口丹波・三丹一帯にわたる署名活動をおこない、多数の署名者を獲得した。京都では、プラカードを手に、朱染の「水爆反対署名運動」のタスキがけをした会員が、毎回四、五〇人街頭に進出した。各大学・官庁・会社等には署名簿をあずけて一括署名を依頼し、さらに街頭署名を戸別訪問にきりかえて、当初の予定一〇万目標をはるかにこえ、二〇万人ちかい好成績をおさめた。
大阪ではいちはやく、四月二一日に役員会をひらいて実行体制をととのえ、二五日から一斉に行動を開始した。目標数三〇万のうち一五万は、運動開始後半月あまりで街頭署名により達成するといういきおいであった。神戸地区では一〇万を目標に二九日から一斉に行動を開始し、県知事・市長・議長等の特別署名数百人をくわえて、街頭署名と戸別訪問で成果をおさめた。この間五月一五日、尼崎では毎日新聞社の後援により、尼崎小学校講堂で水爆に関する大講演会を開催した。講師は磯貝貞次郎大阪女子大学教授・藤野福造毎日新聞社編集局副参事・桜井重雄人類愛善会講師らであり、約四〇〇人の聴衆が参集した。
和歌山県では一〇万人の署名を目標として、宣伝ビラ一〇万枚を印刷し、都市では街頭に進出、町村では戸別訪問に重点をおいて運動を展開し、おおくの成果をあげた。三重県では青年会を中心に一〇万署名獲得の目標をたて、街頭に宣伝カーで進出し、中旬以降は戸別訪問をあわせておこなった。愛知県碧南市では市立青年学級で高須令三人類愛善会講師(医博)が「水爆反対運動と青年の任務」と題する講演をおこなったうえ、ひろく署名を得た。島根県では、四月二九日に行動をおこし、松江市で街頭署名をあつめ、県下四〇余ヵ所の支部でも統一行動で戸別訪問をおこなって、「人類愛善新聞」水爆特集号の一部売りを実施し、目標の五万署名を獲得した。
広島県では一〇万獲得を目標として署名簿を増刷し、月の半ばで五万を突破した。最初の原爆被災地であるだけに反響もつよく、署名する人々の表情はいずれも真剣そのものであった。山口市護国神社前での街頭署名では、署名する方も積極的であとからあとがら押しよせるため署名簿がたりず、ありあわせの用紙でまにあわせたほどである。山口県も例外ではなく、きわめて短期間で目標を達成した。
四国においても、活発な署名運動が展開された。香川県では、当初の目標数の名簿ではたりなくなり、臨時の追加署名簿を作成した。徳島県では、戸別訪問によって目標数を達成した。九州では、大分県で予期以上の成果をあげ、街頭進出で「焼津の被災者をお見舞しよう」と呼びかけて、署名と同時に募金もおこなった。鹿児島県では、目標の二倍にのぼる署名をえた。別に職場単位によびかける方法もとり、この署名運動を機会に、人類愛善会は県内の各平和団体のあいだでも注目される存在となった。
奄美大島でも街頭署名をつづけた。地元の各新聞も運動を積極的に支持し、一般からもつよく支援された。しかし一九四六(昭和二一)年に、日本と北緯二九度以南の南西諸島にたいする行政分離宣言が米軍総司令部によってなされ、一九五一(昭和二六)年の講和条約によって、信託統治下におかれ米軍の軍政がしかれていた沖縄では、琉球大学の学生たちがこの水爆実験反対運動をおこなったところ、運動の中止が命じられ、全員が退学処分をうけるという圧迫もあった。
北陸地方の石川県では、「北国新聞」がいちはやく報道し、金沢市や松任町で伊藤本部講師の「水爆実験反対講演会」がひらかれたのをはじめ、「人類愛善新聞」特集号の一部売りがおこなわれるなど活発な運動が展開されて、ここでもおおきな成果があった。富山県では署名簿を増刷し、ノボリ、プラカードをおしたて宣伝カーをくりだし、街頭署名の運動をおこなった。新潟県でも、街頭にでて、最初の日だけでも五二〇〇余人の署名を獲得したし、長野県でも、婦人会が主体となって、街頭・戸別訪問をそれぞれ分担した。各地域の住民の協力もめざましく、おおくの成果をあげた。
東北では、農繁期という悪条件にもかかわらず、老若男女をとわず各会員が戸別訪問をつづけ、また都市に主力を集中して街頭署名をおこなったし、北海道では、全道の支部おのおのが自主的な運動を展開し、地域に応じて街頭や戸別訪問の活動をおこなった。一日一〇〇〇~三〇〇〇におよぶ署名をえ、当初割当の二万五〇〇〇をかるく突破し三倍ちかくの署名簿を増刷して、各支部の活動も予期以上の成果をあげた。
農繁期などによって運動の実施がおくれた地域もあったが、このほかの地方からもその後ぞくぞく成果が報告された。大本の関係三団体によって四月二五日から全国いっせいに開始された原水爆反対の署名運動は、北は北海道から南は奄美大島にいたる約一〇〇〇ヵ所にわたって、波状的にくりひろげられ、社会のおおきな注目と関心をあつめた。これに刺激された地方自治体・民主団体等が連鎖反応のように原水爆反対にたちあがった。七月には広島県に、原水爆禁止広島県民運動連絡本部が結成されて署名運動にのりだし、また松江では人類愛善会の斡旋で、水爆禁止世話大会が発足した。大阪では水爆対策大阪地方連絡会が約五〇団体の参加をえて署名運動をはじめた。こうして、人類愛善会によってあげられた原水爆反対のさけびは、やがて全国民的な大運動に発展していったのである。
人類愛善会としては、予定どおり五月二五日で署名運動をうちきってこれを国連本部に送付し、原水爆禁止を要請することとなった。五月二五日までに全国各地からあつまった署名数は一四五万五五六一人にたっし、六月三日綾部のみろく殿で署名達成奉告祭がおこなわれた。
その地方別署名数は、北海道八万四八九三・東北五万七一五九・関東六万六三二四・北陸一一万五九一六・東海九万五八一八・近畿七〇万二四八八・中国一五万七二七二・四国七万一一七九・九州一〇万四五一二であった。しかし署名はその後も自主的に継続された。六月一五日には一六〇万を突破し、さらにその後に到着した分をくわえて、八月六日の広島原爆記念日には、署名総数は二〇八万八〇〇〇余にのぼった。その後、マーシャル群島住民の悲惨な被害状況があきらかとなり、七月にアメリカが実験の継続を声明するにおよんで、署名運動はさらに拡大されていった。
大本・人類愛善会における署名運動は、日本における原水爆反対署名運動の先駆であった。一般には、わが国の原水爆禁止運動は、東京杉並区の家庭婦人によって最初の口火がきられ、全国的に拡大したとつたえられているが、杉並の署名運動は原水爆禁止杉並協議会が、一九五四(昭和二九)年五月九日に結成されたのちに開始されている。しかし、人類愛善会が、全国の代表を綾部にあつめて緊急全国会員大会をひらき、原水爆反対の声明・決議をし、署名運動を決定したのは四月五日であり、全国一〇〇〇余ヵ所の支部に署名簿を発送したのは四月一二日、全国いっせいに運動を開始したのは四月二五日であった。大本・人類愛善会の原水爆反対署名運動が、日本で最初の、しかも全国的規模をもつ組織的な運動であったことは特筆されてよい。
〔写真〕
○4月24日ノーモアビキニを神に祈り原水爆禁止大講演会を開催した みろく殿 p1138
○4月25日 人類愛善会 大本青年会 大本婦人会は会員を総動員して原水爆反対署名運動を強力に展開 ……8月に署名は200万を突破し国連と各国首脳へ原子兵器の禁止と破棄を要請した p1140-1141