宗教世界会議にはベトナムからカオダイ教・仏教・カトリック教等の代表者一四人が参加し、一九五六(昭和三一)年四月のみろく大祭には、カオダイ教・ホアハオ教の代表が参列し、玉串を奉奠したが、この機会に、第二次大本事件で中断されていたカオダイ教と大本との友好関係が復活した。昭和三一年には、カオダイ伝教聖会から、同本部の竣成式典をおこない、内外の宗教代表者協議会も開催したいので、大本にたいし代表者派遣方の招請があった。また日本宗教協力協議会からも、同会を代表しての出席をつよく要望されたので、大本では出口伊佐男総長を派遣することとなった。当時は、第二次世界大戦にからか賠償問題がこじれたことから、ベトナムへの日本人の入国は容易に許可されず、入国査証手つづきはきわめて困難な状態にあった。しかし、各教団の代表ら一行五人のうち、出口総長一人だけが入国を許可され、七月七日に羽田を出発した。
翌八日サイゴン市から空路ツウラン市につき、カオダイ伝教聖会の信者数千人に歓迎されて、同本部の竣工式に参列した。ついで九日には、カンガイ市の郊外に建てられた、カオダイ殉教者記念塔での除幕式と慰霊祭に参拝した。一〇日にはツウラン市での内外宗教代表協議会に出席して、名誉総裁に推された。この会議では、人類にたいする現代宗教の必要性と、世界平和確保のための各宗教の協力という二議題が討議された。
一一日にはユエに行き、政府代表の午餐会に招待され、一二日にはサイゴンにおけるベトナム宗教協力協議会結成のための各宗教代表者会議にのぞんだ。これに参加したのは、ベトナムにおける仏教・カトリック教など一五の各宗教団体であった。一五日にはサイゴンの西北方約一〇〇キロのタイニンにつき、カオダイ教の本山で出口総長は最高の儀礼をもってむかえられた。約五〇〇人が参加した歓迎会にのぞみ、その後サイゴンに滞在して各宗教の代表者と会談をかさねて、二〇日にはサイゴンをたって空路香港についた。そして道院・世界紅卍字会で正式参拝し、特別壇訓をうけて、二一日に羽田に帰着した。
このたびの訪問の期間はみじかかったが、この訪問によって、大本とカオダイ教の兄弟的友情の提携を、一段とふかめることができた。その後も通信連絡をとり、「人類愛善新聞」の特別号にはメッセージなどがよせられて、親交がつづけられた。
〈宇都宮憲爾・牧野八郎の中国訪問〉 一九五七(昭和三二)年六月八日から八月四日まで約二ヵ月間にわたって、宇都宮憲爾人類愛善会岡山県連合会長が、岡山県訪中代表団の一員として中国の各地を視察した。宇都宮は岡山県原水協の責任者・日本原水協常任理事として平和運動に活躍していた。
中国滞在中、中国仏教会副会長趙樸初・北京神学院主席王梓仲・道教協会会長岳崇・イスラム協会副会長達岱生・中国YMCA総幹部田景福・中国YWCA主任幹事施如璋・中国仏教会常任理事持松法ら中国宗教界の指導者とあい、唯物論と宗教、社会主義社会の宗教等の諸問題について質問し、意見を交換した。なお宇都宮の訪中にさいし、中国仏教協会あて大本総長のメッセージが託されたが、その後、同協会会長の喜饒嘉よりメッセージがおくられてきた。
宇都宮の訪中につづいて、東海地区特派宣伝使として、三重県での活動に力をいれていた牧野八郎が、第二次三重県平和代表団に人類愛善会三重県連合会を代表して参加し、翌一九五八-昭和三三)年五月二日から六月一二日まで約四〇日間にわたって、中国を視察した。人類愛善会三重県連は、三重県平和委員会・同日中友好協会・同原水協等に加盟して県内の平和活動を推進していた。その代表として訪中した牧野は、出口直日教主によって、〝貧富の差ちぢまりて地の上に争ひのなき世ときけばひたにこひしき〟と染筆された色紙一〇枚を、中国の指導的な人々に贈呈した。また大本青年会から、中華全国民主青年連合会あて友好促進のメッセージを託したが、同会主席劃西元より同趣旨をしるした色紙がおくられた。牧野はパンフレット『大本概要』を持参し、中国における大本宣教の役割をもはたした。
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○出口総長はベトナムのカオダイ教本山で歓迎をうけた 右から5人目総長とカオダイ教幹部 タイニン p1162