さきにのべたように、人類愛善会は、人類愛善による絶対平和の実現にむかって、精力的な活動を展開してきた。しかしそのなかで、人類愛善精神の普及を目的とする日常の活動もまたたゆみなくつづけられてきた。運動をささえる自体組織の強化のために、会員の増加や組織の整備に意をそそぎ、とくに愛善講演行脚や座談会、「人類愛善新聞」による啓蒙活動には血のにじむような努力がかさねられた。人類愛善会員は、〝一枚の愛善新聞売るさへも神国を救ふ神業なりけり〟〝愛善の道を拡むる第一の神器は愛善新聞なりけり〟との聖師の教にしたがい、神業奉仕への自覚にもえたっていたのである。
一九五二(昭和二七)年に人類愛善会の出口すみ子二代総裁が昇天されたのち、三代教主出口直日の総裁就任か懇請されていたが受諾されなかった。一九五五(昭和三〇)年六月九日、綾部のみろく殿で人類愛善会創立三十周年記念祭典および年次大会がおこなわれたが、そのとき三代教主の名誉会長推戴が発表された。総裁でなく名誉会長ならとの快諾をえたからである。その前日の中央委員総会で役員の改選がおこなわれ、出口伊佐男会長・嵯峨保二副会長は留任、出口栄二が副会長に新任されたか、人類愛善会の相つぐ諸運動は、このころからいっそうもりあがってきた。
再発会以来、総本部事務局長をつとめ、「人類愛善新聞」の経営・編集をも担当してきた大国以都雄は、教団の文書室長・総務部長に就任したので、一九五六(昭和三一)年四月からは伊藤栄蔵がその後任をつとめた。そしてこの年の八月には、従来の入会金一〇〇円を三〇円(バッジ付)にひきさげて入会制度を簡易化し、会員の大幅な増加へのみちがひらかれた。
「人類愛善新聞」の本社は亀岡におかれていたが、かねてより編集陣の東京進出が要望されていたので、一九五七(昭和三二)年四月、東京銀座西七丁目の北国新聞東京支社三階に人類愛善新聞東京本社を開設し、四月三日の開設式当日には人類愛善会会長出口伊佐男・同副会長嵯峨保二(北国新聞社社長)をはじめ、人類愛善会の地方代表ら六〇人が参列して編集室で鎮座祭がおこなわれ、午後、同会館四階ホールで、一般関係者を招待して祝賀パーティがなされた。主な出席者はつぎのとおりである(五十音順)。
芦田均 赤城宗徳 赤松常子 浅井栄章 植芝盛平 遠藤三郎 大谷瑩潤 大須賀貞夫 大村謙太郎 大石秀典 大西雅雄 大庭さち子 小口偉一 尾崎行輝 風見章 貴司山治 菊池義郎 来馬琢道 草野一郎 黒田秀俊 小崎道雄 菰田康一 小秋元隆一 児玉呑象 佐々木盛雄 佐藤幹二 佐藤進三 下村寿一 須磨弥吉郎 関屋正彦 千家達彦 竹中勝男 高橋忠作 淡徳三郎 仲原善一 中濃教篤 中村武彦 庭野日敬 野々宮初枝 林屋亀次郎 藤懸静也 藤森成吉 堀江忠男 前尾繁三郎 松岡駒吉 松島栄一 松野奏風 御前茂樹 宮田道三 武藤貞一 矢田挿雲 山田節男 柳田秀一 芳村忠明 リビングストン(学習院教授) ホア(カオダイ教) ニエット(ホアハオ教)。
このように宗教宗派・政党政派をこえて各界の知名人二〇〇余人が参集し、それぞれ祝意をのべ各界からの祝電数十通が披露された。また「人類愛善新聞」五月上旬号を東京本社開設記念号として特集し、一〇万部を発行して一部売りをおこなった。このころから、「人類愛善新聞」の専売制のこころみや、年間とおしての定期購読者の募集にも力を入れ、新聞拡張への努力がはらわれた。
一九五八(昭和三三)年には大本総長の更迭がおこなわれ、出口栄二が新総長に就任して教団の統合刷新が急速にすすめられた。これを機会に出口伊佐男は人類愛善会会長に専念し運動はいっそう充実された。まず、八月七日の中央委員総会で、「一、世界は一つであり、人類は同胞であることを信ずる。二、人権を尊重し、人類愛善の実践に努める。三、宗教、思想、民族、階級等の偏見を除き、平和の社会を実現する。四、戦争と暴力を否定し、軍備の撤廃を期する。五、原子力その他あらゆる科学は人類の福祉増進のためにのみ利用さるべきである。六、民族固有の文化を尊重しつつ、人類大家族的世界機構の実現を期する」との活動綱領を決定し、地方組織の再編強化がはがられた。会員を正会員(会費年間三六〇円)・維持会員(年間一二〇〇円)・特別会員(一時金一万円以上)の三種にわけ、支部は会員二〇人以上、そのうち維持会員五人以上を必要とし、支部三ヵ所以上ある都道府県に連合会をおくこととした。東京には一九五〇(昭和二五)年七月にはじめて東京事務所をもうけ、その後東京出張所としていたが、昭和三三年の一〇月には東京本部に昇格して、本部長は出口伊佐男会長が兼任した。この機会に人類愛善新聞社東京本社も大本東京本苑(台東区池之端七軒町)にうつされ、本苑を拠点として東京での活動が継続された。
一九五九(昭和三四)年八月には、教団大本における外廓団体の統合整備をおこない、信徒即会員として教団と人類愛善会の関係はさらに一体化され、人類愛善運動はいっそう強力に推進されることになった。それと同時に株式会社天声社・社団法人愛善みずほ会・社会福祉法人信光会、およびエスペラント普及会を人類愛善会の外廓団体とし、その機会に三代教主は、大本はじめ関係諸団体を教主の立場で総攬することとなり、名誉会長を辞任された。
この年は、人類愛善会が戦後に再出発してから十周年目にあたっていた。刻々変動する内外の情勢に即応して、八月六日の委員総会では会則をおおはばに改正し、機構の簡素化と責任体制の確立によって総本部の指導体制が強化された。最高の議決機関として評議員会をあらたにもうけ、北海・東北・関東・北陸・東海・四国・九州の各区から各一人、近畿区・中国区から各二人と、会長委嘱の七人、計一八人の評議員が選出された。執行機関としては、従来の常任委員会制にかえて、少数による理事会制を採用し、そのもとに文書室・宣伝部(組織宣伝・国際・編集・青年・婦人の五課)・社会部・管理部をおいて事務を分掌することとした。機構改革にともなう人事として、名誉会長に出口伊佐男、会長に出口栄二、副会長に出口虎雄が就任し、東京本部長は会長の兼任となった。
こうして体制をととのえた人類愛善会は、「人類の幸福は物質的文明の繁栄のみによるものではなく、人間性の確立、人類愛の自覚にまって初めて真の世界の平和、人類の幸福がもたらされる」として、「一人一人の個人生活と密接した人間愛の確立」を重点目標としてとりあげ、一九六〇(昭和三五)年以降さらに地道な運動を展開した。その年の六月には支部設置条件を緩和して単に会員二〇人以上とし、地方組織の拡大がはかられている。
「人類愛善新聞」の執筆は、総本部の役職員ばかりでなく、平和運動の第一線に活躍している各宗派の宗教家・学者・文化人・ジャーナリスト・平和主義者、一般民衆のおおくが網羅され、広汎な人たちのつよい支持協力をうけていた。したがって、たんに人類愛善会の機関紙たるにとどまらず、全国平和運動の共通機関紙たる観があった。
「人類愛善新聞」は、中立の立場で真実をつたえる新聞として、一九六一(昭和三六)年の一月からは、毎号新聞の巻頭に「愛善精神に基づき─人間を尊重し、貧困と社会悪をなくそう。暴力を否定して、世界の軍備を撤廃しよう。憲法を守り、平和の力を盛りたてよう。人種差別をなくし、民族の独立をはかろう。国籍、宗教等を超えて、一つの世界をつくろう」のモットーをかかげた。一九五二(昭和二七)年一〇月、従来の週刊二頁を、月三回(旬刊)の四頁とし、重要な運動の展開にさいしては、たびたび特集号を発行した。また、新年号は昭和三二年以来、毎年一六頁だての編集がなされた。
人類愛善会の活動として社会福祉活動、とくに災害救援をみのがすことはできない。五編四章でくわしくのべたように、第二次大本事件前においてもその活動はきわめて活発かつ迅速であったが、戦後に再出発してからは、二代教主の提唱された「愛善米」奨励の趣旨にそって、ふたたび活発となった。
記録によって主なものをあげると、一九五二(昭和二七)年の鳥取の大火、一九五三(昭和二八)年の九州・和歌山・近畿・北陸の大水害、一九五四(昭和二九)年の洞爺丸沈没、一九五五(昭和三〇)年の新潟大火と南九州の水害、一九五六(昭和三一)年の北海道冷害、一九五八(昭和三三)年の台風二三号による伊豆半島の災害、一九五九(昭和三四)年の伊勢湾台風による東海・近畿大水害、一九六〇(昭和三五)年のチリ地震津波による北海道・三陸地方の災害、一九六一(昭和三六)年第二室戸台風による近畿・北陸の大水害および三陸地方の台風災害と八戸の大火など、つぎつぎと頻発した災害にたいしては、人類愛善会は教団本部や大本婦人会・大本青年会などと協力して対策本部をもうけ、慰問使の派遣、義捐金・救援物資の送達、復旧への協力など組織をあげて活躍した。こうした総本部の活動に呼応して、現地およびその近隣の地方機関が積極的奉仕をおこなったことはいうまでもない。とくに一九五三(昭和二八)年の大水害にたいしては六五万円の義義捐金をおくり、また、四〇年ぶりといわれる北海道冷害・凶作には、「人類愛善新聞」の北海道救援特集号を発行して一部売りを行ない、義捐金二〇万円と二石五斗の米や救援物資をおくった。伊豆半島の罹災者には二四万六〇〇〇円の救援金と五万二〇〇〇点の物資を現地の対策本部へ寄託した。伊勢湾台風のさいは、教主みずから現地におもむいて罹災者を激励し、一二〇万円の義捐金や数多くの救援物資かおくられ、信徒だけでなく一般の人々にもはげましとなった。
こうして人類愛善会では、地上天国建設のため、平和への諸運動を強力に推進しつつ、一方日常生活のなかにあって、社会愛善化への地道な努力かつみかさねられてきた。この実績と、伝統ある人類愛善の精神に立脚して、人類愛善会は、今後さらに組織と力を結集して、現実の社会事象にのみとらわれることをいましめ、神の子としての人間の主体性を確立し、あたらしい人間観・社会観の観点から、社会に内在する「ひずみ」をただしつつ、平和の問題に真剣にとりくんでゆくのである。
〔写真〕
○愛と信義に根ざし平和運動史に輝かしい実績をのこした人類愛善会はたゆみなく前進しつづける 第12回会員大会 綾部みろく殿 p1178
○街頭で……現地で…… 災害救助活動に奔走する会員と信徒 p1181
○一人の生命は地球よりもおもし…… 世界平和万霊慰霊祭 昭和37年 綾部梅松苑 右から大本教主出口直日 清水寺貫主大西良慶 キリスト教牧野虎次 p1182
○平和なる世を祈りて…… 昭和26年 出口直日筆 p1183