霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第一章 公認教と非公認教

インフォメーション
題名:第1章 公認教と非公認教 著者:
ページ:373
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195502c210411
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年9月21日号(第127号) > 公認教と非公認教に就て
[#史料集成では次の部分が省略されている。ここから]
 序でに、公認教の事に就て少し御話ししたいと思ひます。
[#ここまで]
 今日法律上公認教と称して居るのは、文部省の下に在る宗教局に監督をせられて、さうして独立を許されることになつて居る。即ち勅任待遇の管長を戴いて居る。此の宗教を指して独立宗教──公認教と謂ふのであります。それから他に非公認教と謂ふのがあります。是は文部省宗教局の認可監督を受けない、又法律上の管長も無いのである。故に非公認教は、法律上よりの所謂独立はして居らぬけれども、何等干渉を受けない。絶対独立であります。
 「憲法」の第二十八条の精神に依って、宗教の自由は保証されて居ります。大本は之を標榜して起つたところの独立教であります。所謂法律の非公認教であるけれども、実際の力を云へば独立教であります。即ち皇道大本は実際上の独立教であります。宗教局に隷属して居る独立教は、天理教、金光教、黒住教、御嶽教等神道でも十三派に分れて居るが、斯う云ふものは皆文部省宗教局の監督を受けて、管長は勅任待遇を辱ふし、さうして事々物々教義の宣伝を制限されて居ります。宗教家は政治に関与すべからずとか、其外色々細かく制限をされて居ります。皇道大本は何故公認教にならぬかと云ふと、其の理由は此処に在るので、公認教になつたら、神様に仕へる事は出来ませぬ。神は絶対無限のものであります。人間は神様に似て居ると云ふけれ共、又何程賢い人間だと謂つても、神の御心は大海の一滴位よりしか酌み取ることが出来ないものであります。其神の教を俗人の寄つて作つた法律に依つて、之を取締ると云ふ事は、之を監督すると云ふ事は出来ぬ話であります。大本は法律上の非公認教であるから、公認教に直せと其筋から何程言つて来られた所がこんな事には迚もなれない。絶対無限の神の教を俗人が善悪を定めたり、或は認可するとか、せぬとか云ふやうな事を与へらるべきものではないのである。
 到底人間では分るものではない。所謂神の教であります。併し法治国に居る以上公認教非公認教に拘はらず悪い事をすれば同様に罰せらるるのである。非公認教であるから国家が特別に監督を厳にする公認教であるから監督を緩めると云ふ道理はない。皆国家が監督する事は同一であるけれども唯国家と云ふ上から監督せらるるのと、宗教局から監督せらるるとの差異がある斗りである。之は全く矛盾して居ることであつて、宗教局の監督を受けるのを独立教と称し、国家から受けるのを非独立教、非公認教と称して、全く逆様になつて居る。斯んな道理がある筈はない。私は非公認教でも結構であると思つて居ります。
 総て何事でも政治、教育、実業、医学、暦法、天地文学、科学、宗教、哲学、其他一切のものは皇祖皇宗の御遺訓なる皇典古事記と云ふものに包含されて居る。而して皇道は政治の大道が主眼になつて居ります。それであるから皇道を説くには、政治から説いて行かねばならぬ。宗教家となれば政治を論議する事が出来ない。さうして古事記を説くにはどうしても政治に論及せずに居られない。それであるから我大本は公認教となつて、制縛を受ける事を欲せないのであります。
 それからある雑誌に大本は今ああして居るけれど、行く行くは政友会と提携して、百万円の金を出して独立教になるだらう。斯んな事を書いて居ります。嘗て天理教も政友会の為に独立教になつた。又大本教も独立教にさせられるだらう。きつとさう成るに違ひないと、予言して居る雑誌も見ました。実に馬鹿々々しい話で、何を苦しんでかそんな所へ首を突込みませすか。自由自在勝手気儘に神の命ずる随々行つて居る、一つも俗吏の掣肘を受けない所の大本を指して、さう云ふことを言つて居る。実に可哀想な圧迫を受けて、公認教だと言つて居るのは実に憐れむべきで者であります。是等も世間から見て居る事と、大本の見地とは、全く正反対になつて居ります。現に既成宗教の活気の無いと云ふことは、御話にならない程で、彼の世界の大戦争が五年間も続いて居るのに、基督教は之を如何ともすることは出来なかつた。ローマ法王は一体何を為て居つたのであるか、遂に宗教の力を以て、あの戦争を喰ひ止める事は出来なかつたのである。之を見ても宗教信念の力が弱くなつて居ると云ふ事が分ります。又日本国に於ても、今日の思想界の混乱は益々悪化して来る。然るに精神界を支配する所の仏教五十派の円頭滑頂の坊さん達、それから神道十三派の管長達、四十七八派の基督教の大将も、之を如何ともする事は出来ぬ。それで内務大臣も浪花節語や語り侠客を集めたり、或は伊勢参宮を勧めたり、色々な事をして御心配になつて居る様であります。是ば一方から云へば、宗教家に対する大なる侮辱である。浪花節語や語り侠客を頼まないでも、本当の宗教家がある。十万の寺があり、十三派の神道もある。つまり内務省は、所謂宗教家、即ち神道とか、仏教とか、基督教とかを見捨てて了うて、浪花節語を奏任待遇にせられたと云ふことは宗教家に対する非常な皮肉でありまして、之を見ても今日の既成宗教、公認教が役に立たないと云ふことが、歴然たるものであります。斯ういふ宗教と一緒になつて席を並べて、大本教を樹てると云ふことは、神の御名を汚し真正の皇道を毀つことになるから、我皇道大本は既成宗教のやうに、公認教となることを欲しないのであります。さうして我大本は自由自在、天地間に何等の拘束も受けず、真の独立教となつて活動して居るのであります。
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