第九章 天祖の大予言
仏教家の人を誘ひ、以て其教に入らしめんとするや、実に巧みなりと謂ふべし。賢人智者を誘導するには、最も高遠にして難解の教理を以てし、愚俗者を誘導するには、禍福因果の談を以てし、其嚮ふ所に従ひ、方便を設けて之を導き、その哀傷憤怨の際に乗じて之を説得す。故に世人の多くは、其所説に酔ひ迷ひて、自ら之を悟らず。然るに仏者の言ふ所は、皆これ憑虚捏造風を捉へ影を捕ふるが如く、一の証顕有るに非ず。少しく識見を有する者は、固より以て其妄説たるを知るに足る可し。基督の徒に至つては、其術更に巧妙を極む、以為[#レ]事証顕無ければ、則ち人をして信従せしむるを得ず。是を以て証験二項を立て、以て其空理空論に非ざるを表明す。一は先知予言、後事応験を以て証拠と為し、一は非常神蹟、衆人共見を以て証拠と為す。是を以て、其教理洋の東西に蔓延し、識者と雖も亦或は固信して之に従ふに至れり。然りと雖も近世に至つて、人智日に開け月に進み、格物究理の学術益々進むに及びて、基督教の諸々の異能を現はすは、固より其徒の伝導の方便的偽造に出で、又彼の神の奇蹟なるものは、奇異驚く可きが如しと雖も、亦皆山海の形勢、大気の変動及び機械、薬品の致す所にして、決して神の為す所に非ざるを知るに至り、彼の徒の狼狽為す所を知らず、遂には種々の苦策を巡らし、救貧施療等の社会的事業に、慈善的仮面を被りて、僅に教理布衍の命脈を維持するの止むを得ざるに至れり。且つ又その予言なるものは、其所謂聖書に就て之を考ふるに、或は夢寐恍惚、殆んど捕捉すべからず。或は譬喩曖昧の記事を挙げ、或は擬似両端の事を録し、或は荒唐無稽解す可らざるの語を載せたり。後世彼徒の有力者は、種々苦心の結果、乃ち之を牽強し、之を附会し、曰く是れ某時の予言なり、之れ某人の予言なりと。夫の予言と称するもの、亦竟に確拠明徴有り、以て信従するに足るもの有るに非ず。
夫れ予言と曰ひ、神の奇蹟と云ひ、一として信従するに足らざるは、業に已に斯の如し、故に洋人と雖も、知識階級の人士は、亦多く其妄虚たるを暁るに至れり。是を以て基督教の今日の勢力、亦古事の隆盛なるに若かず、殆ど将に廃滅せむとするの兆候あり。古の信徒は、唯単に神の予言と神の奇蹟を以て、其の信仰の眼目となせしが、人文開明の今日にては、却て其予言及び神蹟に因りて、同教の廃滅を兆すに到れり。則ち予言と神蹟の説示は、是将に同教を頽廃せしむるものなり。然るに我皇国の教は、其予言と神蹟を説かざりしか。曰く否、皇国の教は古昔に在りては、即ち予言と神蹟を説く事稀なりと雖も、国祖国常立尊の、地の高天原に顕現し給ひし聖代に在りては、即ち予言と神蹟を説き国民を指導するの急務なるを信ず。古の学者は天壌無窮の予言と、万世一系の神蹟を説きしもの尠く、故に皇道の教理、未だ万国に弘布せざりき、今や天運循環の神律に因り、天祖の予言と神蹟、並に国祖の神訓神蹟を、説く可き時機の到達せるを知る。皇道の大本、皇祖皇宗の御遺訓神蹟にして、明確に宣布されむか、世界万国の民亦必ず、相率ゐて皇道の教理に帰順すべし。如何となれば其予言と神蹟は、確拠明徴あり。以て大に信従するに足るものあるを以てなり。請ふ其説を言はむ。皇典に曰く『豊葦原千五百秋之瑞穂国は、是れ吾子孫の王たるべきの地なり。爾皇孫就きて治む可し。行け宝祚之隆当に天壌と窮まり無かる可し矣』此言や、是天祖の天孫に勅命し玉ふ所なり、天孫彦火々瓊々杵命、此の神勅を奉じて下土に降臨し給ひし以来、皇統連綿として万世一系に渡らせられ、宝祚の隆なる事、果して天祖の神勅の如し。是れ豈に偶然ならむや、是れ山豆に確拠明徴、以て信従するに足るものにあらずや。此の大神勅、即ち吾人の所謂予言は、然も基督教予言の比に非ざるなり。故に曰く、基督教は予言に因りて廃滅し、皇国の教則ち皇道は、必然予言を以て興隆すべしと。