[#大本検挙(藤沼庄平『私の一生』p54~60)]
一、この検挙によつて私は虚名を世に博しました、功は捜査主任の高芝罷警部と平沼検事総長とに在ります。
二、出口氏がやり出してからでも数年、当初婆さんが御筆先を書き出してからは、既に二十年余りもやつて居たのです、第一回世界大戦後、物心両方面の動揺の時であり、米騒動の後であり、文学士浅野和三郎氏が、海軍機関学校教授をやめて、大本に入りあの筆によつて論陣を張りましたので、瞭原の火のように拡がりました。
三、大正八年初め、保安課長中村安次郎君(後の新潟県知事)と岡田警部とをやつて七日間取調を致させました。其出発に際し私は「検挙するのではありません、あの人々が何をいい、何を行はうとするかを、如実に調べて来てくれ」と指示しました。
四、取調書、著書、雑誌等の殆んど全部見ての後に、私は私服単独で大本に行き、報告及び民間に流布された噂による必要な点の視察を致しました、出口氏は案内をしてくれ、私は鎮魂帰神の情況、神殿に於ける神様の配置、ムラ雲の剣、横穴深き所のおこもり処、八重垣神社、神社下の洞穴、武器等の一切を見ました。
八重垣神社のまわりは池です、出口氏は自ら船をこいでゆき舟より上る時に「此処は神聖のところですから下駄をぬいでくれ」といいましたが、私には神聖でありませんから下駄のまま上りました。この小丘の下はすのこ板の敷いてある相当の広さの洞穴です。
五、其の後関係の主務者列席の上で出口氏を三日三晩浅野氏を一日一晩調べました、出口氏は初めの二日二晩は言をアイマイにし、左右にして少しも語りません。最後の一日になりまして、常識にて諒解し得るように、すらすらと語りました。
六、浅野氏の取調中に、君の矛盾か神様の矛盾かという点に来りました時に、同氏はすぐさま神様の矛盾と答えたのです、そこで私は「大本の正邪に関しては何も申しません、中学以来あなたの訳本等を見ている私は、後半世をここに没頭する為に海軍機関学校の教授の職を擲つたることに対しては敬服してるのです。然し神様の矛盾かあなたの矛盾かと問はれて、今後神の道を説かんとするあなたが、言下に神の矛盾と道破する、ゴウマンフソンの態度に対しては諒解し得ません、」というて以後の取調を中止しました。
七、要するに出口氏の真意は他の幾多の先例の如くに一宗を建てたいのです、吾が国に伝統し且つ国民に普遍する皇室尊崇の念に乗じて、出口家が皇統の正系であり、御筆先のホンヤクに当り自由にこれを駆使して、人心を惑乱しこれを捕へんとしたのです。容易に捕へられた者は、ムシロ哀れむべき者なのです、私は一切を慎重に考慮した上、内務省の諒解の下に、警告を与えてこれを放置しました。
八、後で知つたのでありますが、出口氏は取調の為に府庁に出頭するに当り、秘密書類を焼いて居ります。
九、然るに警告後の言動はムシロ益々脱線するし、他人の著書は剽窃するし、宣伝は警告に反しで其度を越えるし、八千代生命社長の小原達明氏から三万円を詐取し、其具体的証拠も挙つたのであります。立宗に関しては多くの先例があることではあり、彼等一党は私をあまく視たのです、私のサーベルは時には活人剣であり、時には殺人剣であり、其の活殺は自在です。
十、訪問さした小田警部に対し小原氏は「自分には三万円は何でもない、僅かの間でも家内が安慰の生活を送つてくれたということで十分です、公けの事件として取扱つて欲しくない」との意向でありました。故に私は彼等が日々皇室尊崇をかざしながら、不敬罪を犯して居るのでありますから、あの人の刀を以てその首に加うるがよいと考えて、詐欺罪の検挙をやめて不敬罪一本でやつたのです、若しこれを併せてやつて居りましたならば、其様相は全く違つて居つたのです。
十一、そこで私は高芝罷警部(宇治市木幡に俳句などひねりながら余世を楽しんで居ります)を主任として捜査に当らせます。非常な苦心と努力の一年八ヶ月を過ぎて具体的証拠を十分に得て、確信を得たのです。
十二、発表後に朝鮮よりの帰途、大阪に立寄られた、後の読売新聞社の小林光政君は顔を合はすとすぐ「よく秘密が保てましたね」知己の言です。出口氏は高芝君が警部であることを知つてるのです、吾等がこれをかくしてるのではありません、終りに近い頃ですが、出口氏は高芝君に、出口氏の秘書の辞令を渡したのです。
周密な、するどい而して大胆な男ですが、秘書の辞令には驚いたらしく早速上京して私の処に参りまして、どうしようかと聞くので、私は「役員連がとがめたら一寸のぞかして、スウト出口氏の部室にゆけ、いいパスだ」検挙後に視察に来た姉崎文学博士に高芝君の報告書を見せましたるところ、精確で要領を得て居るのに驚いて居りました。
十三、時偶大本の言行に対して世論がやかましいので、内務省は警告を与え厳重に取締方を指示して来ました。具体的証拠を握り上局の諒解を得て之を検挙せんと決心したる私は、指令を実行に移し得ません。
十四、京都の検事局は相談に乗つてくれません。私は関係書類を持つて上京しました。内務省の首脳も検挙に気乗りしません、豊島刑事局長に面会しましたところ、平沼検事総長に会うことをすすめられ、その連絡をとつてくれました。
十五、平沼検事総長には、小山松吉次席検事(斎藤内閣の司法大臣)と列席の処で詳細に報告をいたしました。小山検事は予ねてから私の報告を読んで居られたそうで大体を知つて居られ、時々質問をせらるるのです。聞き終つて総長は「京都の検事正に検挙を命ずる、君は帰庁の上よく検事局と打合はせてくれ」とのことであります。
十六、主任検事は決定し、起訴状も作成せられ、大正十年二月十二日末明に家宅捜査を決行することにし、同日全国一斉に新聞に記事の掲載禁止を司法省より命ぜられました。
十七、二月十一日夜、私は官舎より直接電話にて市内の署長を召集しました。私が署長官舎に直接電話したのは、長い警察生活中これが唯一度です、明早朝大本を検挙することを告げ、巡査の非常召集を命じます、約百名です。署長に引卒せしめて大部分京都駅に集合せしめ、新舞鶴行の乗車券を渡します、駅長には内密に始発第一輔の客車に、各署別に警察官のみを乗車せしめたのです。
十八、車中に入つた警察官はお互に舞鶴工廠のストライキだろう、いや年度末の演習だろうと中々騒々しかつたそうです。二条駅発車後全員に対して大本検挙を発表し、各人に対して綾部駅に下車する迄に、具体的に其用向を指示します。何某検事は誰々と共に、何某の家に家宅捜査に行くというが如くにしたのです、この日は京都ばかりでなく、大阪よりも多数の予審判事や検事が応援に来て居ります、発表のとき始めはワッと喚声を挙げたが暫くしてシインとなつたそうです、身の危険に想達した為と想はれます。綾部駅にては福知山署より参りました巡査と勢揃をして、所定の組を編成します。大本の周囲を包囲警戒する廿名余の正服は、アゴ紐をかけ剣柄を握り、将に明けんとする朝モヤの裡を緊張して堂々と進む様を、私は下車後直に署に入り、応接室より見て居ります。
十九、家宅捜査の箇所は京都、八木、亀岡、綾部の四箇町、二十数ケ所に及びました。予審判事の命によつて綾部の電信電話を遮断し、出口氏は大阪の大正日日新聞社長室より、浅野氏は自宅より同行します。
二十、十二日夕刻綾部より帰りまして、私の部屋に早朝より待たしてありました出口氏に「私の用件を申しましたが、実は予審判事の命によるのです」と申しますと出口氏は、「藤沼さん不敬罪ではないでしような」その敏感、その急所。
二十一、当時私を暗殺するという噂が盛んでした。検挙後その状況を内務省に報告して帰洛の汽車中私と寝台が同室内の対角線上にあつたところの客が、浜松近くで刺殺されましたが、これは外に確かな証拠があつて、誤殺ではありません。
二十二、インフルエンザでなくなつた為に急遽新設された婆さんの墓所は省令違反の為大部分を取壊はしました。取りこはしたのは法令に違反する地上の部分だけで、此の新墓地は役場の不正申達と警察の調査不十分のため設定せられ、御陵に似た宏大なものであります。
二十三、この検挙に当りて苦心惨担たる時に世間では私が同情に過ぎて放置すと非難したものです。又若し捜査が完了しない時に転任を命ぜられて居りましたならば、事件は暗から暗に葬られて居たかも知れません。警察の執行務は水の流れに棹を入れるようなもので、世間の人々は多くは結果から逆論します、私は事態を直視し良心にかえりみ、一切を傾けつくしてこれに当つただけです。
二十四、出口氏は第一審で七年の刑を宜告されて其控訴中に、大正天皇崩御によつて特赦になつたのです。其の中に満洲に行つたりなんかして問題を繁くしたのです。詐欺罪を捨てずに共にやつておけばあつさり片付いていたのです。